マリノフスカ事件
サラ・マリノフスカが指名手配されたという報せは、即日クラクフスキ公爵領総督府にもたらされた。
公爵領軍事査閲官であり、そして彼女の親友でもあるエミリア大佐はこの報せを信じなかった。と言うより、耳を塞いで一向に信じようとはしなかった。彼女の下に届いた情報というのが、「マリノフスカ少佐、王女暗殺未遂の容疑で指名手配」となれば尚更である。
だが、そのエミリアの下に直属の部下である軍事参事官ユゼフ・ワレサ大尉が同様の事態を報告しに来ると、その情報に、そしてユゼフという人間に対して激怒した。
「ユゼフさん! あなたがそのような趣味の悪い冗談を言うとは失望しましたよ!」
凡人であれば、この言葉を聞いて平静を保つことはできなかっただろう。だが彼女の部下であるユゼフは、彼女にとって残酷なほど冷静に事に対処した。
「エミリア大佐。冗談を言えるほど状況に余裕はありません。この事態に至って、大佐には軍事査閲官としての責務を果たしていただきたく存じますが」
「……」
エミリアは徐々に彼女らしい冷静さを取り戻した。それはユゼフが必要以上に冷酷だったこともあるが、それ以上に彼の拳が細かに震えているのを見たからである。
怒りに任せて喚き散らしたいのは、ユゼフ自身だった。
「……つまらぬこと言いました。忘れてください」
「いえ、大丈夫です」
やはりユゼフの言葉は冷たい。震える拳を除けば、彼はいたって冷静に事を対処していた。
「……。ユゼフさん。事の子細を話してくれますでしょうか」
エミリアも、ユゼフに倣って冷静に話を聞こうとした。今から話される部下の言葉に、臆することなく立ち向かおうとした。
だが、ユゼフが話したことは別の事である。
「……来客があります。隣の応接室にお通ししておりますので至急お会いになってください」
「いえ、今は……」
「会った方が良いでしょう。私より、この事件に関して詳細な情報を持っている人間ですから」
「……? それはいったい、誰でしょうか?」
エミリアのその質問に対し、彼は一瞬躊躇いつつ、その来客者の名を明かした。
「国家警務局の、ヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック少佐です」
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エミリア殿下がヘンリクさんと会見してる頃、俺は自分のために用意された席に座る。
冷静に応対できた、と思う。軍事参事官として、私情を排して仕事ができたと思う。
応接室と執務室の間にある壁は厚い。それでも微かにエミリア殿下の感情的な声が聞こえるのは、それほど彼女が混乱しているからに違いないだろう。
それもそうだ。自分の親友だと思っていた人物が、自分を害するために動いていたなんて、容易に信じられる話ではない。俺もそうだった。
俺は目の前に積まれた書類の数々を無視して、天井を見上げる。何もない、役所として相応しいほど無味乾燥な天井に、先ほどヘンリクさんから知った情報、そして今頃エミリア殿下が聞いているであろう情報を思い出していた。
――30分前。
エミリア殿下に報告すべく、そして事態の対応を求めるべく俺は公用馬車で総督府へ向かっていた。いつもならファンタジー的な乗り物である馬車をゆっくりと楽しんでいたが、この日限りは馬車の速度の遅さに辟易し、御者を何度も急かしていた。
そして総督府の入り口に着いた頃、見覚えのある顔を持つ人物に会ったのだ。
かつてクラクフスキ公爵家で酒を飲み交わした、国家警務局、いわゆる憲兵隊所属のヘンリク・ミハウ・ローゼンシュトック少佐と、付添人と思われる人物だった。
その顔を見た時、俺は懐かしさを感じる前に「彼がこの事件と何らかの形で関わっている」と感じた。そしてそれは事実だった。彼こそが、この事件、マリノフスカ事件の担当者だったのである。
そして、彼の口から直接事の次第を聞いたのだ。
7月初頭、国家警務局に複数の密告が届いた。
それは王国軍の一部の士官に不穏な動きあり、という極めて抽象的な密告だった。
警務局はその密告を悪戯と考え無視したが、日が経つにつれて密告の内容が具体的になっていた。
最初は犯人は「王国軍士官の一部」だ、と言う情報だけだったが、それが「王都にいる士官」となり、「近衛師団所属だ」という密告が届き、そして7月末には「近衛師団第3騎兵連隊の幹部」となっていった。
そして不穏な動きとやらについても、日が経つにつれて具体的になり、最終的には王女暗殺となったそうだ。
ここまで詳細な密告が届き、さらには王族の暗殺を狙ったものだとすれば、さすがに警務局としても動かざるを得なかった。
この事件を担当することになったのは、警務局長の推挙によって王女派であるヘンリクさんに決定された。彼ならば王女を守るためにも、そして彼の栄達のためにも全力で捜査をしてくれるだろうという理由で選ばれた。
実際、ヘンリクさんはエミリア殿下の身の安全の為に捜査をした。近衛師団第3騎兵連隊がクラクフへ移動するのと時を同じくして極秘裏にクラクフに入り、近衛師団やクラクフ駐屯地に関する情報を集めた。
そして、意外なほどあっけなく犯人がわかった。その犯人こそが、エミリア殿下の友人にして近衛師団第3騎兵連隊の幹部であるサラ・マリノフスカ少佐だったのだ。
ヘンリクさんの部下が集めた情報によれば、サラは駐屯地内の物資の一部を横領して資金を貯め、その資金で有用な人物を雇い、エミリア殿下殺害の機を窺っていたという。
その雇われた人物についての所在は不明だが、横領した物資の質と量は把握済みで、資金を得る過程で作られた会計書類を見つけ出した。それらの証拠全てがサラの犯行を裏付けていたという。
「サラ・マリノフスカ少佐には、エミリア王女暗殺未遂の重要参考人として出頭要請を出した。だがそれを伝えに彼女の官舎に赴いたが、既にもぬけの殻だったのだ。逃亡を図ったということで、彼女の罪は明白となり指名手配となったのだ」
「……つまり、まだ逮捕されていないと?」
「あぁ。複数の証言では、彼女は今朝まではクラクフ駐屯地にいたことが確認されている。時間的に考えて、まだ彼女は公爵領の何処かにいるだろう」
そこまでの事情を聞いて、俺は安心し、そして確信した。
そして恐らく、ヘンリクさんも俺と同じことを思っているだろう。彼に置かれた状況や責務から、そしてヘンリクさんの隣に立つ付添人、もとい監視役のせいで、思ったことを言えず、ただ事実を述べたのだ。
「貴重な情報、ありがとうございます」
「あぁ、それで頼みがあるのだが、軍事査閲官殿にお会いしたい。約束はしていないのだが、構わないだろうか?」
「わかりました。事の次第を報告するついでに、エミリア大佐にそう伝えておきます。とりあえず応接室に案内しますので」
俺はヘンリクさんらを案内しながら、必死に怒りを抑えていた。
自分で言うのもなんだが、よく我慢できたと思う。




