大陸史 その5
カールスバート共和国という小さな国の歴史を知るためには、この大陸全体の歴史という大きな視点から見る必要がある。少し長くなるけど、それを今回説明しようと思う。
大陸暦302年。第33代皇帝の地位を巡って起きた3人の皇女皇子の争いは、遂に武力衝突という形にまで発展した。これが大陸帝国初の内戦で、かつシレジア王国が独立するきっかけとなる争いだったのは覚えているよね?
その独立を手助けしたのが、皇女オリガ・ロマノワの手によって経済的に裕福となった西大陸帝国だ。この国はその経済力で以って独立派や不平派貴族を煽り、そして各地で武力蜂起をさせた。
そしてその結果、大陸暦311年にヘルメスベルガー大公を国家元首とするヘルメスベルガー大公国が独立。さらに318年にザイフェルト公爵が団長を務めるクールラント騎士団が武力蜂起し独立を宣言。続く320年にはウェーバー侯爵領が独立しウェーバー侯国が成立、321年にビアシュタット子爵が統治する自由都市ホーエンツォルレンが独立し、330年にはディートリッヒ辺境伯領が東大陸帝国から分離独立を宣言した。
さらにさらに独立の波は止まらず、大陸暦311年から360年の間に現在のリヴォニア貴族連合がある場所に、同じリヴォニア人の国が40以上も独立したのである。多いってレベルじゃねーなこれ。
無論、こんなに多くの国に分かれてしまったのにも理由はある。
曰く「東大陸帝国中央政府にああだこうだ言われるのが凄いストレスだった。俺たちの領地では好き勝手やりたいから独立した。西大陸帝国の援助があるから簡単だったしね」という理由である。
小さな国が乱立すると言うことは、それだけ経済や国防と言った点で不利になるのは自明の理である。そのことについて危機を訴える国もあったが、その声が多数派となることはなかった。
そして大陸暦373年にヘルメスベルガー大公と親戚関係となったオストマルク帝国が独立すると、さらにその国防の危機は遠退き、それと比例してリヴォニア統一を訴える声も小さくなった。
大陸暦452年にシレジアが独立すると、最大の仮想敵だった東大陸帝国と直接国境を接することはなくなり、以来この40の国は纏まることはせず、リヴォニアという単語も地理的概念へとなり下がったのである。大陸帝国の内戦も事実上終了し、この領邦国家たちは栄華を極めようとしていた。
だが彼らは理解していなかった。大陸帝国内戦の終幕は、東大陸帝国だけが敵である時代の終幕であると同義であることを。
その凝り固まった偏見が打ち砕かれたのは大陸暦470年。リヴォニアの東にある王国で、大陸帝国初代皇帝ボリス・ロマノフにも匹敵しうる軍事的才覚を持った男がその王国の頂点に立った。
シレジア王国第2代国王、マレク・シレジアの即位である。
マレクは、父から受け継いだシレジアの経済基盤を元に軍備拡張を推し進めた結果、貴族の私兵に毛が生えたレベルでしかなかったシレジア王国軍を、大陸最強と謳われるようになるまで作り変えた。
そしてその軍隊で以って大陸暦473年に東大陸帝国に宣戦布告。戦争の天才マレクを、東大陸帝国の惰弱な軍隊は止めることはできなかった。結果シレジア王国は多数の領土を奪い取った。
調子と勢いに乗ったマレクは、続いてオストマルク帝国に宣戦布告。東大陸帝国と違って経済力も軍隊の質も良質なオストマルクだったが、マレク指揮する王国軍に対し成す術なく敗戦し領土を奪われる。
そんな向かう所敵なしのマレクが、小さな国に分かれ、個々の軍事力も小さいリヴォニアの領邦国家たちを見逃すはずがなかった。
大陸暦480年、シレジア王国はリヴォニアに侵攻開始。纏まった軍隊を持たない小国の微弱の抵抗をマレクは物ともせず、リヴォニアの領邦国家を次々と各個撃破していき、開戦6ヶ月で7つの領邦国家を滅亡させてしまった。
事ここに至り、リヴォニア各国の貴族はやっと気付いた。「このまま分かれてたんじゃやばい」ってね。
大陸暦481年、リヴォニアの領邦国家はこの危機に対して団結することを決意し、滅亡を回避するために互いに協力し合うことを約束した。
約束したのだが、約束だけだった。貴族たちはこの約束を守らなかったのだ。
と言うのも、この約束は「誰が軍隊を指揮するのか」というのを決めなかったのである。
つまり「滅亡するのは嫌だから他の奴らと協力するよ。でも黙ってあいつらの下に立って命令を受ける側になるのは嫌だ」ということを言い出す貴族が多数派だったのである。
結局、リヴォニアの残った33の貴族は指揮命令系統を決めないまま各々が自由に動くということになった。そんな領邦国家たちの醜態を見たマレクは「これは軍隊ではなく『烏合の衆』と呼んだ方が適切だ」と至極真っ当なことを言ったらしい。
そんな烏合の衆に負ける程マレクは弱くなかったし、それに手加減してあげる程慈悲深くもなかった。
大陸暦482年、シレジア王国軍の補給線が伸び切り攻勢限界に達したところで終戦。40あった領邦国家の内、16ヶ国が大陸の地図から消滅してしまうという最悪の結果に終わったのである。哀れ。
そしてやっとリヴォニア人たちは目覚めた。
「リヴォニアに統一国家を作ろう」
今更な気がするが、目覚めてからの行動は早かった。
大陸暦483年。ヘルメスベルガー大公国、クールラント騎士団、ウェーバー侯国、自由都市ホーエンツォレルン、ディートリッヒ辺境伯領は盟約を結んだ。5つの国を統合し、最高意思決定機関として元老院を設立、それぞれの貴族の階位を公爵と同列にし、4年毎の輪番制で議長を決める。
そう、この時にリヴォニア貴族連合の礎が作られたのだ。
でも、この動きに反対する輩もいた。「統一国家の樹立の必要性は認めるけどお前らの下に就かなければならないなんて俺は嫌だ」といういつもの理論である。
そんなことを言い出してしまえば、シレジア王国に攻められたときの失敗を繰り返してしまうことになる。元老院の各貴族は、反対派を渡り歩いて説得していった。だがその努力は無駄になってしまった。
言ってダメなら、武力に訴えるしかない。元老院による衆議は決定された。
大陸暦495年、元老院によるリヴォニア統一に賛同する領邦国家10ヶ国と、それに反対する14ヶ国が武力衝突を開始。後世「リヴォニア統一戦争」と呼ばれる戦争の始まりだった。
さらにこの戦争に西大陸帝国が「東に強力な統一国家ができることは国防上看過できない」と判断し反対派を支援することを表明したり、オストマルク帝国が「同じリヴォニア人として統一国家が出来ることは歓迎である」として統一派に対して支援したりするなど、リヴォニア統一戦争は各国の思惑がくんずほぐれつノーガード殴り合いの大乱闘泥沼戦争と化していった。
ちなみにシレジア王国は何度目かの対東大陸帝国戦争に忙しいのと「こんな煮え滾った鍋に手を突っ込んだら火傷する」として介入はしなかった。
そして大陸暦499年。西大陸帝国が反対派支援を打ち切ったり反対派が内部分裂を起こしたりして統一戦争はようやく終わり、翌大陸暦500年に領邦国家24ヶ国が統合し、元老院議長を国家元首とするリヴォニア貴族連合が成立した。
うんうん良かった良かった。リヴォニアは長く苦しい戦乱の時代を終えて、統一国家を作ることができたんだ。涙が止まらない、映画化決定やで。
……え? カールスバートの話が一切出てこなかったって? うん、大丈夫。今までのは前置きだから。これから話すよ。
リヴォニア貴族連合による統一が成し遂げられ、そして戦争によって傷ついた国家基盤を立て直すために元老院は内政に力を入れた。内政が安定すると軍事力にも力を入れ、いつか起きるだろうシレジア王国に対する復讐戦争の準備をしていた。
そして大陸暦518年、常勝無敗の天才マレク・シレジアが馬から落ちて無事死亡。急な国王の崩御に国政が混乱してる今がチャンス、と言わんばかりにリヴォニア貴族連合はシレジア王国に宣戦布告……できなかった。
マレク・シレジア崩御の報から間もない頃、オストマルク帝国の使者が元老院を訪れ、そしてこんな提案をしてきたのだ。
「やあ元老院のみんな! 経済復興と軍事力回復が順調そうで、同じリヴォニア人として鼻が高いよ! そしてあの忌々しいマレクの野郎が死んだって聞いたかい!? これで国防上憂慮すべき問題が片付いたね! そこで相談なんだけどさ、元老院にオストマルク帝国も参加して良いかな!?」
……いや、さすがにこんなはっちゃけた口調で言ってないよ? ただわかり易さを追求して……その、あの、ごめんなさい。そんなに睨まないでくださいあと肩を掴まないでください。
コホン。
要は「リヴォニア人の大帝国作らない? オストマルクとリヴォニア貴族連合が一緒になれば大陸統一も夢じゃないし、マレクが崩御したからシレジア王国も介入してこないだろう」ということである。
当然、元老院はこの申し出を却下した。
確かにオストマルク帝国はリヴォニア人の国家である。オストマルク帝国皇帝は若干ルース系の血が入っているがほとんどリヴォニア人だし、オストマルクの貴族は全員リヴォニア人だ。でも国家全体でみると、オストマルク帝国は多民族国家、多数派のリヴォニア人でさえ全人口の3割にも満たない。
そんな国と一緒になれって何の冗談だ、ってことで元老院は拒否したのだ。
なんでオストマルクがこんな提案をしたのかと言えば、リヴォニア貴族連合のリヴォニア人を取り込めれば、帝国内においてリヴォニア人の人口比率が半分を超えるから。全体の過半数がリヴォニア人になれば、少数民族に対する弾圧……もとい同化政策がやりやすくなるだろう。
そんな面倒なオプションがついてくる統合が誰が呑むのだと言いたくなるが、この国は本気です。
大陸暦518年、リヴォニア=オストマルク戦争勃発。
統一戦争から20年弱が経ったとはいえ未だオストマルク帝国との経済力には差があるリヴォニア貴族連合と、少数民族弾圧の為に少数民族から徴兵して戦うオストマルク帝国の戦争は泥沼化した。
双方決め手を欠いたまま死者の数だけ増える戦争となった。やばいと思った両国は停戦に向けて交渉を開始、結果オストマルクは元老院に対する要求を取り下げ、リヴォニアは統一戦争時のお礼をオストマルクに支払うことで合意したのである。
こうして大陸暦520年に停戦したのだが、この時ちょっとした事件が起きた。
オストマルク帝国内の少数民族のひとつ、ラキア系民族の独立運動である。
独立運動が起きた理由は明瞭。
「リヴォニア人の野郎が俺らラキア人を弾圧するためにリヴォニア貴族連合に喧嘩吹っかけて、しかも俺らを徴兵して貴族連合と戦わせるとかバカじゃねーの? しかも戦場になっているのは俺らの故郷、カールスバートだぞ!」
リヴォニア=オストマルク戦争の主戦場はカールスバートだった。しかも先述の通り泥沼化してしまったため、かなりの被害を受けてしまったのである。権力に居座るリヴォニア人を助け、自分たちを弾圧するための戦いに身を投じ、その結果自分たちの故郷が焼かれる。そんな光景をラキア人が見たら、そりゃ独立運動が起きるわな。
そしてリヴォニアとオストマルクの和平が成立した大陸暦520年にラキア人が建国を宣言、カールスバート王国が成立した。
オストマルクは当然激怒し鎮圧部隊を送る……なんてことはしなかった。「カールスバートに続け」と言わんばかりに各地で武力蜂起が発生し、その鎮圧に忙しかったからである。
またシレジア王国やリヴォニア貴族連合が「カールスバートって緩衝国家になり得るんじゃないか?」と考え独立を承認してしまったのである。
そんなことがあってもなおカールスバート王国を滅ぼすことができる程、当時のオストマルクには余力がなかった。泥沼戦争終えたばっかりだしね。
結局なし崩し的にカールスバート王国が成立した。
リヴォニア=オストマルク戦争は、和平成立時点では引き分けだった。でもカールスバート王国の独立によって国内が混乱したため、歴史家の間ではオストマルクの判定負けと評されている。
ちなみに、オストマルク帝国はこのカールスバートの一件で反省したのか、時の皇帝の鶴の一声によって少数民族に優しい政策に舵を切ることになった。
その政策の結果が、かつてクロスノで見た理想的な「民族の家」なのだが、それはまた別の話である。
第190話「公爵領改革」に関してユゼフ君のへたれっぷりに批判殺到、作者大感激。
一応補足と言い訳を活動報告に纏めました↓
http://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/531083/blogkey/1194968/
これからもどうぞよしなに




