帝国の陰
ヴィクトル・ロマノフⅡ世。
東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の曾孫。皇太大甥セルゲイと対比して、皇太曾孫とも呼ばれている人物。
春戦争勃発の一因は彼にあるし、そして今はシレジアにいる。
なぜ亡命してきたのか、なぜシレジアなのか。そう考えると食欲が……、
「――佐。ユゼフ少佐」
「……あ、はい? なんですかフィーネさん。料理に蠅でも入ってましたか?」
「もしそうだとしたら少佐ではなく店員を呼んでいます」
エミリア殿下から一通り話を終えた後、軍事査閲官執務室の外で待っていたらしいフィーネさんに連行されて、現在俺はクラクフ市内にある喫茶店「馴鹿座」にいる。近年増えつつある中間所得層向けと言った感じの店構えだ。
つまり伯爵家令嬢であるフィーネさんには似合わない店。だが、
『少佐と喫茶店でお話をするのは、割と楽しいですから』
とのことである。俺が大使館勤務だった時によく行った「百合座」の話をしているのだろう。店名も星座繋がりで、なんとも芸が細かい。
ま、俺としても伯爵家令嬢という格に見合った店に連れて行かれても困る。たぶん田舎者感丸出しでキョロキョロしてフィーネさんに恥かかせるだろうから。
閑話休題。
「この店に来てから3回ほど魂が抜けているようですが、何かあったんですか?」
「いえ、別に大したことでは……」
「大したことないのに少佐は魂が抜けるのですか。……それとも、私と一緒にいるのが嫌ですか?」
怒ったような声色から、一転して寂しがるような声と表情をするフィーネさん。
「いやいやいや、まさかそんなことは。フィーネさんのような綺麗な方といるのは大変光栄です、はい」
「ふふ、そうですか。では私と恋仲になって結婚する話も了承されたということで……」
「待ってくださいそこまでとは言ってないです」
毒を吐いたり怒ったり寂しがったり笑ったり冗談を言ったり。依然表情は固いけれど、随分芸達者になったものだと感心する。これが恋の力なのだろうか。
……いやそもそもの話、彼女が俺に恋愛的感情を抱いているという実感が全然わかないというのが正直なところで。
「いくらそう言ったところで、私は諦めたりはしませんよ少佐。マリノフスカ少佐との仲も進展なしのようですし、私にも可能性があるということなのでしょう?」
「……何をどう推理するかはフィーネさんの自由ですけど、何度も婚約拒否してるのですから諦めたらどうでしょうか」
「欲しいものは何としても手に入れたい主義なのですよ」
リンツ伯爵家の女子はみんなそうなんです、と彼女は続ける。
それは最近のフィーネさんの様子を見ればわかる。
そして感心するのは、彼女の父親、つまりリンツ伯の力を一切借りていないところ。
正直な話、リンツ伯が政治的・権威的・権力的、あるいは軍事的な側面から俺に対してフィーネさんの婚約を差し出して来れば、俺としては選択肢がない。リンツ伯の性格を考えると、それをしないとも言いきれない。あの人はそういう人だ。
でも、フィーネさんはそれをしない。それが彼女の矜持なのだろうし、リンツ伯もそれを尊重しているのだろう。
そういうのは好きだよ。いや恋愛的な意味ではなく、単に趣向の話だ。か、勘違いしないでよね!
「話を戻しますが、魂を空中に漂わせて何を考えていたんですか、少佐?」
先程注文した軽めの夕食を食べ終えて、食後のデザートに移っているフィーネさんがそう聞いてきた
「機密につき、申し上げられません」
「……そうですか」
少し、フィーネさんは残念そうな顔をした。
そういう表情をして俺から情報を引き摺り出そうとしているのか、はたまた本当に残念だと思っているのか。
「機密の内容に触れない程度に、相談くらいなら乗りますが?」
「いえ、その必要性はありません。それに、まだ自分の中でもしっかりと情報を整理できていないですから、どのみち喋れないのですよ」
整理ができたところで話せないのには変わらないのだが。なんてたって、いるかどうかわからない神とかいう奴と、敬愛するエミリア殿下に誓ったのだ。
だからエミリア殿下が俺に話した内容は、フィーネさんには明かせない。
……いや、これはちょっと不正確かな。もっと適確に言えばこうだ。
相手がオストマルク帝国情報省所属のフィーネ・フォン・リンツ少尉だと、この内容は話せない。
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少し時間を巻き戻す。
エミリア殿下に引き摺られて、軍事査閲官執務室に来て、そしてヴィクトルⅡ世が亡命してきたという事実を告げられた時まで戻す。
「……殿下、いくつか質問をしても?」
「構いません」
「ありがとうございます。まず1つ」
俺はそう言って、少し間を置いた。ちょっと脳内の記憶を穿り返すためだ。
「失礼、まず1つ目ですが……私の記憶が正しければ、皇太曾孫ヴィクトルⅡ世が生まれたのは大陸暦637年5月29日。つまり亡命してきたその人物は1歳になったばかりということですよね?」
「ユゼフさんの記憶は間違っておりません。私もそのように記憶しております」
エミリア殿下は即答する。剣兵科三席の優等生が正しいというのだから、やはり俺の記憶は間違ってはいない。
「……2つ目の質問です。1歳というと余程の天才でもない限り、歩くことも喋ることも出来ないはずです。当然、自由意思で亡命してくるはずがないですよね?」
1歳になったばかりの赤子が「ごめんなさい親戚から殺されそうなんで逃げてきました」と言いながらハイハイで亡命するはずがない。してきたらほとんどホラーだろう。
無論、エミリア殿下の返答は「肯定」だった。
となると問題となるのは……、
「では、誰がその子供を連れてこの国に来たのです?」
これだ。
亡命ではしばしば、誰が亡命してきたかよりも、誰が亡命させたのかのほうが重要になる。今回がまさしくそうだ。
数秒経って、エミリア殿下が答える。
「……ヴィクトルⅡ世の母親、皇帝イヴァンⅦ世の孫娘、エレナ・ロマノワ。そして彼女たちに付き従う皇帝派貴族。近侍・執事を含めた亡命者の総数は9名です」
「……そうですか」
意外のような、そうでもないような。
表面上は単なる亡命に見える。
でも裏に事情があるのではないか。いや、あるだろうな。政争に敗れたとは言え、皇族だ。政治的な背景があるはずで、それが現帝国宰相セルゲイ・ロマノフの策略によるものだとしても、別に驚きはしない。
そこら辺の事情を聞いてみたが、殿下は首を横に振った。詳細は不明であるらしい。
エミリア殿下曰く、皇太曾孫一派がシレジア王国に亡命してきたのは7月2日のこと。東大陸帝国領ベルス、つまりエーレスンド条約によって設定された非武装緩衝地帯に彼らがやってきて、亡命の意思を表明したらしい。
ベルスにいた駐在武官は当初、女性が抱えている赤子がヴィクトルⅡ世だとは信じなかった。当然だ。顔を知っているはずもないし「ちょっと身形のいい貴族か資本家が亡命してきただけ」と思った。実際その手の亡命は、既に前例があったため、今回もそうなのだろうと高をくくっていたわけだ。
ベルス駐在武官は、東大陸帝国臣民が亡命を希望したという情報を内務省に報告した。通常、亡命者の報告は外務省にするのだが、外務尚書は大公派、駐在武官は王女派で、そして亡命者は恐らく格式ある人物。であれば、同じ王女派である内務省に報告して有効に活用してほしい。そう考えての行動だった。
今回はその駐在武官の判断に助けられた。
内務省治安警察局がベルスにやってきて、彼らの身元を精査。その結果、赤子は本当にヴィクトルⅡ世だったことが判明した。
すぐさまベルスのシレジア公館職員には箝口令が敷かれた。
皇太曾孫一派は内務省によって身柄を保護され、そして現在シレジア南東部の地方都市ヤロスワフにて一応の礼遇でもって迎えられている。
「つまりヴィクトルⅡ世がシレジアにいることを知っているのは、在ベルスシレジア公館職員、内務省、そして私とユゼフさんだけです」
「なるほど。ですがそれは……」
「えぇ。時間の問題です。帝国が気付くやもしれませんし、箝口令を敷いたと言っても人の口を完全に閉ざすことはできません」
そう言って、エミリア殿下が資料を俺に渡した。表紙にはご丁寧に赤字で「重要機密」「非公開」「複製厳禁」と書かれている。資料作成者は内務省治安警察局局長の名だった。
資料の中身は簡素だった。
亡命者の名と身分、情報が乗っているだけ。しかし1枚目から「ヴィクトル・ロマノフⅡ世」と書かれているのだから、実質以上の重みをこの資料から感じる。
とりあえず情報を精査するのは後にして、エミリア殿下に最後の質問をすることにした。
「殿下。最後に1つだけ、よろしいですか?」
「どうぞ」
「……この情報が重要な機密であることは理解しました。しかし、なぜフィーネさんにも言ってはならないのでしょうか?」
サラやラデック、そしてマヤさんならまだわかる。彼女たちは正式には軍人だし、情勢が定まっていない時点でこの情報に触れるのはまずい。しかもサラの場合なんかの拍子で喋ちゃいそうだし。
でもフィーネさんは違う。彼女はオストマルク帝国情報省第一部所属の人間。言わば対外諜報の専門家である。だが殿下は、この情報をフィーネさんに教えて意見を聞くことを良しとしないようである。それはなぜか、気になった。
俺の質問の意味を理解したらしいエミリア殿下は、少し悩んだ後、小声で答えてくれた。
「……ヴィクトルⅡ世の母親、エレナ・ロマノワの証言です」
「証言?」
「はい。その証言が無視できぬもので、そして全体の情勢がまだ見えない状況にあったため、慎重を期してオストマルク側に情報を流さぬようにしているのです」
エミリア殿下はそう言ってから、俺に資料を見るようジェスチャーした。
何枚かページを捲ると、最後の方に各人の証言が乗っている。「彼ら、特にエレナ・ロマノワに関してはやや興奮した状態にあったため、情報の真偽については疑問の余地あり」という注釈がついていたものの、その証言は興味深かった。
エレナ・ロマノワ曰く「セルゲイはオストマルクと結託し、私たちを排除しようとしていた」と。




