カリニノ城
ダリウス・ミーゼル中佐率いる騎兵隊とエミリア王女が、シレジア=ラスキノ国境に到着したのは、6月6日午前8時30分のことである。当初予定通り、王国軍後方拠点のリーンで馬を乗り換えて全力で走ったため、本来の行軍速度では10日かかる距離を、僅か1日で国境に到着した。
「ここからは他国となります。私が交渉しに行きますので、隊はここで待機していてください」
「了解しました」
騎兵隊に先んじてラスキノに入国するのは、エミリア王女とその護衛、そして騎兵隊長ミーゼル中佐とラスキノ独立戦争に参加したサラ大尉である。だが入国と言っても、国境線には何かあるわけではない。独立後間もないこの国では、国境を十分警備できるだけの兵力を置くことができないのだ。
カリニノは、国境線から馬を全力で走らせて半日の距離にある。よって、6月7日の夕刻にはエミリア一行は目的地に到着した。
カリニノは、ラスキノ旧市街よりも立派な城壁に守られている城塞都市である。だがラスキノ独立戦争勃発当初、この都市を守る独立軍は300に満たなかったため、帝国軍の鎮圧部隊にあっさり降伏している。だが幸か不幸か、激戦となったラスキノと違い市街の被害が少なく済んでいた。
独立戦争がラスキノ独立派の勝利に終わると、帝国軍もカリニノから撤退したという。対シレジア拠点として重要な都市だったカリニノを手放した理由は不明だが、ともかくカリニノもラスキノ自由国領と相成ったわけである。
エミリア王女は、城門を警備する兵に自らの身分を明かすと、数分で都市内部へ入ることができた。
この街はラスキノと同じく中央に荘厳な城があり、そしてラスキノと違ってほぼ真円の形をした城壁によって守られていたことがわかった。
エミリアは本音を言えばゆっくり観光をしたかったが、今はその時ではないことを思い出すと、早速中央のカリニノ行政府庁舎を兼ねた城へと歩を進めた。
だが、その城の入口には意外な人物が待ち受けていた。
「お久しぶりです。エミリア・ヴィストゥラ様。いえ、エミリア・シレジア王女殿下、でしたね」
「……はい。お久しぶりです。ニキタ・タラソフ中佐」
ニキタ・タラソフと呼ばれたその男は、かつてラスキノ攻防戦南西戦線において精鋭の剣兵隊を率いて勇戦し、そしてラスキノ独立軍の捕虜となった、東大陸帝国軍の士官である。
彼と面識のあるのは、南西戦線で直接降伏勧告をしたエミリアのみだ。彼女は目の前にいる人物を珍獣のように見ていたが、傍に居たサラはタラソフの名を思い出すとすかさず剣の柄に手を掛けた。数ヶ月前までは敵として戦い、そして今も敵かもしれない帝国軍士官となれば、その対応は正しい。
だがエミリアは剣を抜きかけたサラを素早く制止すると、1歩進んで彼に問いただした。
「……タラソフ中佐がなぜここにいるか、理由を聞いても?」
「構いません。ですがここではなんですので、どうぞ中へ」
彼はそう促しつつ、エミリア一行に無防備な背中を晒して歩き出す。それは、彼がエミリア一行に手出しする気はないという意思表示でもあった。
タラソフは客人を先導しつつ、先ほどのエミリアの質問に少しずつ答えていった。
「自分がここにいる理由はニつあります。一つ目は、捕虜になったその瞬間から、帝国には私の居場所はありません」
「……なぜですか?」
「帝国では、少なくとも建前において士官が捕虜になることは禁止されているのです。下級兵が甘んじて捕虜となることは許されますが、佐官以上の者は機密漏洩防止のためということで、捕虜になることを禁じた軍紀があるのです」
「つまり、帝国に帰っても軍法会議が待っているだけだと?」
「その通りです。死刑にはならないとは思いますが、不名誉除隊にはなるでしょう」
それを聞いたエミリアは、心の中で笑わざるを得なかった。それはタラソフを笑ったものではなく、今回の戦争においてシレジアの捕虜となった帝国軍上級大将ルイス・グロモイコの存在を思い出したからである。彼は自分が助かりたいがために甘んじて捕虜になるだけではなく、ヤロスワフを包囲していた帝国軍5個師団の武装解除命令まで出している。恥も外聞もなく、彼は自分の命を守るためにあらゆるものを捨てていた。
無論、それが帝国軍高級士官共通の認識ではないことは彼女もわかっている。ザレシエ会戦の終盤、帝国軍総参謀長ワレリー・ポポフ上級大将は、王国軍の降伏勧告を受諾、全軍に武装解除を命じた後自ら命を絶っている。ポポフの武人としての最後の矜持がそうさせたのだと、彼女は理解していた。
エミリアはその心の中で再びポポフに対して敬礼すると、タラソフに質問を続ける。
「ご家族は、大丈夫なのですか?」
「……そうですね。それが二つ目の理由です。もし私が帝国に帰って不名誉除隊となれば、家族に迷惑が掛かります。私の家は一応貴族ですが、それでも政治的発言力の低い男爵家です。もし戦死したはずの私が帰ってきたら、最悪家が取り潰しになってしまいます」
「なるほど……」
タラソフの声は酷く無感情なものだったが、それこそが彼が「家族に会いたい」と強く思っている証拠ではないかと、エミリアは思った。もしかしたら、彼の言う「家族」には、恋人や妻、子供も含まれていただろう。タラソフが戦死扱いになっているのなら、彼は二階級特進を果たし、そして家族には帝国政府から遺族年金が出ているはずである。だが彼が帰還してしまった場合、年金を全て没収されるばかりか、「卑怯者とその家族」という汚名を背負いながら生き続けなければならない。
だからタラソフは帝国に帰ることができなかった。
彼は演技をしなければ、その弱い感情が全て表に出てしまい、自我を保てなくなるほどに精神が崩壊してしまうのではないか。そう思うと、彼女は帝国軍将兵もシレジア王国民と同じ人なのだと再認識せざるを得なかった。
だが、エミリアは立ち止まることは許されないし、立ち止まろうともしなかった。
自分が大量殺戮者の端くれで、多くの人民の血と涙を流してきた人間だと認識しても、なお彼女は祖国を守るために戦うことを決意したのである。
「こちらが、行政府長の執務室になります。既に首長にはエミリア王女殿下が来ることはお伝えしてありますので、ごゆっくりどうぞ」
「えぇ。ありがとうございます、タラソフさん」
エミリアは、立ち去るタラソフの後ろ姿をしばし見つめた後、執務室の戸を開けた。




