伯爵家の娘
帝国宰相セルゲイ・ロマノフが、帝国内だけでなく全大陸国家に自身の政策を発表したのは、大陸暦638年1月3日の事である。
彼が発表したその政策は、大陸中に衝撃をもたらしたことだけでも評価できるものだった。
当然ながら、それらの情報はオストマルク帝国情報大臣の耳にも自然届いた。
「これをどう思う?」
情報大臣ローマン・フォン・リンツ伯爵は、目の前に立つ女性に話しかけた。まだ若く、少し幼さの残っている顔つきだが、既に幾度の現場を経験して確実に自身の才を伸ばしている、自慢の娘に。
「どうもこうもありませんよ。これだけでは情報が足りない、もっと多くの情報を集めなければなりません。具体的には、予算の変動や政府要人の具体的な動向、特にレディゲル侯爵が何か積極的に動いているようですから。まずはそこを調べる必要があると思いますよ、お父さん」
彼女は毅然とした態度で、そして正確な論評でそれを父に伝えた。
それを聞いたリンツ伯は満足げな顔で大きく頷く。
「流石、我が愛娘だな。これなら安心してリンツの家名を継いでくれそうだ」
「私はまだ継ぐとは言ってませんが」
「それは困る」
リンツ伯は本当に困ったような顔をした。情報大臣がこうも感情を表に出すことは本来ないのだが、それは愛する娘を前にすれば自然と顔はほころぶものである。つまり俗的な言い方をすれば彼は「親バカ」なのだ。
リンツ伯と今会話しているのは、リンツ伯爵家の長子にして、何もなければ将来そのリンツ伯爵の家名を継ぐ者。今年20歳となるクラウディア・フォン・リンツである。彼女の顔と性格は妹のフィーネと似ているが、これはリンツの血統を受け継ぐ女性の特長である。
クラウディアの現在の地位は、オストマルク帝国外務大臣秘書官補。つまりリンツ伯の義父、クラウディアやフィーネの祖父であるレオポルド・ヨアヒム・フォン・クーデンホーフ侯爵の部下ということになる。彼女は祖父の命を受け、父親にこの帝国の若き宰相の情報を提供しに来たのである。
「まぁ、具体的な内容はともかくとして、この帝国新政策は成功すると思うかね?」
「……わかりません。帝国宰相セルゲイの度量次第かとは思いますが」
東大陸帝国は3つの重大政策を幹とし、それに多くの政策が付随する形となっている。当然、その幹となる3つの政策が重要となるわけだが、彼らはその斬新さに目を惹いている。
「農奴解放、反シレジア同盟を始めとした外交政策の抜本的見直し、そして軍縮。東大陸帝国にしては随分思い切った改革だ。特に大陸帝国建国以来、1000年近く続いた農奴政策の撤廃などというのは余程の大転換と言っても良い」
「反シレジア同盟の見直しと軍縮についてもそうですね。それともこれは、あの大国の財務状況が悪くなっていることの証左なのでしょうか」
「わからない。確かにそのあたりの情報を集めてみるしかないな」
セルゲイの発表は、まだその表題が示されただけである。具体的な内容については言及されておらず、特に各国が注目している軍縮の規模についても不明だった。
その点に思いを馳せたリンツ伯は、ふとある人物の名を思い出す。
「私の友人なら、あるいは答えを導き出せるかもしれない」
「友人?」
「あぁ。友人で、フィーネの婚約者だ」
「……え、あの子婚約者いたの?」
クラウディアにとって、その婚約者の情報は寝耳に水だった。セルゲイの新政策がどうでも良くなるくらいには衝撃的な情報だった。
「と言っても、まだ先方は承知していないがね」
「……」
つまりはリンツ伯の企みのひとつであったのだが、クラウディアはその企みが成功することを半ば確信していた。なぜならば、自分の父親がそういう画策を失敗したことがないからである。表向きは何もしていないと見せかけて、裏で凄まじく悪事を働いていたとしても、クラウディアは驚かない自信がある。
「まぁ、お父さんの妄想縁談はともかくとして、その友人に聞けば答えがわかると?」
「そういうことだ。と言っても、答えを聞きたくても彼は今この帝国にはいないから無理なのだが」
「……と言うと?」
クラウディアの質問に対し、リンツ伯はニッコリと、意味深に笑みを浮かべる。
「彼は今、歴史の最前線に立っているよ」
父の言葉に、クラウディアはその「友人」とやらに初めて興味を持ったのである。いったいどんな人物なのか。伯爵の友人というのであれば、やはり帝国爵位を持つ者なのかと想像していたのである。
だがクラウディアの想像は全て外れていた。そのリンツ伯の友人は、当時まだなんの貴族的称号を持たない農民出身の士官だったのだから。
クラウディアは暫く想像の翼を広げていたものの、リンツ伯はすぐに話の方向を元に戻した。
「ま、事の次第はともかく、これでセルゲイ・ロマノフが次期皇帝たる器と資格を持っていることは証明された。彼自身がこれを考え見出したのでなかったとしても、このような大改革を是認するだけの度量はあることには違いない。そう言う点では、彼は名君となることを約束されたも同然だ」
リンツ伯の論評は正しく、そして危険な結論でもあった。
隣国の、最大の仮想敵国である東大陸帝国に名君が生まれたことは、オストマルク帝国にとっては看過できない問題だった。これをどう切り抜けるかが、今後の帝国の存亡を決める最大の鍵となる。
クラウディアも同じ結論に達していた。だが同時に彼女は、父親とは別のことを考えていた。
それはシレジア王国と手を結ぶことが本当に良きことなのか、ということである。東大陸帝国が再びシレジア王国に対し戦争を仕掛けたらば、先の春戦争のようには上手くいかないことは確かである。
その時、オストマルクはどうするか。シレジア王国が滅亡してしまえば今までの努力は無駄になるどころか、東大陸帝国に目を付けられ近い将来に戦争になるのではないかという懸念があった。
今からでも遅くはない。リンツ伯か、クーデンホーフ候に相談してシレジア分割論を高めていくべきではないかと考えたのである。
「ところでクラウディア、話は変わるが……」
クラウディアがやや危険な方向に思考を巡らせていた時、急にリンツ伯がまたしても話題を急転換させたのである。
「なんでしょうか?」
彼女の単純な問いに対し、リンツ伯も明快な答えを彼女に返した。
「クラウディアにも縁談の話がいくつかある。興味あるか?」
その時、情報大臣執務室は数十秒間の静寂に包まれた。
何せ、この父親が縁談の話を持ってくることは今回が初めてだったこと、そしてリンツの家名を継がせる気で、且つ結婚によってさらなる家の発展を目指すとなると、相手は余程の高名な人物となる可能性がある。
クラウディアはやや返答に困った。だが彼女自身、そろそろ結婚しないとまずいのではないかと考えていただけに、これは好機とも言えただろう。
「…………あまり興味はありませんが、伺いましょう」
クラウディアは、平静を装って、さも嫌々という風でそう答えたのである。もっとも、実の父で情報の専門家たるリンツ伯に通じるかどうかと言えば、微妙な策だっただろうが。
大陸暦638年1月3日。
その日はリンツ伯爵家の長子クラウディア・フォン・リンツが縁談を受け入れた日であり、そしてカールスバート内戦において王権派・シレジア王国連合軍がロシュティッツェ会戦において国粋派を打ち破った日でもある。
 




