サラの散歩
エミリア王女が王都を離れ、クラクフへ向かう日は7月31日と定められた。これは高等参事官職の残務処理が思ったよりも多いことが原因とされていたが、一方では別の事情も存在していた。
エミリアが王都を離れれば、それと同時に近衛師団第3騎兵連隊も移動する。だが、その第3騎兵連隊に所属している1人の女性士官が、ここ最近急に業務が多くなったからである。
今回の戦争において、精鋭である近衛師団と、騎兵隊の有用性が再評価された。そしてその近衛師団で最も戦果が大きかった第15小隊は、軍の高級将校からは自然と注目を浴びるようになる。
その戦果の源は、サラ・マリノフスカ少佐による熱血指導によるものと分かると、必然的に「我が隊の教育もしてはくれないだろうか」という依頼が公式・非公式を問わず殺到した。そしてさらに第3騎兵連隊が王都を離れると分かると、さらに多くの依頼が彼女の下に流れ込んできた。
あまりの多さに、彼女は休日返上で他の部隊の教育をする羽目になった。なまじ作戦と訓練を司る第3科長に任じられたために、それを拒否することができずに部下の訓練に励まなければならなかった。
またその教育時において、将官級の人間が見物に訪れることもあって、さらに精神的な負担が増大したのである。
そのおかげで、この1ヶ月における近衛師団や王都防衛隊各隊の練度は目に見えて上昇したのだが、それと反比例して彼女の体力は減っていき、ユゼフ・ワレサが王都へ戻ってくると言う情報さえも聞き逃すほど疲労していた。
そして7月27日。
大佐に昇進し、そして第3騎兵連隊の連隊長となったミーゼルから2日間の休日を半ば強引にもぎ取ることに成功したサラは、ようやく体を休めることができた。7月27日は、佐官以上の者に与えられる官舎で一日中寝て過ごし、翌7月28日は朝の訓練を終えた後は王都観光に勤しむことになった。
「うーん、でもやることないわね……」
彼女は王都の事情を深く知ってるわけではない。王都に居たのは開戦前のほんの数ヶ月であり、その殆どは訓練に専念していたのだ。本格的な散歩は、大尉任官前、ユゼフと一緒に喫茶店でお茶をした時以来となる。
その一連の出来事を思い出した彼女は、若干頬を赤らめつつ、その喫茶店を探し出すことにした。だがその喫茶店がどこにあるかは既に記憶の遥か彼方にあり、探し出すことなど最早不可能だった。
「ま、散歩してたら見つかるでしょ」
彼女はやや投げやりな感じで王都の街を闊歩する。大した私服を持っていない彼女は休日にも関わらず軍服姿のまま散歩をしていたため、やや人々からは敬遠されていた。そのためか、通行人に道を尋ねようとしても、彼らはその前にどこか遠くへ行ってしまうのだった。
「……喫茶店の前に、服買おうかしら」
だが、その希望が叶うことはなかった。なぜなら、彼女は喫茶店の位置以上に服屋の位置を知らなかったからである。
結局サラは王都を適当に歩くしかなくなり、そして気づけばシロンスクの貧民街を歩いていた。
「…………」
事ここに至って、彼女は迷子になったことをようやく認めた。だが認めたところで現実は変わらなかった。貧民街の住民は、サラの着ている軍服に過剰に反応し、姿すら見せなかったため、道を聞くという選択肢がなくなったのである。
「…………えーっと、左、かしら」
人は道に迷った時、自然と左へ進んでしまうという話がある。例えば何も目標物がない砂漠では、右利きの人間は、真っ直ぐ進んでいるつもりでも徐々に左へ曲がってしまい、結局は大きな円を描いて元の位置に戻ってしまうらしい。
今のサラの状態は、まさしくそれだった。
彼女は30分間貧民街を歩き続けた結果、元の場所に戻ったのである。
「……訓練だ何だで忙しかったせいか、感覚が鈍ったらしいわね」
言い訳のように聞こえるが、確かにヴァラヴィリエの補給基地を襲った時の彼女であればこんなことにはならなかっただろう。
彼女はもう一度考え直し、左がダメだったから今度は右に進もうと結論付けた。
だがその時、彼女の右後方で緊迫した声が聞こえた。
「やめてください! おねがいです!」
「っるせぇ! 黙ってろ!」
その声がサラの耳に入った途端、彼女は走り出した。その声がする方向へと、全力で。
貧民街は、区画整理などと言う言葉とは無縁な街。建物が無秩序に林立し、街路は複雑である。そのため音も反響してしまい、音源の正確な位置を辿るのはかなり困難である。
だがしかし、彼女は持ち前の耳の良さから、最短距離で、最高の効率で音源に向かって走った。
常人であれば30分はかかるだろう場所の特定を、彼女はたった2分でやってのけた。
そしてその音源に居たのは、3人の男と、壁に追い詰められ蹲り頭を必死に腕で庇っている1人の少女だった。
それを見たサラが、冷静でいられるはずもなかった。
彼女は何も考えず全速力で突っ込み、そして拳を握り、速力と持てるだけの全ての力を、最も恰幅の良く、そして偉そうな男に向かって殴り抜いた。
数分の戦闘――いや、一方的な虐殺と言った方が適確か――によって、3人の男は頭から血を流しながら退散した。彼らが死ぬことはないだろうが、死ぬような思いをしたことは確かである。
一方のサラは右拳を痛めた程度で、無傷と言って良かった。
「大丈夫?」
サラが振り向くと、そこには蹲ったままの少女が居た。外見年齢は6歳前後だが、栄養状態の悪い貧民街ではそれはあてに出来ないだろう。そして少女の足元には、破れかけた小さな麻袋がある。穴からはシレジア銅貨が辛うじて見える。つまるところ、これがあの男たちに襲われた理由である。
少女の身体はあちこちに傷がある。それがあの男たちにつけられたものなのか、それとも別の要因によるものなのかは判断がつかなかった。だが、それを放置することはサラにはできない。サラは治癒魔術を使えるわけではないが、それでも簡単な傷の治療くらいはできる。
そう思って、サラは少女に手を伸ばした。だが
「ご、ごめんなさい!」
少女は再び怯えてしまい、腕で頭を庇うような体勢になった。
サラはこの時、自分が軍服を身に着けていることを思い出した。つまり目の前のこの少女は、軍人が怖いのである。
貧民街の子供が軍人を怖がる理由など枚挙に暇がない。
そう思った彼女は静かに腰を下ろし、少女と目線を合わせて諭すように言った。
「大丈夫よ。私は貴女に危害を加えることはしないわ」
もしサラが男であれば、この言葉は少女に信用されることはなかっただろう。だが彼女は間違いなく、とりあえず生物学上は女性であったことが幸いだった。
「…………ほんとう?」
「本当よ。私、嘘つくの嫌いだから」
サラがそう毅然と言うと、少女もそれを信じたのかおずおずと腕を頭から離し、そして落ちていた硬貨の入った麻袋を拾い上げた。そしてそのまま袋を開けてひっくり返し、サラに対してその袋の中身を全て――と言ってもシレジア銅貨2枚しか入っていなかったが――を差し出した。
それに対してサラは、静かに首を横に振った。
「それは貴女のよ」
「で、でも……」
「それよりも、私は貴女の名前が知りたいわ」
「なまえ……?」
「そうよ。名前」
「……わからない」
貧民街の子供に名前がない場合、大抵は捨て子である。物心つく前に貧民街に捨てられ、そして貧民街の住民の手によって生き延びる。だがその過程において、名付けをされることはない。名前を付けてしまうと、愛着が湧いてしまうからである。自分1人を養うのに精一杯なのに、さらに子供1人を養うことはできない。
そのため、殆ど多くの場合は捨て子は名前も付けられることなく、そして最終的には生き延びることは出来ず死に至るのである。
その事情は、サラも知っていた。
「……じゃあ、家は?」
サラはそう聞いたが、答えはわかっていた。名前がない子に、家なんてものがあるはずもない。当然少女の答えは「否」だった。
「わかった」
サラは短く言うと、唐突に少女を抱きかかえ、そして歩き出した。
「あ、あの!」
「何?」
「……ど、どこに?」
少女はたどたどしく質問した。
それに対して、サラはハッキリと答えた。
「私の家。とりあえず、お風呂に入りましょうか」
7月28日。
王都シロンスクの貧民街の人口が1人減り、そしてサラがユゼフと再会したのはこの日の出来事である。
サラさんを次席副連隊長から、いくつかコメントのあった第3科長に変更しました。皆さんの貴重なご意見本当にありがとうございます。これからもどうぞよしなに




