惨落
ヴァラヴィリエ補給基地壊滅の報は、セルゲイの予想通りバクーニン元帥を激怒させた。
「1個連隊が駐屯しておきながら、僅か300の叛乱軍に壊滅させられただと!? あの小僧は何をやっていたのか!?」
バクーニン元帥の怒りは的外れだったというわけではない。確かに数の上で見れば、いかに王国軍騎兵隊が精強だったとしてもここまでの被害を出したのは醜態と言っても良かった。だが、いつまでも怒り心頭と言うわけにもいかない。補給基地が壊滅した以上、帝国軍はタルタク砦に残された3日分の食糧だけで戦うか、撤退するか、あるいは降伏するかを選択しなければならなかった。
バクーニンは全ての戦闘を中止させ、帝国軍諸将を一度タルタク砦に戻させた上で、緊急の会議を開いた。
「それで、補給が元に戻るのはいつになるのだ?」
セルゲイ・ロマノフの直属の上司であるマルムベルグ大将は、やや不機嫌な口調で会議に参加していた補給参謀に問うた。
「ザレシエ、オスモラ方面の砦から至急物資を手配させるとしても、およそ7日はかかります」
「そんなに……!? し、周辺の都市や村から、徴発できんのか!?」
「出来なくはありませんが、何分ここは人口も経済力もない僻地です。またアテニ方面に軍を集めすぎたが故に、補給に過大な負担がかかっておりました。そのため、農村からの調達は数週間前から始めております。これ以上は、おそらく農村にもないでしょう」
「なんと……。ではここらで一番物資があるのは、叛徒共の領地の中だけだと、卿はそう言うのか!?」
「……残念ながら、それは認めざるを得ません」
それを聞いたマルムベルグは怒りを通り越し、ただ口を餌を求める魚のように動かすだけだった。そして実際、既に帝国軍は食糧を求めざるを得ない状況にあった。
「今回の作戦会議では今後我々がどうするかを決めるために開いたものである。食糧はあと3日、持って4日しかない。そして補給物資の調達に目途が立った頃には、叛乱軍は一斉に攻勢を仕掛けてくるだろう」
「飢えた状態ではまともに戦うことなど不可能。だとすれば、食糧があるうちに決断せねばなりませんな」
「撤退か、玉砕か、ですか……」
この期に及んで、玉砕を主張する者はこの場にはいなかった。いや、武勲を立てさせろと騒ぐ貴族の中級士官ならばそれを声高に叫んだかもしれない。だがバクーニンら高級士官と、身勝手な貴族らとでは課せられた責任と状況が違っていた。
貴族の士官は、例え戦死したとしても、周りにどう思われようとも「名誉の戦死」という箔がつくことになるだろう。残された家族にとっても、それは陞爵の機会が与えられる機会となるやもしれない。
だが司令官として部隊を指揮する中将以上の高級士官たちは、戦死してもなお敗北の責任を取らせられることは疑いようもない。特に総司令官の座となってしまったバクーニンの責任は大きく、もしこのまま帰還すれば「帝国軍40個師団を無為に死なせさせた無能な将軍」として弾劾されるだろう。
しかしバクーニンは別の考えも持っていた。それは王国軍に対して攻勢を掛け、王国軍の拠点を落とし、そこにあるであろう物資食糧を略奪すると言う、極めて過激なものだった。
もし失敗すれば、それが玉砕に繋がると言うことはバクーニンにも理解はできた。だが成功した場合、物資不足を嘆く心配はなくなるだけでなく、アテニ方面の王国軍を無力化できる。
撤退か、それとも略奪か。バクーニンはどうするかを、会議室に集まった者たちに聞こうとした。だがその前に、事態は帝国軍にとって意外な方向に転がり始めた。
午後4時35分。
作戦会議室に、ある人物がノックもなしに闖入してきた。それはバクーニンの副官で、彼は大変慌てた様子であった。あまりにも慌てていたため周囲の者が彼を落ち着かせようとしたが、その副官はそれらの善意を無視して、バクーニンの傍に駆け寄った。
「元帥閣下! 大変です!」
「どうした?」
「そ、それが、今早馬の通信文が届いたのですが、その、あの……」
「落ち着け、息を整えろ。何があった?」
バクーニンに促された副官は、二度三度深呼吸をし、どうにか落ち着いた。だが彼が発した言葉は、作戦会議室に居た者全員の呼吸を一瞬止まらせるのに十分な威力を持っていた。
「オストマルク帝国が、我が国に対して非難声明を発表した模様です!」
「なに!?」
それは、在オストマルク帝国シレジア外交官ユゼフ・ワレサによる最後の切り札だった。
そしてその切り札が切られた意味を、この場に居た帝国軍諸将は余すことなく完全に理解した。オストマルク帝国が反シレジア同盟から離脱し、それどころか敵対することになったのである。さらにこの非難声明に、キリス第二帝国が便乗してしまう可能性もあった。
主力がシレジア国境に移動し、そして現在シレジア戦で財政的負担を抱えている東大陸帝国が、この二つの帝国の侵略を阻止するだけの余裕はない。
その結論は、セルゲイに散々無能だと評されたマルムベルグにも理解が出来た。
そして無言の内に、衆議は決した。
「すぐに叛乱軍、いやシレジア王国軍と和議を結ぶ。それに伴い、一切の戦闘行為を禁止する! 良いな!」
「ハッ!」
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オストマルク帝国外務省が発表した非難声明の情報は、当然シレジア王国軍前線基地レギエルの下にも届いていた。それと同時に、ミーゼル騎兵隊が帝国領への侵入に成功したという情報も司令部に入り、王国軍諸将はこの瞬間戦争の勝利を確信した。王国軍総司令官キシール元帥は即日高級士官を集めて会議を開き、今後の検討を開始した。
なお、この場にはエミリア王女はいない。彼女は未だラスキノ自由国領カリニノにおり、王国軍騎兵隊の帰りを持っている
まず最初に発言したのは、総参謀長レオン・ウィロボルスキ大将だった。
「これは、絶好の機会。なのではありませんか?」
「……卿の言う『絶好の機会』とやらは、何の機会なのだ? 攻勢を掛ける機会か? それとも講和をする機会か?」
「無論、攻勢です。エミリア高等参事官の作戦のおかげで、我々は敵の補給線を断つことに成功する、いやそろそろ成功したはずです。いずれ敵は飢えて行動できなくなり、そして非難声明のおかげで積極的な行動が出来なくなっているはず。そこを突けば、一気に敵を壊滅させることが叶いましょう。可能ならば、こちらが帝国に対して殴り込みをかけることも出来る」
ウィロボルスキの意見は間違ってはいなかった。
敵の補給が切れ、そして政治的・外交的優位をシレジアが確立した以上、ここで一気に攻勢を掛けて帝国軍を撃滅、さらには帝国に対する逆侵攻作戦を仕掛ける。そうすれば、かつて第二次シレジア分割戦争で帝国に奪われた旧シレジア領をも奪回することができる可能性があった。
だが、これに対して慎重論を唱えたのはヘルマン・ヨギヘス中将だった。
「総参謀長の意見にも一理あるとは思う。だが、帝国に逆侵攻するだけの戦力と兵站の余裕は、我々にはない。現状、アテニに対する攻勢にも苦戦しているのだからな」
「ヨギヘス中将は慎重だな。だがいずれ帝国軍は飢える。逆侵攻は無理だとしても、アテニの20個師団をその悉くを撃滅することが可能ではないのか?」
「出来なくはない。だが、撃滅してどうするのだ? 恐らく帝国の奴らは我々に和議の申し出をしてくるだろう。条件は占領地の解放、原状回復だ。それは帝国軍を倒しても、倒さなくても同じなはずだ。だとすれば、要らぬ犠牲を出す理由はないだろう」
「……なるほど。確かにな」
これはどちらかと言うと戦術や戦略ではなく政治の論理だったが、ヨギヘス中将の意見は正しかった。
王国軍がアテニに立て籠もる帝国軍20個師団を撃滅せんと動けば、当然王国軍にも被害が出る。だが、帝国軍は既に戦意はなく、人口も経済力もないこの地方を占領し続け割譲を迫る余裕もない。いずれ和議が結ばれれば、アテニ湖水地方は無血の内に解放されるだろう。
ヨギヘス中将の意見に、総司令官キシール元帥や副司令官ラクス大将、そして総参謀長ウィロボルスキ大将が賛同したため、帝国軍に対する攻勢作戦は無期限延期とされた。
翌6月14日午前9時50分。
東大陸帝国の使節団と名乗る集団が、白旗を掲げながらギニエに訪れた。使節団の代表者はミリイ・バクーニン元帥。彼らの目的は、休戦交渉だった。
「我ら東大陸帝国は、貴国に対して休戦を提案する」
彼らの態度はやや尊大だった。つい昨日まで王国軍のことを「叛乱軍」と呼称していたにも関わらず、今になってやっとシレジアを国扱いを始めたことに怒りを覚えた将軍も多くいた。だが休戦交渉の席についたキシール元帥はそれを指摘することなく、帝国と休戦交渉を開始した。
キシール元帥は彼らの尊大さの裏に、ある感情が隠されていたことを見抜いていた。
帝国の使節団は焦っていた。それを殊更表に出すことはなかったが、キシールは彼らの状況と様子を観察して、それを見抜いた。
休戦交渉が始まったとしても、帝国軍が現在抱える補給の問題は何も解決していない。彼らが今すぐ撤退すれば、物資が尽きるか尽きないかのギリギリの時に増援の補給部隊と合流できる。だが交渉が長引き、軍を後退することができない状況が続けば、帝国軍は飢え始める。
総司令官キシール元帥と総参謀長ウィロボルスキ大将は帝国軍のその状況を確認すると、少々冒険的な要求を帝国軍に吹っかけた。
「シレジアを占領している帝国軍の完全撤退、及びアテニ湖水地方に隣接する旧シレジア領ヴァラヴィリエとルダミナに帝国軍を駐留させないこと。これが条件である」
帝国軍の補給基地があったヴァラヴィリエ、そしてタルタク砦から東南東に位置する帝国領ルダミナは、かつて第二次シレジア分割戦争の時、東大陸帝国に奪われた旧シレジア領である。キシールは「その二つの土地はシレジアが恒久的に占領、つまり割譲させるために空けておけ」と言ったのである
キシールとしては、別にその要求が帝国に蹴られても良かった。ただこちらに余力がある様に見せつつ「ヴァラヴィリエとルダミナの割譲だけで許してやる」という態度を取ったのである。
帝国としても、ヴァラヴィリエとルダミナを固守する必要性はない。元々シレジア領であったのもそうだが、それ以上に失っても痛くないほどの人口と経済しか持っていない地域だったからである。
バクーニン元帥は「即答できない」と答え、当初は「結論は明日以降に持ち越す」としていた。だが、その間にもタルタク砦の物資は減っていく。ここに至ってバクーニンは、敗北を認めざるを得なかった。
キシールの提案から数時間後。帝国軍総司令官バクーニン元帥は、アテニ湖水地方からの完全撤退、そしてヴァラヴィリエの駐留軍移動に合意した。だが、ルダミナについては「保留」とし、今後の両国の政治交渉において決着を図ると述べた。
キシールとウィロボルスキは、蹴られると思っていた要求が半分通ったことに満足し、バクーニンの提案に賛同した。
大陸暦637年6月14日午後2時。
後世「ギニエ休戦協定」と呼ばれることになる休戦協定は、この時に結ばれたのである。




