リンツ家姉妹の初恋事情
暦を遡り、6月27日のこと。
オストマルク情報省第一部で働く女性士官、フィーネ・フォン・リンツは久々に戻ってきたリンツ伯爵邸内にある自室、その寝具の上で大いに悩んでいた。
彼女が抱えている悩みの種は、国家レベルのことから個人のことまでと幅広いが、最も深刻に悩んでいたのは個人的なものだった。
「我ながら……なぜあのようなことを……」
部屋の外にいる人間にも気づかれないよう、フィーネは目頭を押さえつつひとり呟いていた。
フィーネ・フォン・リンツは、ユゼフ・ワレサという人間に対して恋愛的感情を持っている。そして5月7日、カステレット砦にてその想いを伝えた。やや恥ずかしい形で、であるが。
彼女が悩んでいるのは、まさにその恥ずかしさである。
「いくら気持ちが昂ぶったとはいえ……いくら『躊躇うな』と言われたとはいえ……」
フィーネはかれこれ、このことで1ヶ月は悩んでいる。あの場でやったこと、あの場で言ったこと、それを思い出しては赤面して目頭を押さえたり枕に顔を埋めたりする日々が続いている。彼女を知る人物がこの現場を見れば、間違いなく違和感を覚えること請け合いである。
だがその前に、彼女自身が違和感を覚えている。
それもそのはず。彼女は感情よりも理性を優先する人間だからだ。
フィーネの脳内で理性と感情が相反する結論を出した時、彼女は理性が出した結論に従う。今までもそうだったし、これからもそうだろうと考えていた。だが、カステレットでは違った。
「ユゼフ少佐に出会ってからというもの、感情に動かされることが多くなりましたね……。これがこのまま続いたら私は私でなくなってしまうような……」
そう呟いた時、背後から衝撃が加わった。そして聞き慣れた、そして聞きたくなかった声が耳元からしたのである。
「いいじゃないの! 感情があるのが人間の最大の特徴なんだから!」
「お姉様!? いつの間に!?」
フィーネの姉、リンツ家の長子、将来恐らくリンツ伯爵家の家督を継ぐクラウディアである。
「一応ノックはしたし、フィーネにも声を掛けたよ? でも随分悩んでたから、気付かなかったのかもね」
「…………私の聞いてました?」
「バッチリ。フィーネの意外なところ、また見ちゃった」
「………………」
この日、フィーネはまたしても姉に弱みを握られてしまった。しかも完全に自分の落ち度である。しかしクラウディアは、項垂れるフィーネをからかうことをせず、彼女の隣に腰掛けてこう言った。
「フィーネ。そういうことは1人で悩んでいても大抵は解決しないよ?」
「……そういうものですか?」
「うんうん。私にも経験あるからね。いつの事だったかな……」
クラウディアは、ある話をした。珍しく真面目な顔で、そしてまた最近にしては珍しく、仕事でもない、国の事でもない、個人的なことを語った。
クラウディアの初恋は、彼女が貴族学校の5年生で15歳だった時。相手は2歳年下の、有名貴族の子息だった。リンツ家自体は、子爵家とはいえまだこの時は無名だったが、クーデンホーフ侯爵の孫娘と言うことで、彼女もそれなりに有名だった。そのためクラウディアは「自分にも可能性はある」と信じ込み、誰にも相談することなく彼に対して積極的に行動した。しかし、
「私の猛攻撃は、結局全部無駄、徒労、無意味に終わった。相手の弱点も好みも何も知らず、ただ自分の信じる道だけを貫いた結果、間違った道をひたすら突き進んだ。その結果は、奈落の底。彼は私が恋に目覚めてから3ヶ月後に、別の女性とお付き合いを始めた。しかも、その女性は私の元同級生」
「……」
「誰かに相談したりすれば、そんなことにはならなかったかも、と思ったよ。彼についての情報も得られたし、もしかしたら私と彼は両想いになれた……かもしれない。私は結構すぐに立ち直れたけど、それは個人差はある」
「…………」
「だから、結果的に成就するにせよ、失敗するにせよ、こういう色恋沙汰は相談した方がお得だよ? 別に今更、フィーネからワレサちゃんを奪おうだなんて、思ってもいないから」
「……どうだか」
クラウディアの長い昔話の後、フィーネはジト目でそう呟いた。カステレットでのあの過剰な触れ合いを見ただけに、どうにも信用が出来なかったのである。
「本当本当。フィーネがワレサちゃんに本気であればね」
「……私は本気です。だから、今真剣に考えてたんです」
毅然と、フィーネは姉に宣言した。
「ならよろしい。で、何を考えていたの? まさかキスしたことをいつまでも引き摺って赤面して寝具の上をゴロゴロしてるだけじゃないんでしょう?」
「あの、お姉様それなんで知って」
「あ、本当なんだ。適当に言ったつもりだったんだけど」
フィーネはまたしても、クラウディアに負けてしまった。情報省に勤務する情報の専門家が、古典的な罠にはまってしまったのである。
彼女はまたしても自分の無能さと姉の狡猾さを恨んだが、一方の当事者たる姉はそんなことお構いなしに話を続ける。
「で、どうなの?」
「……とりあえず、クラクフに戻ります。いつまでも領事館の仕事をベルクソン氏に任せるわけにはいきません」
実を言えば、彼女はオストマルクに戻る必要はなかった。
一応彼女は、エーレスンド条約とその会議の場における各国外交使節の情報を情報省に送るという任務を帯びていたのだが、別にそれは信頼できる人物、例えばクラウディアのような人間に任せても良かった。
それをしなかったのは、ユゼフとのキスが恥ずかしくなって帰りたくなった、ただそれだけである。
だがいつまでもそうするわけにはいかない。
彼女がクラクフを離れている間、彼女の恋敵であるサラ・マリノフスカが積極的行動をするに違いないのだから。
「うんうん。その後は?」
「その後は……」
数十秒溜めてから、フィーネはようやく答えた。
「臨機応変に、します」
「8点」
フィーネの回答に、クラウディアは即行点数を付けた。
「何点満点ですか?」
「6万5000点満点かな」
「私の評価低すぎませんか」
「フィーネの答えがダメすぎるの。あれからもうすぐ2ヶ月経つのに……もうちょっと真剣に、具体的に」
「そう言われても……何をすべきかわからないので」
「はぁ……」
クラウディアのこの溜め息の意味は、2つある。
1つは、妹が思った以上にポンコツである点。
もう1つは「キスまでやってのけたのに、そこから先に進む勇気と知恵が足りない」という点である。
だがそれ故に、クラウディアは相談のし甲斐があるというものだ。彼女は妹にばれないよう密かに微笑むと、フィーネにこう言った。
「よし、お姉ちゃんがみっちり鍛えてあげよう!」
こうして彼女たち姉妹は、度々会って「どうすればユゼフ・ワレサとかいう人間を落とせるか」を話し合った。
それは、久々の姉妹の楽しい会話であったのかもしれない。
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フィーネがオストマルクを発ったのは、7月7日の事である。
出立の時、クラウディアはフィーネを励ました。
「どっかの誰かが『初恋は破れるものだ』とか言ってたけど、私はフィーネには実ってほしいって本気で思ってる。だから頑張ってね!」
「当然です。お姉様のようにはなりません」
「うむ。それでこそ我が妹だ!」
そんな言葉を交わしつつ、姉妹は別れた。
街道を走る、フィーネの乗る馬車を見送りながら、クラウディアが呟く。
「ま、私の初恋の相手はフィーネとワレサちゃんのせいで、貴族位を剥奪されたあげく辺境に流刑されてるんだけどね」
クラウディアの初恋の男性の名はヘルムート・ギュンター・フォン・ホフシュテッター。前内務大臣にして、ベルクソン事件の主犯であるシモン・フリッツ・フォン・ホフシュテッター伯爵の息子である。




