報復
8月30日。
王都シロンスク、その行政区画の中心に王国宰相府がある。その館の主である宰相カロル・シレジア大公は、専用の執務室において今日も政務に没頭していた。彼がひとつの仕事を終え、そして執務机にうず高く積まれた書類の塔を数枚分低くしようとした時、彼の秘書の1人が入室してきた。
「宰相閣下。財務尚書のグルシュカ男爵が目通りを請うていますが」
「財務尚書が……? 今日は面会の予定はなかったはずだが?」
「至急の御用事、とのことですが」
「……わかった。応接室に通してくれ」
数分後、応接室に移動したカロル大公を待っていたのは、秘書の報告通り財務尚書グルシュカ男爵だった。彼は秘書も連れず、単身で宰相府にやってきたようである。
財務尚書グルシュカ男爵は、尚書として見れば、その行政手腕においては他の閣僚に引けを取らない、むしろ勝る部分も多い優秀な人間である。一方貴族的な視点で見れば、彼は現在王女派と大公派の継承争いに興味を見出していない、中立派とも言うべき貴族である。
その財務尚書が単身宰相府へやってきたとなれば、その中立姿勢を捨て大公派に与することを決意したのではないか。カロル大公がそう考えたとしても、それは無理のない事である。
だが実際は、カロル大公の考えとは真逆の方向の言葉を吐いた。
「宰相閣下。いえ、カロル大公殿下。もしこれ以上、クラクフスキ公爵領に対する圧力をかけるのであれば、私はエミリア王女殿下に味方することになりますぞ」
「何……?」
それは、事実上の最後通告だった。だが、カロル大公はその通告の言葉の意味を掴みかねていた。
それも当然のことである。大公が立案した策謀がどのような結果を生み出したのかを、彼はまだ知らないのだから。
大公の唖然とした表情を見た財務尚書は、やや不機嫌となり眉間に眉を作る。
「知らない、と申されるのですか。であれば、僭越ながら私が、事の次第をお教えしてあげましょうか」
財務尚書が話した「事の次第」は、カロル大公の度肝を抜くのに十分な威力を持っていた。
時は、大陸暦637年8月23日までに遡る。
クラクフスキ公爵領の領都クラクフから王都シロンスクへ向かう街道は、一年を通して交易商人や旅人、乗合馬車などが列を成している。特に公爵領の境界に建てられた関所付近は渋滞が酷くなる。
だが今日は、なぜかその列はいつも以上に長かった。少なくとも、数日前より2倍の長さになってはいるだろう。
その列に居た1人の旅人は、この長蛇の列を前に卒倒しかけた。いつもならすぐに着く距離だろうが、列はちっとも動かない。クラクフの現状を知らないその旅人は、彼の近くに居た交易商人の馬車に話しかけた。
「おい、これは一体なんなんだ? クラクフとやらはいつもこうなのか?」
「いや、昨日からだって聞いたよ。どうも軍の連中が関所を封鎖しているらしい」
「は? 戦争でもするのか?」
「俺も詳しくは知らんのだが、どうもクラクフで反乱が起きたそうだ」
「なんだって!?」
旅人が驚いたのも無理はない。シレジア王国が如何に末期状態であるとはいえ、ここ十数年は反乱などなかったからである。しかもシレジアで一、二を争う経済力を持つ公爵領で反乱となると、それは独立運動に直結する事態となるからである。
だが近くに居た別の商人はそれを否定した。
「いや、軍の封鎖は事実だが、反乱云々は嘘だそうだ」
これに真っ先に反応したのは旅人だった。
「どういうことだ?」
「聞いた話じゃ、クラクフの近くにあるツェリニ刑務所に収容していた帝国軍の捕虜が集団脱走したらしい」
「は!?」
旅人は、反乱の噂を聞いた時以上に驚愕した。
だが、それでは終わらなかった。
「いや違うね。カールスバートから集団で密入国してきた奴がいるらしい。あの国、結構政情不安が続いてるらしいからな」
「待ってくれ。私はツェリニ収容所が襲撃されたと聞いたぞ?」
「ツェリニ収容所と言えば、先月財政難で閉鎖して一般刑事犯から帝国軍の捕虜まで全員を仮釈放したという噂もあったな」
「俺はクラクフスキ公爵の当代が暗殺されたって聞いたぜ?」
「あぁ、それは俺も聞いたよ。確か公爵は宰相と敵対してたらしいからな。たぶんその筋だろう」
「もしかしたら、収容所に居た人間を利用して公爵を襲わせたんじゃないか?」
「おい皆聞いたか! オストマルク帝国軍が動き出してシレジア分割戦争を始めたってよ!」
噂は噂を呼び、気づけば旅人の下には多くの不確定情報がもたらされていた。
旅人の脳内容量はついに限界を超え、彼は溜め息をついてぼやくしかなかった。
「一体、あそこで何が起きているんだ……?」
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真実を隠すなら嘘の中。嘘を隠すなら真実の中。
昔の人はそんなことを言ったらしい。そして実際それは当たりである。情報公開する際にはどうでもいい真実を開示して信憑性を上げ、核心の部分は嘘を吐くか隠すかするしてお茶を濁す、なんてことはどの世界でもやってることだ。
今回俺がやったことはふたつ。
ひとつは、街道の封鎖である。
表向きの事情は、反乱未遂犯サラ・マリノフスカ少佐を公爵領に閉じ込めて逮捕するため、軍事査閲官エミリア大佐が街道封鎖命令を出したからだ。
一方裏の事情は複数ある。その中でも一番大きいのは、公用馬車を軍の権限で出入りを制限したいがためである。
するとどうなるか。そうだね。とりあえず公爵領から国に支払うべき税金の出納ができなくなるね。
いやぁ、月末なのに大変だなー。ちなみにシレジア王国の会計年度は1月から12月です。財務尚書よ、今年度はまだあと4ヶ月あるぞ。ゆっくり財政破綻して逝ってね!
つまり今、クラクフスキ公爵領は逆経済封鎖を行っているのだ。
春戦争によって財政が一層厳しくなっているシレジア王国、一方そんな中央政府とは違って堅調な経済成長を続けている公爵領。公爵領の財政が物凄い健全と言うわけでもないが、他の貴族領や本国政府よりはマシである。
そのため、王国と公爵領の経済的な力関係はほぼ拮抗している。
通常なら、王国が公爵領を経済封鎖するのだろうが、今回は逆である。だから逆経済封鎖。
前世日本で例えると……そうだな。「大阪、税金払うのやめるってよ」って感じだろうか。電子決済とかいうのがあるわけないので、街道を封鎖するだけでこうなるのだ。怖い。
勿論、意図してこんなことをやってるわけじゃないよ。あくまでも「国事犯サラ・マリノフスカ容疑者を逮捕するための致し方ない一時的な措置」だし。あまり長くやると領民の生活が苦しくなる。
ま、国境は封鎖してないから物資食糧その他の経済活動は問題になってない。関税とか通行料の額が少し高くつくってくらいだし、短期間なら問題ないレベル。
そしてオストマルク方面の物資運搬はグリルパルツァー商会の独占状態。独占の代わりに通行料や仲介料をだいぶ減らして貰っているので、まぁリゼルさんの収支もトントンと言ったところだろうか。
公爵領で作られている王都シロンスク向け商品の一部は帝都エスターブルクに回している。またオストマルク経由で他のシレジア貴族領とも交易を行っている。時間はかかるが、おかげで市井は殆ど影響がない。
影響しているのは、政治分野だけ。
この辺のことはエミリア殿下とマヤさんと一緒に、民政長官とクラクフ総督を説得して「短期間で終わるなら別に構わない」ということで実現させた。持つべきものは話の早い文官である。
さて、些か長くなったな。
俺がやったことのふたつ目は、噂をいくつか流すことである。街道封鎖で長くなった商人の列に俺が忍び込んで、こんなことを言った。
「指名手配された反乱未遂犯を捕まえるために街道封鎖してるんだってさ」
「どうやら宰相閣下直々の命令らしい」
「ツェリニ刑務所は予算不足なんだって」
ご覧の通り、全部事実である。全部事実であるが、その噂が真実性を保ったまま世の中を歩き回るかは話が別である。
噂なんてものは、大抵は酒の席の肴になる。
そして酒の肴になった噂は、酒独特の含有成分によって虚偽や欺瞞と言う名のフレーバーをかけられるのである。数日もすればあら不思議、なぜか「宰相の意を受けた間者がクラクフスキ公爵の暗殺を謀るも、これに失敗して追い回されている」という噂の完成である。
どうしてこうなった。
ってまぁ俺がその場で立ったエミリア殿下の不評に関する噂をすぐに揉み消して、カロル大公に関する悪評を煽りまくったからだけど。
これらのカロル大公の噂は数日中に王国中へ届くだろう。エミリア殿下に関する噂も少し流れることになるが、まぁそれくらいの醜聞の類はある程度許容できる。
サラに関する噂もいくつかあったが、これもどうしようもない。そもそも指名手配された時点でいくつか噂が立ってたし、これを揉み消すことはできない。
だから、というわけではないが大公殿下にも噂の主人公になっていただいた。大公の悪評が、他の貴族の耳に届いたらどうなるか、今からそれが楽しみで仕方ない。
 




