クラクフスキ公爵領
クラクフスキ公爵領総督府は、領都クラクフの中心の丘の上に建っている。
総督府はマヤさんの、つまりクラクフスキ公爵家の私邸でもあり、そして警務局のクラクフ支部でもある。つまり役所兼警察署兼家。そのため内部構造はごちゃごちゃ……でもない。
「西棟が総督府、東棟が警務局、そして北棟が我が家だ」
「……私の目には北棟が一番大きく見えるんですけど」
総督府は、前世日本風に言えば都道府県庁みたいなもんだ。記憶の奥底にある神奈川県庁舎よりもオシャレでデカい建物がそこにはあった。そしてその総督府よりもクラクフスキ公爵邸の方がデカいっていうのが、クラクフスキ公爵家の力を表してるのだろう。
マヤさんの案内で、エミリア殿下と俺は西棟総督府の中を歩く。サラとラデックは郊外にある駐屯地勤務なので今は別行動である。さすがに総督府内の警備に近衛騎兵はいらない。ちなみにユリアはマヤさんの家の人に預けてる。
西棟の最上階。市街を一望できるほどの高さの階に、総督執務室があった。
マヤさんがノックをすると、中から「どうぞ」と短い返事があった。扉を開けるとそこに居たのは、どことなくマヤさんにそっくりな顔のイケメンが居た。
「というわけで紹介しよう。クラクフスキ公爵領の領主にして当家の長男、そして私の兄であるヴィトルト・クラクフスキ総督だ」
---
軍事参事官執務室なんて豪勢なものはない。まぁ俺はたかだか大尉なので専用の部屋があること自体がおかしいのだが。俺の今の仕事場は、軍事査閲官執務室。軍事査閲官の執務机の左手前側に軍事参事官、つまり俺の執務机が用意されている。
軍事参事官の仕事は軍事査閲官の補佐役らしい。そして軍事査閲官はエミリア大佐なので、俺は彼女の補佐をすれば良いと。マヤさんとの違いは……俺が参謀で彼女が副官ってことかな。
「何をするにも現状把握です。総督閣下から渡された資料を見て、今後の方針を決めましょう」
というわけで、軍事査閲官エミリア大佐からの指示により最初の1日は資料を読み込むだけで終わった。もう紙の仕事は嫌だ……。かと言って力仕事が良いと言うわけでもないのだけど。
翌8月4日。
クラクフスキ公爵領の現状がだいたいわかった、らしい。らしいと言うのは、資料を読み込んで尚且つそれを十分に理解したのがエミリア殿下だけだったからだ。
「春戦争の前と後で財政がかなり悪化していますね。まだ許容範囲ですが、このままだとまずいです」
春戦争と言うのは、大陸暦637年4月1日から6月14日まで行われたシレジアと東大陸帝国の戦争である。王国軍務省での正式名称は単に「大陸暦637年シレジア=東大陸帝国の戦役」なのだが、凄い長いし味気ないので、春の到来と共に開戦したことから「春戦争」と通称されている。
「現在は一部動員が解除されたので暫くすれば多少はマシになるはずです。国内の産業も平時体制に戻りつつあります」
「それはそうです。ですが、軍人恩給や召集手当など人件費がバカにできません。それにこれらの支出は増えることはあっても減ることはできませんし……」
「軍関係の給与削減は反乱の契機になり得ますからね」
うん。この2人、総合作戦本部勤務だったこともあってか軍政に関してかなり板についてる。
俺? 俺は送られてくる書類を右から左へ流すだけの簡単な作業をこなしているけど?
「ユゼフさんは何かありますか?」
「……なんで2人とも元気なんですかね」
いや本当に。いくら経済力と人口があるからと言って、この書類の量はなんだ。そしてエミリア殿下が仕事の鬼すぎる。ここに来てから彼女の手が止まっているところを見た事がない。
「これが仕事ですから」
その一言だけで効率が上がるなら世の中には無能者はいない。
さて、エミリア殿下とマヤさんの話を俺なりに解釈したところ、このクラクフスキ公爵領の抱えている大きな問題が財政収支だ。
クラクフスキ公爵領の財政は、歳入が減り、歳出が増えているという分かり易い状況が続いている。
原因もやはり分かり易い。今回の戦争のせいだ。戦争の為にかなりの人員と資源を軍に吸い取られた結果歳入が激減、そして戦死者が出る度に恩給の総額が膨れ上がっている。まだ東大陸帝国との講和条約が結ばれていない現状では、賠償金でどうにかするという手段は使えない。
財政赤字分は公債の発行でなんとかなってはいるようだが、でも公債が増えることはあまり好ましくない。公債の償還費と利子、そして恩給と言った人件費だけで予算の大半を取られてしまうと財政が硬直化してしまう。
これはマヤさんも結構頭を抱えていた。
「公債償還費と利子はどうにもならないが、人件費をどうにかできないだろうか」
「マヤさんの言うこともわかります。ですが、人件費を削るには役人の数を減らす以外には方法はないでしょう」
「……給与を下げる、ではダメか?」
「ダメです。役人の給与を下手に減らすと、不正や賄賂が増えるだけですから」
役人だって人間だ。当然お金は欲しい。少ない給与に我慢出来なくなって賄賂を受け取ったり、役人を辞めてしまうかもしれない。
となるとリストラくらいしか思い浮かばなかったが、エミリア殿下はそれも否定する。
「ですが、現状では役人を減らすことも出来ませんね」
「なぜです?」
「既に、人口当たりの役人の数が必要最低限の数にまで落ちているからです。これ以上人員を減らしてしまうと……」
あぁ、なるほど。残業祭りになるわけね。事務の効率が落ちるってレベルじゃねーわこれ。
「となると歳入面の改善ですか……」
「ですがそれは、我々武官の出る幕はありません。そちらは文官の方たちの範疇になります」
武官が口を出せるのは軍事の部分だけ。歳入、つまり税金だの貿易収入だのの民政の部分は文官の仕事だ。公爵領の場合は民政長官っていう人がいるから、その人の仕事。軍隊って社会の生産に何ら寄与しない金食い虫だし、軍事査閲官が歳入をどうこうすることは出来ない。
例外はエミリア殿下ら王族、あとはクラクフスキ公爵家のマヤさんくらいだろう。でも2人とも文官の職責を犯す気はないようだ。本来なら良い事なんだろうが、才能が無駄遣いされてる気もしなくはない。
そして俺には民政どころか軍政にもあまり権限はない。
本当に軍事参事官って何やればいいんですかね。もしかして、これって名誉職なんじゃ……。




