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大陸英雄戦記  作者: 悪一
第60代皇帝
239/496

帝国宰相

「俺には、なんであの皇帝が病床に伏してるのかさっぱりわからんのだ」


 東大陸帝国の帝都ツァーリグラード、その行政区の外れに立つ宰相府執務室の主は唐突にそんなことを言った。会話の相手は、執務室で彼と共に執務に励む友人兼侍従武官である。


「突然どうされましたか、宰相閣下」


 侍従武官の言葉に対し、宰相閣下と呼ばれた男の名はセルゲイ・ロマノフ。東大陸帝国第59代皇帝イヴァン・ロマノフⅦ世の大甥、帝位継承権第一位にして帝国宰相の職を数日前に病床の皇帝より賜った人物である。本来では「セルゲイ殿下」と呼ぶのが通例だが、セルゲイは友人に「殿下」と呼ばれることはあまり好きではなかった。


 彼はロマノフ皇帝家の証たるその特徴的な銀髪を掻き分けながら、友人に言葉を返した。


「知ってるかクロイツァー。あの皇帝、あんなお粗末な戦争に本気で勝てると思ってたらしいぞ?」


 クロイツァーと呼ばれたその青年の全名はミハイル・クロイツァー。春戦争時点では彼はセルゲイ親衛隊の隊長の地位にあったが、現在は少将となって宰相たるセルゲイの侍従武官として宰相の執務の補佐をしている。


 クロイツァーは、仮にも帝国最大の権威者である皇帝をバカにするような言動を繰り返すセルゲイに肝を冷やしていた。執務室は現在セルゲイとクロイツァーのみではあるが、もし万が一盗み聞きされていたらと思うと気が気でなかった。


 そのためクロイツァーは出来る限り声量を抑えて返答するのだが、当のセルゲイは若く覇気に富んだ声を抑えようともしない。


「確かに彼我の国力差は歴然だった。あの野郎が適当に政務を放置していても帝国がなんとか回っていけるくらいにはな」

「国力差が歴然であれば、帝国が負けるはずがない。そう思うのは必然でしょう?」


 この言葉は、嘘偽りはない。彼の目の前にある帝国統計局が提出した資料に書いてある数字が嘘偽りのものでなければ、東大陸帝国とシレジア王国の国力差は巨人と赤子ほどには違うのだ。


「昔からよく言うだろう。『負けに不思議の負けなし』とな。負ける側には負ける理由があるのさ」

「……その理由について、閣下には心当たりがおありのようにお見受けしますが」

「そうだな。帝国が負けた理由は、思いつく限りでは3つある」

「……意外に多いですね」

「そうでもないさ。たぶん細かい理由を上げていれば際限がないと思うぞ」


 セルゲイはそう言うと、目の前にあるコーヒーに手を付けた。皇族と言うだけあって質の良い豆と高級な陶器のカップを使っているが、それ以上にそのコーヒーを飲むセルゲイの所作はその華麗な見た目に相応しいものであった。

 ただひとつ難点を挙げるとすれば、そのコーヒーには角砂糖5個とたっぷりのミルクが入っていたことであるが。


「細かい理由はさておいてだ、帝国が負けた理由は3つ。補給、時機、そして目的だな」

「……補給はなんとなくわかりますが、後の2つは?」

「そうだな。順番に教えようか。まぁ、補給は言わずもがなだな」


 東大陸帝国が、旧シレジア領ヴァラヴィリエの割譲を事実上認めた「ギニエ休戦協定」が結ばれた理由は、ヴァラヴィリエの後方補給基地が王国軍騎兵隊の活躍によって壊滅させられたことが原因の1つである。


「それに予備を含めて50個師団に後方支援部隊、合計60万の大動員を行ったくせに徴発できた食糧物資の量は過小だった。補給基地の警備態勢が脆弱だったこともそうだが、どうにも兵站の不備があったことは拭えない。軍令部は略奪が前提の作戦を策定していたようだな」

「となると、敵が焦土作戦を取っていたら……」

「我が帝国軍は正面兵力40万を丸々失う結果となっただろうな。シレジア側の被害も相当酷くなっただろうが、もしかするとシレジアが逆攻勢作戦を行うかもしれなかった。そう考えるとよくあの程度の敗戦で済んだものだ」


 セルゲイはやや自嘲しながらそう言った。もしシレジアがその策を取っていたのならば、予備戦力として派遣された彼自身も戦死していたことは疑いようがない。

 だが同時に、シレジア王国が未だに第一次、第二次シレジア分割戦争時の敗戦の傷を引き摺っており、財政的にも経済的にも余裕がないことはセルゲイも知っていた。焦土作戦を取れば国土の過半が焼失して国力が半減し、逆攻勢作戦を行えるだけの兵站と兵力を維持できないと彼は理解した。


「兵站を維持するためにはまず国力を底上げする必要がある。国力とは即ち兵站の維持能力の事であり、そして兵站能力が高まれば多数の兵を養い、士気を維持することが叶う。国力の差が戦力の決定的差であるのはこういうことだ」

「なるほど。内政を放置していた皇帝陛下には到底無理な話、というわけですか」

「そういうことだな。クロイツァーも言うようになったじゃないか」


 セルゲイは、その友人の言動が可笑しくてたまらなかった。

 先ほどまで自分の皇帝批判を慌てた様子で見ていたクロイツァー自らが不敬な発言をしたためである。


 そのことに気付いたクロイツァーは、二度三度咳き込んでそれを誤魔化し、セルゲイに続きを話すように暗に促した。


「シレジア王国に対する復讐戦の声はないわけじゃないし、俺自身したい気持ちもある。だが帝国の今の惨状からはこれは無理だ。暫くは国力回復に努めるさ。ヴァラヴィリエなんて辺境に固執する理由もないしな」

「敗戦によって国民の間には厭戦気分が高まっていることも確かですし、高級士官の不足も目立っています。再戦は無理でしょうね」


 帝国軍の平時戦力は400個師団。春戦争による兵力の損失は、巨大な人口を抱える帝国においてはすぐに回復できた。だが高級士官の損失の補填は一朝一夕でなるものではない。更に言えば、セルゲイは政敵である皇帝派の貴族士官を使うことはできない。


 もっとも、春戦争敗戦による責任追及と維新の失墜は全て皇帝と皇帝派の貴族がかぶっているため甚大な被害というわけでもない。

 それに、セルゲイ自身はこの事態を逆用して内政及び軍制改革を断行する気でいた。


「さて、話を敗戦の理由に戻すか。……他の理由はなんだったかな」

「時機と目的と仰っていましたが」

「そうだった。まずは時機からだな。クロイツァーは覚えているか? 今回の戦争が決まった日と、戦争が実際に始まった日の日付を」

「決まったのは636年の末、確か12月15日のことだったかと。開戦は4月1日です」

「そうだ。つまり開戦まで4ヶ月程の時間があったと言うことだ。4ヶ月もあれば、例えサルが国王でもそれなりの準備ができるだろうよ」


 セルゲイの言う通り、シレジア王国はその4ヶ月という時間を有効に使った。

 戦時体制への移行、具体的かつ緻密な迎撃作戦の立案、予備役の動員及び訓練と配置、防御陣地の構築、補給物資の手配、外交による他方面の安全の確保、帝国軍に関する情報収集など。


 これらを行ったのは王国の若き士官たちであるのだが、セルゲイはまだそのことを知らなかった。しかしその有効性をハッキリ理解していた。


「『主動の原則』と言うものがある。機先を制し、常に有利な状況を作る立場に身を置くことが大事という原則さ」

「しかし機先を制することに執心して、こちらが準備不足となることもあるでしょう? それでは元も子もないのでは?」

「勿論最低限の準備は必要だが、準備不足は敵も同じ。防御側が態勢を整える前に速攻を掛ければ、多少の準備不足は意に介さないものさ」


 もしイヴァンⅦ世に軍事的な才覚が少しでもあれば、またはそのような者が近くに居れば、セルゲイの言うように敵に時間を与えることはしなかっただろう。


 例えばイヴァンⅦ世がシレジア王国への侵略意思を3月ごろに表明し、4月に開戦した場合はどうなるか。シレジア王国の予備役動員は間違いなく開戦に間に合わなかっただろうし、防御陣地の構築もままならなかったはずである。ユゼフによる外交努力も時間が足りず、開戦後は変化する戦局に情報が日々更新されて情報収集は不可能に近かいものとなるだろう。

 水際作戦が不可能となるために、シレジア王国軍は予備役を動員できないまま不毛な焦土作戦を取るしかなくなる。だが国力の差から来る兵站の差と、外交交渉を行えなかったことによって他の反シレジア同盟諸国の言質が取れず四正面作戦を強いられる可能性があったことを考えると、あの戦争は第三次シレジア分割戦争と命名されることになったはずである。


「にも拘らず、帝国は負けた。20万の将兵を失い、皇帝は健康を害し、財政と経済は火の車さ。敵に時間を与えることが如何に危険か、よくわかる事例だとは思わないか?」


 そう言うとセルゲイは、喋りすぎた反動から喉の渇きを覚え目の前にあるコーヒーを統べて飲み干した。それでも足らずに、従卒を呼んで本日3杯目のコーヒーを所望する。


「そして、最後の敗因である『目的』だが、これも結構大きな敗因だな」

「『目的』ですか……よくわかりませんね」

「こう言いかえても良いぞ。『大義名分』とな」


 セルゲイは、微笑の表情を顔に浮かべながら運ばれてきた3杯目のコーヒーに手を付ける。無論、砂糖とミルクはたっぷり入っている。


「『大義名分』などというものが、それほど重要なのですか?」

「重要さ。『大義名分』を作れない戦争は得てして悲惨なことになるものさ」


 セルゲイの言葉を聞いたクロイツァーは、やや唖然としていた。「大義名分を作る」という、少し可笑しな帝国語を聞いたような気がしたからである。

 だが、セルゲイは帝国語を間違えていなかった。


「『大義名分』と言うものがあるだけで2つの効果が得られる。国内世論と国際世論だ」

「……世論、ですか?」


 クロイツァーの疑問を聞いたセルゲイは、深く頷くと同時に突飛な質問を彼にぶつけた。


「ところでお前、人殺しは好きか?」

「……はぁ?」

「いいから、どうなんだ?」


 突然の質問にクロイツァーは少し慌てたが、数秒後には答えを導き出せた。


「当然、嫌いですよ。出来るならば一生避けて通りたいですね」

「そうだな。俺も嫌いだ。大抵の人間はそうなんだ。そんなことが好きな連中に会いたければ刑務所にでも行けばいい」

「……それで、閣下と私の人殺し嫌いがどう関係するのですか?」

「大いに関係があるよ。戦争と言うものは、要は人殺しの事だからな。兵士と呼ばれる職業の人間が、戦場と呼ばれる職場で軍紀に則って敵国の人間を殺す仕事のことを、人は『戦争』と呼ぶ。細かい定義を別とすればだがな」

「はぁ」

「人殺しが嫌いな人間が、戦争で人を殺さなければならない。当然、兵達の士気は落ちる。ではどうすればいいか? 簡単だ、人殺しを正当化する理由があればいい」


 春戦争において、人殺しが嫌いなはずな両軍下級兵の心境はどういうものだっただろうか。

 シレジア王国軍の場合は理由は明瞭である。愛する家族や故郷を守るために、悪の侵略者たる東大陸帝国軍を打ち倒す。たとえ刺し違いになってでも。負けそうになったとしても決死の覚悟で大切な物を守るという心は、そうそう打ち砕かれない。

 故に王国軍の士気は末端に至るまで高まっていた。古今東西、士気が高まった軍隊というのは練度が確保されていれば、それは堅固で強力なものとなる。


 では東大陸帝国軍の場合はどうだったのだろうか。その答えは、開戦前ロコソフスキ元帥の演説に垣間見ることができる。


「ロコソフスキは開戦前に恩賞の話ばかりしていたし、徴兵された農奴1人1人に語りかけたらしい。つまり自分から『侵略者』だと名乗っていたことだ」


 自らが悪の侵略者だと宣伝するような演説をしたロコソフスキ元帥だったが、演説をした時点ではまだ大きな失敗だったわけではない。あまり褒められたことではなかったが、確かに貴族の高級士官には効果覿面だった。侵略することによって自己の地位と富と名声を上げることができるのだから。


 だが、そんな貴族に率いられる兵の士気は陰惨たるものだった。自分たちの富と自由を奪う貴族の未来の為に、なぜ戦わなければならないのかという不信感が根強かったのである。特に社会の底辺に位置する農奴階級の人間がその顕著な例だっただろう。


 そしてそんな状況下で、下級兵たちが劣勢を悟った場合どうなるか。

 貴族の士官は奪うことのみを考えて士気が高く後先考えず攻勢に出るが、下級兵たちは「死にたくない」気持ちしか残っていない。

 その結果起きるのが、士気の崩壊である。


 もっとも分かり易い事例が、春戦争の緒戦に起きたザレシエ会戦、その会戦におけるユーリ・サディリン少将の師団である。


 サディリン師団は、ザレシエ会戦で積極的な攻勢と突撃を何度も繰り返した。だが左側背より、王国軍近衛師団第3騎兵連隊の突撃と正面から王国軍1個師団の逆撃を受けた時、士気が一気に崩壊した。サディリンは勇猛にも、あるいは蛮勇に指揮を続けたが、士気が崩壊した下級兵たちはその指示に従わなかった。

 その結果、サディリン師団は第3騎兵連隊に縦横に蹂躙され、サディリン自体も戦死を遂げている。


「大義名分のない侵略軍というのは得てして士気が崩壊しやすい。だから防御側に匹敵する士気の高さを維持するためにも、有用な大義名分を作らなければならないのだ」


 もしサディリン師団が王国軍だった場合はどうなっていたか。

 おそらく帝国軍に挟撃されてもなお、士気を維持することができただろう。ここで自分たちが逃げてしまえば故郷がどうなるかという心理が、彼らにはあるのだから。


「なるほど。だから宰相閣下や軍事大臣閣下が、色々と動き回っていると言うことですか」


 クロイツァーはそう指摘した。

 実際、ここ最近のセルゲイ派閥の人間の動きは活発だった。軍事大臣レディゲル侯爵を筆頭に、皇帝官房長官ベンケンドルフ伯爵、そして他国に派遣しているセルゲイ派の外交官たち。


「なんのことかな」


 セルゲイは、そうすっ(とぼ)けて見せた。

 その直後、彼はクロイツァーと喋りながらも作成していた書類を完成させた。クロイツァーがその書面を一通り確認する。


「……よくもまぁ、宰相になったばかりなのにこのようなことを思いつきますね」

「ふっ、俺を誰だと思ってる。次期皇帝だぞ? それよりも、軍事大臣レディゲル侯爵と内務次官のナザロフ子爵に宰相府に来るように言ってくれないか。このことについて相談したいと」

「了解です、閣下」


 彼が今完成させたその書類が、大陸の歴史に大きく刻むことになるのだが、その成果が目に見えるようになるのはまだ先の話であった。

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