越境
帝国軍少将セルゲイ・ロマノフが後方拠点のあるヴァラヴィリエに到着したのは、彼がタルタク砦を出立してから2日後のことである。
彼は6月5日に「予備兵力を投入し叛乱軍の後背を遮断すべし」という上申書を帝国軍総司令官バクーニン元帥に手渡した。数日後、この上申は受け入れられたのだが、バクーニンはその伝令役としてセルゲイを任命したのである。
「体のいい厄介払いだろう。俺が意外と武勲を立てて、しかもピンピンして帰ってくるもんだから鬱陶しく思ってきたのだろうな」
「閣下、声が大きいです」
セルゲイ師団は、師団と名がついているものの戦力は補充されておらず、さらには魔術兵や弓兵、騎兵と言った専門性の高い兵科が引き抜かれてしまったため、実態としては1個歩兵連隊になっていた。
それは帝国軍でも戦力の余裕がなくなってきたからとバクーニンから説明されたが、セルゲイの意見は違っていたようである。
「確かに戦力は減っているさ。でも、多分俺に戦力を持ってかれるのが嫌なのさ。俺が1個師団を持っていたら、戦果を挙げるだけだとようやく気付いたらしい」
それはバクーニンの人を見る目の無さを批判しつつ、自らの能力に多少の自信を持っていることの表れだった。無論セルゲイは過剰に自信を持つことは避けていた。過剰な自信は慢心に繋がり、それが敗北への近道だと、彼は先日の戦いで知ったからである。
だがこれ以上彼を好きに喋らせると、周りから何を言われるかわからない。セルゲイの友人であるクロイツァーはそう思うと、半ば無理矢理話の流れを変えさせた。
「それよりも閣下。どうなさるのですか?」
「……どうするも何も、命令には従わなければならないだろう。ま、『急いで行け』とは言われなかったから、自分のペースで行くことにするさ」
「はぁ……」
こうして、伝令兵の任務を授かったセルゲイがその任務を半ば放棄してヴァラヴィリエの後方警備を始めたのが6月10日の午後8時30分のことである。
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ほぼ同時刻、王国軍ミーゼル中佐率いる騎兵隊300は、ラスキノ=東大陸帝国国境付近に陣を敷いていた。あと数時間東に進めば国境を越えることとなるため、日没まで待機する。春が通り過ぎ、既に夏に突入している高緯度地域では、太陽は午後9時にならないと完全に沈まない。
では午後9時になれば暗くなるのかと言えばそうではない。太陽という強大な光源は、例え地平線の向こうに沈もうとも大地を照らし続ける。日が没しているにもかかわらず、空が明るい時間を「薄明」と呼び、東方では「逢魔時」と呼んでいる。
そしてこの薄明にはさらに市民薄明、航海薄明、そして天文薄明という3つの時間に分けられる。
簡単に言えば、市民薄明は文字通り市民が活動できるくらいの明るさがある時間。航海薄明は、天と地の境目を認識できる時間。そして天文薄明は、夜空の星が全て肉眼で確認できる時間である。
今回の作戦、夜間浸透を行うのであれば、少なくとも航海薄明の時間まで待たねばならない。だが先述のようにラスキノは高緯度地域で、夜の時間は非常に短い。そのため天文薄明の時間はわずか30分しか存在しせず、航海薄明も合計で4時間程しかない。
そして午前3時になれば、早くも太陽が自己主張を始めるのである。そのため王国軍が動ける時間は、3時間が限界だろう。
そしてそのわずかな時間でさえも、月齢およそ17の月が照らしているのである。
空は晴れていた。雲一つないわけではないのがせめてもの救いだが、依然危険性は高い。
そこでミーゼル中佐は、サラ・マリノフスカ大尉の第15小隊を国境付近の監視に当たらせた。帝国軍の国境警備隊がどれほどいるのか、その警戒網に穴があればすぐに浸透を図るための偵察である。
だが、その任務を請け負ったサラは不満顔だった。
「ザレシエと言い、今回と言い、なんで私が偵察任務ばかりしてるのかしら……思えばラスキノでも偵察ばっかしてたわ」
「隊長? どうしました?」
「なんでもないわよ」
隠密偵察という都合上、その任に当たる者の能力が低かった場合敵に察知される恐れがある。ミーゼル中佐は、だからこそ今回の戦争で活躍した第15小隊に偵察任務を与えたのだが、その事情を知らないサラは終始不貞腐れていた。
無論、だからと言って任務に手を抜くような彼女ではない。
「コヴァ。何か見える?」
望遠鏡を覗いている部下に対して、サラは不満の感情を彼女なりに封じ込めながら状況を聞いた。
「なんでそんなに不満を押し殺してる様な声をしてるのか知らないですけど、帝国軍の国境警備隊の類は見えませんよ隊長」
「……前半の部分はいらないわよ」
彼女は部下から望遠鏡をひったくりつつ、前方を注視する。確かにコヴァルスキの言う通り、国境地帯には誰もいない。既に太陽は地平線近くにおり、日が完全に没すれば辺りは暗くなる。その前に帝国軍警備隊が展開しなければ、国境の判別がしにくくなってしまう。
「既に日が傾いているのに、この付近に一兵もいないって言うのはどういう意味だと思う?」
「普通に考えれば、ラスキノ軍が侵入してくる可能性はないと踏んで戦力を別の場所に移しているのでしょう。ですが……」
「ですが、何?」
「罠、と言う可能性もあるのではないかと」
「罠ね……」
コヴァルスキの言う通り、罠の可能性がないわけではない。帝国軍がどこからか情報を掴み取り、王国最強の近衛騎兵を罠に掛けようとしている。その可能性をコヴァルスキは警戒していた。
だが、サラはその可能性をすぐに否定する。
「たぶんその可能性はないわね」
「……理由をお聞きしても?」
「女の勘」
その答えを聞いたコヴァルスキは唖然としたが、彼女の勘が外れたことがない事を思い出した。
サラの言う女の勘は、女性特有の感覚と、騎兵特有の感覚が組み合わさったもので、その精度は非常に高いものになっていた。
もしも他の者がこれを聞いたら「理論的でない」と嘲笑するだろう。だが彼女のこの勘は、理論的にも当たっていたことは確かである。
仮にサラの傍に、親友であるエミリアやユゼフが居たらきっと以下のように答えたことは疑いようはない。
「帝国軍がシレジアのこの作戦に気付いたのならば、奇襲隊を待ち伏せして撃滅するなどと考えず、ただ1個師団を国境に張り付けるだけで良い。そうすれば国境警備隊との数の差を見た奇襲隊は戦わずして撤退するだろうから」
だが、ラスキノ=東大陸帝国国境には警備隊の姿は見えない。これは夜間浸透の好機と言えるだろう。
「コヴァ。中佐の所に戻って報告。『今夜にでも越境すべし』とね。私はここで見張りを続けるわ」
「了解です」
コヴァルスキの報告から数時間後。
太陽は完全に地平線の彼方に潜り込み、その姿を消している。その太陽に代わって東の空から現れたのが、月齢およそ17の月だった。満月から少し欠けた程度のその月は、付近を見渡すだけの十分の光量を放っていた。
サラは日が沈んでからもずっと国境の監視を続けていた。相変わらず帝国軍の警備隊は見えない。越境するには、最高の時機かもしれない。もしもこれを逃せば、明日には大量の警備隊が現れるかもしれない。月夜を恐れるあまり、敵が少ないという好機を逃すことは愚策であると、彼女は判断した。
「大尉。どうだ、行けそうかね?」
気付けばミーゼル中佐が彼女の近くまで来ていた。サラが気付かなかったのは、監視に集中していたためでもあるが、それ以上に藁沓を履いた馬の足音が極限までに減らされていたこともある。
「私としては、絶好の機会だと思います。警備の数が少ないため、月齢を気にしなくても良いかと」
「……わかった。貴官の報告を信じよう」
それを聞いたサラはゆっくり立ち上がり、そしてミーゼルが連れてきた自分の馬に乗る。ミーゼルが全員の騎乗を確認すると、小さな声で、だが全員に聞こえるようにハッキリとした声で号令した。
「これより、越境作戦を開始する。なるべく音を立てるな」
それを聞いた部隊は返事をすることなく、ただ静かに首を縦に振ったのみである。
6月10日午後10時30分。
シレジア王国軍近衛騎兵奇襲部隊は、静かに国境を越えた。




