公爵領改革
大陸暦637年10月18日。
クラクフスキ公爵領の統治は順調そのものだ。と言っても軍事査閲官と参事官の職務は、公爵領内の軍事及び治安維持が主だ。そのためさすがに王国政府が指揮統括する王国軍にメスを入れることはできないが、公爵の私兵部隊は自由にできる。
クラクフスキ公爵私兵部隊、長ったらしいので「公爵軍」と総督府内では呼称しているが、その規模はクラクフ駐屯地に駐留する警備隊その他に匹敵する規模を持っている。なんとその数は合計で1万5000名である。
指揮官は当然クラクフスキ公爵であるが、公爵は領地に関することはマヤさんの兄であるヴィトルト総督に任せている。そしてそのヴィトルト総督も、軍事に関することは軍事査閲官に委任している状況である。現在、クラクフスキ公爵領軍事査閲官の地位にいるのは、エミリア・シレジア大佐。
つまり、この公爵軍はエミリア大佐の私兵と言っても過言ではない。
1万5000の兵を率いる大佐ってなんやねん、って感じだが、あくまでも1万5000という数字は「合計」だ。実際に動かすとなるともっと少なくなるだろう。当のエミリア大佐も、
「さすがに1万5000人も動かせる自信はありませんね……」
と仰っている。春戦争じゃ参謀的な役回りが多かったと聞くし、その前のラスキノ戦は小隊レベルの指揮しかしてなかったから仕方ないとも言える。
さて話を戻すが、貴族が保有する私兵部隊というものの役割は主に2つある。
ひとつは、戦時において王国軍に兵を拠出するための存在だ。
貴族の義務の代表的なものに「国家が危急の際には貴族は無償の奉仕」をしなければならない、というのがある。その無償の奉仕は資金提供、物資提供、人員提供が主だ。そして王国軍に人員を提供する時に私兵部隊の人員が優先的に提供される。そしてその私兵部隊が戦争で武勲を立てると、国から武勲に見合った報奨を受け取るのだ。
もっとも、春戦争のような国家総力戦となると予備役やら使えそうな国民を片っ端から徴兵することになるので、貴族私兵の活躍は相対的に低くなるが。
もうひとつの役目は、領内の治安維持である。
この国の治安維持は主に軍の役割だが、そのための機関は3つある。宰相府所轄の国家警務局、王国軍所轄の警備隊、そして貴族の私兵部隊である。
国家警務局は前にも説明した通り、命令系統が宰相府で人事権が王国軍にある。役割としては広域警察で、まぁ前世風に言うとFBIって感じだろうか。命令系統と人事権が別なのは軍の暴走を止めるための措置なのだが、先日のマリノフスカ事件のように宰相府が暴走するときもある。ちなみに証拠捏造を指示した国家警務局長は無事閑職に飛ばされたらしい。
警備隊は、まぁ説明しなくてもわかるだろう。警備隊は軍隊であるとともに警察でもある、ってだけだ。戦時には前線に立ち、平時においては警察として働く。それだけだ。これを統括するのは軍務省及び総合作戦本部であるが、軍事査閲官にも治安維持に関して一定の権限がある。例えば街道封鎖とか街道封鎖とか街道封鎖とか。
で、最後に貴族の私兵。これはまぁ、前世で言う所の町内会のおじさんおばさんが町内を巡回して見回りをしたり、時には大捕り物に参加したりするもののでっかいバージョンだと思って大差ない。この治安維持を目的とした私兵を指揮統括するのが、貴族の当主であり、総督であり、軍事査閲官である。
説明が長ったらしくなったが、まぁ要約すると
「公爵軍が1万5000いるからってそのほとんどは治安維持用に残さないといけないからエミリア大佐が動かせる実戦部隊はせいぜい1個連隊程度なんだからね! 勘違いしないでよね!」
である。
1個連隊とすれば、まぁ大佐の身分には相応しい兵力だろう。大公派にとってもクラクフ駐留の王国軍を使えば、もしエミリア殿下が私兵を使って反乱を起こしても鎮圧できる程度の人員しかいないことになる。これで反発が多い日も安心だね!
まぁ、えらく支持者が多い近衛騎兵のサラさんを勘定に入れたら大変なことになるけどネ。
それはともかく、このエミリア殿下の裁量で自由に動かせる私兵、そしてクラクフ駐屯地補給参謀補のラデックを経由して王国軍クラクフ警備隊の軍政改革にこの数ヶ月勤しんでいた。
やってることは酷く単純だ。綱紀粛正、あらゆる作業の効率化推進、各隊の編成の見直し、補給物資の無駄遣いがないかの監視が主。でもこれを徹底するだけで効果が表れているようで、、たった1ヶ月の改革で既に予算に余裕が出来始めた。
財政の赤字圧縮に成功はした。だが歳入が増えなければ意味はない。
と言うわけで伝家の宝刀、コネを使うときが来た。
14時丁度。軍政の仕事が一段落ついた頃、従卒のサヴィツキ上等兵が入室してきた。
「参事官殿、グリルパルツァー商会の方が見えています」
「わかりました。いつも通り、応接室に通してください。えーっと……あの人は確か紅茶派だったから、それを準備してほしい。俺のはいつもので良いから」
「わかりました。すぐに準備します」
サヴィツキくんも結構有能である。俺に権限があれば彼を伍長に昇進させてあげたいが……。でも従卒の昇進ってどういう基準で決まるんだろうね。
数分後、俺は交渉用の資料を持って応接室に入る。そこに居たのはラデックの嫁候補、リゼル・エリザーベト・フォン・グリルパルツァーである。彼女はオストマルク帝国の貿易会社「グリルパルツァー商会」の社長令嬢。春戦争前は帝国軍の情報を俺に提供してくれた人物であり、その対価を今日払うという目的で約束を取り付けた。
「わざわざ我が国まで御足労いただいて申し訳ありません」
「いえいえ、私も愛するラデックさんに会いたかったので、そのついでですよ」
ラデックとリゼルさんの婚約は親同士が勝手に決めた、いわゆる政略結婚なのだがなぜかラブラブである。たぶん「ついで」という言葉に嘘偽りはないだろう。
はやく彼女を開放してラデックの下へ向かわせてあげよう。別に俺がこの人の惚気話が苦手だとかそういう理由は一切ない。ただ純情に2人の幸せを優先しただけの事であり、決して「長く話すと面倒なことになるんだろうな」とかは本当に考えてない。
「早速本題に入りますが、戦前に約束したことを履行したいと思います」
「つまり、代金を払ってくれるということですか?」
「そうです。まぁ、代金という形で履行はしませんけどね」
リゼルさんが求める対価は一時的な売上ではなく、永続的な利益である。ともすれば俺らが払わなければならないのは代金ではなく、提案だ。この提案は、民政長官と総督にも話は通してある。そして初期の交渉については面識のある俺に一任された。もっとも、最終調整と契約は流石に民政長官と総督にやってもらわないとならないが。
「リゼルさん。この公爵領に生産拠点を置く気はありませんか?」
「……ほほう」
つまり工場誘致である。工場と言っても石炭なんかの化石燃料がないこの世界、工場の形態は「工場制手工業」が主になる。
リゼルさんも興味を持ったようで、目つきが経営者になった。暴騰寸前のシレジア国債をどれほど買うかの相談をしてきたときを思い出すなぁ……。
「毛織物工場、なんてどうですかね?」
肥沃な土地に恵まれたシレジア王国の主要産業は農業で、大陸の大穀倉地帯としても機能している。そして小麦を作る傍ら、牧畜にも古くから力を入れてきた。牛、豚、馬、そして羊。
「そう言えば、シレジアや東大陸帝国の羊は肉にしても毛にしても品質が良いことで有名ですね」
「さすがの御見識です」
「しかし、実行するとなると私たち商会にとっては初の国外工場の建設となります。利点はなんでしょうか?」
「はい。まず我がシレジア王国は、オストマルク帝国に比べ物価水準が低いです。つまり、工場建設費や人件費、原材料費が安くなります。同じ工場を作るのなら、安い方がいいでしょう?」
「なるほど。ですが国外工場となれば国境通行料や距離が問題となります。それによって輸送費が増大してしまえば元の子もないでしょう」
「確かにそうです。ですが距離は問題とならないでしょう。クラクフスキ公爵領はオストマルクとも国境を接していますので、最大の消費地たるエスターブルクへも馬車数日の距離ですから。そして国境通行料に関しては、既に引き下げの方向で調整しています。近日中には実行されるでしょう」
そう言って俺は手元から資料を出す。
軍事参事官として働く傍らに作成した、クラクフスキ公爵領各所の平均賃金表、クラクフからエスターブルクまでの輸送距離及び輸送費の試算、そして国境通行料の引き下げ率などなどを記載した書類だ。民政長官も作成の手伝いをしてくれたから、その数字はかなり正確だ。
リゼルさんはそれを熟読すると、口に手を当てて色々考えている様子。恐らく彼女の脳内では物凄い勢いで数字が動いているはずだ。
「なるほど。これならば高級服のみならず、中産階級向け衣服の生産でも元は取れそうですね」
よし、掴みは上々だ。
「しかしだからと言って建てましょう、とはなりませんね」
「というと?」
「確かに工場建設費は帝国内で建てるよりかは安いです。ですが、帝国内でも地価と賃金が低いところはいくらでもあります。そうなると国外工場という危険性を軽減する『何か』を、公爵領で用意してくれない限り、この提案には乗れませんね」
やはりそう来たか。
でも大丈夫、まだ想定内。こういうこともあろうかとヴィトルト総督に土下座してお願いしといたのだ。
「工場建設費用に関しては、公爵領が半分出しましょう」
「……それは、許可済みですか? それとも思いつきですか?」
「無論、総督閣下の許可済みです」
俺の綺麗な土下座を見た総督閣下の反応は「お、おう」みたいな感じだった。曰く「普通に説明してくれたら素直に認める内容なのに土下座されるなんて」ということである。つまり土下座した意味がなかった。くすん。
「しかしまだ弱いですね。これなら帝国内にもいくつか候補が……」
リゼルさんは経営者らしく、もしくは交渉者らしく俺から譲歩を引き摺り出そうとしている。
なら、こちらも切り札を出そう。
「……工場収益が赤字の場合、公爵領に払う分の資産税及び売上税は徴収致しません」
「売上税はともかく、資産税もとなると大きいですね」
どんな事業も初年度黒字なんてなかなかできないからね。もし赤字でも税金免除してあげるよ、となれば商会としても工場建設に弾みがつくだろう。
でもまだリゼルさんは条件を欲しがっているようで。うーむ……最後の切り札が必要か。結局場に全部出すことになってしまった。
「黒字でも、1年は税を減免しますよ」
そう言うと、リゼルさんは笑顔になった。お? 交渉成立か?
俺が期待の眼差しをリゼルさんに向けると、彼女は短く、そしてハッキリと言った。
「3年」
「……えっ?」
「3年の税減免で、この話をお父様に通しましょう」
「…………」
俺は、リゼルさんの目の前でつい思わず右手で顔を覆ってしまった。一方のリゼルさんはそれがおかしくてたまらないようで、笑いを堪えているように見える。
3年、うん3年か。つまりその間歳入は増えないのか。でもまぁ雇用創出による領民の所得増加で、間接的な歳入増は見込める……。
長い目で見れば黒字だし、王国に対する税の減免はしてないから全く税収が入ってこないと言うわけではない。国境通行料の引き下げのおかげで物流拠点としての公爵領の地位も上がるし……。
結局俺は数分悩んだ後、結局その条件を呑む羽目になってしまった。こっちが譲歩するだけ譲歩しといて交渉と呼べるものではなかった。
あるいは、俺が工場誘致の提案をした時からリゼルさんはこの結末を予想していたのかもしれない。
リゼルさん、恐ろしい子。
追記
Q.おい主人公交渉しろよ
A.代金支払いも兼ねてるし、多少はね?




