月明かりの下で
20時15分。
サラ・マリノフスカ少佐が指名手配されてから、やっと6時間が経過した。彼女にとってその6時間は無限にも感じられる長さであったが、彼女は警務局に捕まらないために少なくとも600時間は逃げるつもりだった。
それくらい逃げ続ける事が出来れば、クラクフにおける捜査の手は緩むだろう。そして彼女の親友の下へ行ける隙もできる。
それまで、彼女はこのクラクフ貧民街で耐えるつもりだった。
彼女は五感に優れる。
先ほど警務局がクラクフ貧民街の捜査をした時も、彼女はその優秀な五感を使ってその捜査の網を掻い潜った。確かにユゼフの言う通り警務局の捜査は穴だらけではあったが、それでも数時間に亘って逃げ続けた力量と我慢強さは称賛に値するものである。
警務局が去ってから数十分、彼女は今夜ここに寝泊まりすることを決めた。つい昨日まで佐官用官舎にあるベッドの上で寝ていた彼女だったが、今日は貧民街の冷たい土と壁がその代わりである。
「……夏とは言え、さすがに夜になると冷えるわね。毛布と一緒に逃げるべきだったわ」
そうひとりごちたところで、空から毛布が降ってくるはずもない。彼女は身を縮ませて、体温の低下を抑えようとする。
そんな時、思い出すのはシロンスクの貧民街に迷い込んだ時のことである。
あの日、サラは孤児を拾った。何も考えず、ただ自分の信じる正義を貫き通しただけだ。
その孤児は、彼女にとって大切な人間によってユリア・ジェリニスカと名付けられ、そしておそらくその名付け親が引き取っているだろう。
心配だったし、このようなことがなければ会いたかった。だが、状況がそれを許さず、彼女は次第に微睡の中に身を沈めていった。はずだった。
数分後、彼女の近くで声がした。
いや、それは声と言うより、悲鳴に近かった。
「……めて! 離……!」
ユリアの事を思い出していたせいなのか、サラはその悲鳴がユリアに聞こえた。
もしかしたら、ユリアが自分を捜しに1人でここに来て、そして暴漢に襲われているのではないか。
サラは耳を澄まし、声の方角を探る。
彼女から見て右前方、貧民街の第2地区中心より少し東の地点。そこが音源。
音源を特定した彼女は、すぐさま行動に移した。そして走りながら、彼女は考えた。
この悲鳴が、警務局による罠という可能性である。
でも、彼女は悩まずに夜の貧民街を駆ける。
ここでユリアかもしれない少女を見捨てて自分の身の安全を確保できるほど、彼女の正義感は安くなかったためである。
罠でないならそれでよし。罠であっても、助けられれば後悔するはずもない。
そして思いの外近くだった音源に辿りつく。
そこに居たのは、壁に寄り掛かった1人の少女。10日前に買ったばかりの新品の服を身に纏った、サラが拾った孤児がただ1人立っていたのである。
「……ユリア?」
サラの声を聞いたユリアが反応する。その少女の目には心なしか、涙が浮かんでいた。
半日会っていないだけなのに、まるで半年ぶりに会ったかのような気になった。
サラがユリアに駆け寄ろうとしたその刹那、もうひとつの音源が近づいてきた。サラの右後方、月明かりも射さない狭い路地裏から、その音は近づいてくる。
やはり罠だったのか、とサラは勘付いた。
だが相手は恐らく1人で、であればまだ対処できるはずである。サラはそう考えて、その足音に気付かないふりをした。
そしてその足音は、サラのすぐ後ろで途絶える。推定距離、およそ2メートル。
如何に彼女が武術に秀でると言っても、腕も脚も2メートルあるはずがない。
サラは、その人間が全く動いていないのを確認する。
そして頭の中で、その人間を倒すシミュレートをし、実行に移した。
「死ねぇ!」
彼女の雄叫びと、彼の悲鳴が夜の貧民街に重なり合って響いた。
その時、ユゼフは「サラに対してドッキリを仕掛けてはならない」という教訓を獲得したのである。
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まったくもって酷い話である。
いや、サラを見つけることに成功したという点においては酷くはない。
彼女は苦しんでる人を見ると助けずにはいられない性格をしているようだし、それが聞き慣れたユリアの声ともなればきっとノコノコと現れるに違いないと思ったのだ。そしてそれは実際成功した。
そしてそんな彼女の後ろからコッソリ近づいた俺が殴られるのは、むしろ当然なのかもしれない。
でもさ、サラが俺の鳩尾を思い切り殴って、俺が苦しみ悶えているときになんて言ったと思う?
「って、この鳩尾の感触って……もしかしてユゼフ?」
どういう覚え方だよそれ。
とりあえずサラには「殴る前に対象の顔をよく見るように」と厳命しておいた。守ってくれるといいな……。いや、守ったところで殴られる未来しか見えないのだけど。
「にしても、よく私が貧民街にいるってわかったわね。手紙に書いた覚えはないのだけれど」
「それはユリアに聞いてくれ。俺はただユリアの案内に従っただけだ」
「そう……」
もう一方の当事者であるユリアは先ほどからサラに抱きついたまま離れない。たぶん泣いているのだと思うが、それに突っ込む程俺は野暮じゃないし、サラにも反省していただきたい。
サラはばつの悪そうな顔をした後、ユリアの頭を静かに撫でた。小さな声で「心配かけてごめんね」と言ったそれは、まるで本当の母親……失礼、姉みたいである。
「とりあえず、いつまでもココで会話しているのはまずいだろう。あまり目立つことをすると警務局か警備隊に目をつけられる。場所を変えよう」
官舎には戻れないから、公爵邸が良いだろう。警務局クラクフ支部が近くにあるのが気になるが、マヤさんらと協力して闇夜に紛れてコッソリ行動すれば問題ないと思う。
でもなぜかサラは動かなかった。
彼女の目は珍しく悩んでいるようにも見えた。ユリアも心配してサラの顔を見上げている。
「サラ?」
「……ねぇ。私、戻ってもいいのかしら」
「はい?」
何言ってんの?
「今ここで私が戻ったら、エミリアとか、その、ユゼフに迷惑が掛からないかしら?」
「掛からないと思うけど?」
むしろサラが居ない事の方が迷惑だとは思うし、らしくもなく殊勝な態度するのもなんかそわそわするからやめてほしいのだが。
あぁ、でも彼女は手紙に「自分がどうなっても何も思うな」とか書いてたな。自己犠牲なんてらしくもないと思って、その手紙はごみ箱に捨てたけど。
「でも、もし私がエミリアの傍に居るって奴らにバレたら……」
「それは心配しなくていい。策は考えてあるから」
俺はサラと違って無策のまま人を拾うことはしないんでね。
「その策って言うのは、またユゼフ1人が犠牲になるような策なの?」
「……」
今度黙ったのは俺の方だった。図星だったからだ。
どう答えたもんかと逡巡して、結局肩を竦めることしかできなかった。
「エミリアから聞いたわ。ユゼフ、オストマルクで結構危ない橋を渡ったって」
「俺は、危ない橋だとは思わなかったけどね」
「でも、そのせいで昇進できなかったんでしょ。それに本来なら3ヶ月の減俸処分になるところを、エミリアの口添えで免れた、って」
……それは、知らなかったな。どうやら俺は知らないところでエミリア殿下に迷惑をかけてしまったらしい。
「じゃあ、今回は俺1人が責任を負う形にならないとな。これ以上、エミリア殿下に迷惑をかけるのも……」
「なんで、そうなるのよ!」
サラは語気を荒げ、俺に唾がかかる勢いで怒鳴り散らした。彼女がこれほどまでに怒りの感情を露わにしたのは、もしかすると今回が初めてかもしれない。
とりあえず夜で、しかも街中で大声を出すのはまずい。指名手配犯であるサラに俺は「静かに」とジェスチャーする。でも、彼女はそれに従わず、その代わりに俺の胸倉を掴んできた。
「私が1人で背負おうとしてるのは、すぐにダメだって言うくせに! なんで、なんであんたが全部背負おうとするのよ!?」
「落ち着けサラ、な?」
「はぐらかさないで!」
いやでも、本当に落ち着かせないとやばい。貧民街の連中は、巻き込まれないようにだんまりを決め込んでいるようだが、誰かが気を利かせて通報でもされたら困る。それ以上に、ユリアが少しサラに怯えているのだ。
はぁ……。こりゃ説得じゃなくて、真面目に答えた方が良い。
「人には得手不得手がある。サラにはサラの得意なやり方があるように、俺には俺の得意なやり方がある」
「……」
なぜサラは戦うのか。これは明瞭、彼女は仲間の為に戦う人間だ。
仲間の為に、最前線に立って兵を率いて最大限の努力をして最大限の武功を立てる。そういうやり方をする人間だし、実際それが得意な人間でもある。
じゃあ、俺の場合はどうなのか。
これも明瞭。サラと同じく、仲間の為だ。でも、サラみたいに前線に立って武勲を立てるのは無理だ。
「俺は、仲間の為なら手段を厭わない。そう言う人間。そして思いつく手が、なぜか泥にまみれた物ばかりでね」
サラとかエミリア殿下は、華麗で輝かしいやり方が最も似合う人間である。
じゃあ俺がそれをやれと言われても……どうも性に合わないし想像もできない。そんな勇者みたいなものに憧れることができない程に歳を取ってしまった、ってのもあるかもしれないな。
「サラにはこのやり方は無理だと思う。それに、似合わないよ」
「……」
俺の胸倉を掴むサラの拳の力が弱まった気がした。
それを見逃さず、彼女の手を握って引き離す。それに対してサラは抵抗せず、そっぽを向いた。
「……それで、あんたは良いの?」
「良いと思ってるよ。手段を選んでいられるほど余裕があるわけでもないし」
ただまぁ、手段を選ば無すぎて反省はずっとしてる日々だ。もっと綺麗なやり方があっただろうに、ってね。でも、後悔はしていない。一部例外を除いて。
昇進が遅れることについても、まぁ残念だとは思ってもそれ以上は何もない。
「でも、私だって、ユゼフの為なら何だってやるつもりだわ」
サラは弱い声でそう言った。いつもの、力強い彼女らしくもない。
「その気持ちは嬉しい。なら、俺の為と思って自己犠牲の精神はやめてほしい」
「……じゃあ、あんたも私の為に、自分だけが責任負うのはやめて」
「無理な相談だね」
「なんでよ」
答えは簡潔明瞭。
「それがサラの為で、自分の為でもあるからさ」
何度も言うが、こういうのはサラが用いる手段ではない。似合わないし、頭を使うようなことだしね。
そして俺は仲間が傷つき倒れる所を見たくない。そんな独り善がりために、法的に倫理的にダメな事でもやる。
ただ、それだけなのだ。
サラは納得しなかったと思う。
でも、ユリアが泣きそうな顔でサラに抱き着いてきたことで、俺の言うことを聞いてくれた。
今はそれでいいかもしれない。俺の為じゃなくて、ユリアの為に、今は戻るべき場所に、俺たちは戻るのだ。




