作戦開始
近衛師団サピア中将と総合作戦本部高等参事官エミリア少佐の連名で上申された作戦案が、レギエルで開かれた作戦会議にて了承されたのは5月29日のことである。作戦に参加する部隊は、王国最強の近衛師団第3騎兵連隊、その中核を担う第1中隊。副連隊長ダリウス・ミーゼル中佐の指揮の下、6月5日に出撃することが決まった。
また第1中隊出撃に同行して、第一王女エミリア・シレジアがラスキノに対して陸軍の通行許可及び補給物資の調達を求めるべく護衛隊も出撃することになった。王女は帝国領に侵入することはないが、それでも念のため、親衛隊と近衛歩兵を数十名引き連れての進発だった。
その王女一行がレギエルを出発する直前、ちょっとした幕間狂言が催された。
「殿下! なぜ私を連れて行ってくれないのですか!?」
王女の侍従武官マヤ・クラクフスカは、主君に対して抗議をしていた。それは抗議と言うより、自分の悲劇の度合いを訴えるような口調であったが。
それに対して、彼女の主君であるエミリア王女は諭すような口調で説得をした。
「マヤ。我が儘を言ってはなりませんよ?」
「我が儘などではありません! 私はエミリア王女の侍従武官です! 王女に付き従う義務と責任が……」
「あら? 今は違うでしょう?」
「えっ?」
「ザレシエ会戦の時、貴女はどこにいましたか?」
「……あっ」
マヤ・クラクフスカはザレシエ会戦前、エミリア王女の意向によりシュミット師団の剣兵小隊長に転属している。その後、別命がなかったため今でもマヤはシュミット師団所属と言うことになっている。それは急遽決まったことで暫定的な措置であったため、直属の上司であるシュミット少将でさえ忘れていたことだった。だが、それ以来マヤは王女に付き従う義務と責任は生じていないのは確かである。
「いや、でも、その……」
「心配いりませんよ。私は敵地に赴くわけではありません。少し政治交渉しに行くだけです。それに」
「それに?」
「私とサラさんが一時的にアテニから離れてる間、帝国軍が攻勢に出た時、マヤがこの地を守っていただかねば困ります」
「殿下……!」
マヤはエミリアの言葉に感動を禁じ得なかった。我が主君は、自分に背中を預けてくれたのだと理解すると、侍従の身としては歓喜の極みである。
もっとも、これはエミリア王女の方便だったのだが。
エミリアは、帝国は暫く大規模な攻勢に出ることはないと考えていた。理由は不明だが、帝国軍予備兵力の残り5個師団がこの情勢になっても王国軍の後背に出ようとしない。そんな時に帝国軍が攻勢に出ても出血多量で死を待つのみだ。
が、そんな事情を知らない、少なくとも知らないように見えるマヤは、大きな声でエミリアに忠誠と命令遵守を誓った。
「殿下。ここは私が守りますゆえ、どうぞ気兼ねなくご自身の責務を果たしてください」
「無論です。マヤも、お願いしますね」
6月5日午前5時20分。
朝日が眩しい朝、近衛師団第3騎兵連隊第1中隊とエミリア王女一行はレギエルを発した。
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一方の帝国軍では、一部の将帥の中級士官が高ぶっていた。その殆どは皇帝派貴族家の当主、もしくは嫡男だった。彼らは新たな領地と名声と爵位を求めて、武勲を欲しがっていたのである。
「元帥! こうやって睨み続けているだけでは勝てませんぞ! ここは一気に攻勢に出て、叛徒共の首を、この剣先に吊るしてやりましょう!」
「そうだ! 子爵の言う通りだ!」
「元帥! 出撃の許可を!」
彼らは、正式に帝国軍総司令官の座に就いたバクーニン元帥に執拗に上申を繰り返していた。自らも皇帝派であるバクーニン元帥自体、攻勢を仕掛けたいと思っていた。だが堅固な防御陣を敷く王国軍によって、彼の、もしくは彼の部下が立案した作戦はその悉くが跳ね退けられていた。
王国軍を叩くには、もっと広い視野から戦術を組み立てねばならぬことはバクーニンもわかっていた。だがそれをできるだけの能力が彼にはなく、出来ることと言えばアテニ湖水地方に立て籠もり続けて、敵の疲労と補給の負担が限界に達するまで待つことだけだった。
そんなバクーニンの弱腰にも見える指揮は、一部の貴族から不評を買った。特に5月21日の帝国軍の攻勢作戦が失敗すると、貴族の暴走に拍車がかかった。「バクーニン元帥が出来ないのならば俺がやる」と言わんばかりに、バクーニンに攻め寄ったのである。
挙句の果てには待機命令を無視して勝手に突撃を繰り返す将帥も続発した。
5月31日には、バクーニンに陳情していた士官の1人であるバルジャイ子爵が旗下の騎兵隊を率いて、王国軍ラクス大将の軍団に突撃、勇敢とも無謀とも言える戦いを行った。当然、バルジャイ騎兵隊は王国軍の反撃に遭って、バルジャイは戦死を遂げた。
これによって貴族共は大人しくなったかと言えば、そうでもなかった。
ある貴族はバルジャイ子爵を「帝国に殉じた英雄」としてその行動を讃え、またある者は「バルジャイは無能だから死んだ。俺がやれば違っていた」とバルジャイを公然と非難した。
こんなことが帝国軍内部で頻発すれば、下級兵の士気や今後の作戦にも関わる。バクーニン元帥は早急に、彼らの不満を逸らす必要性に迫られたのである。
このような事が頻発している理由は開戦前、今は亡き前帝国軍総司令官ロコソフスキ元帥の激励のせいである。彼はその時、信賞必罰の心を必要以上に強調していた。それを真に受けた貴族の将帥が、このような短慮な行動に出てしまったのである。
一人頭を抱えるバクーニン元帥を傍目に、帝位継承権第一位にして帝国軍少将であるセルゲイ・ロマノフは悠然としていた。
彼は5月21日の作戦失敗以来、軍内部における発言権を著しく低下させてしまっていた。旗下の師団も戦力が定員を割ったままであり、彼自身も自由に動けることもできずにいた。
「でも、方法がないわけじゃない」
セルゲイは、脇に立つ友人兼話し相手兼護衛の親衛隊長のミハイル・クロイツァー大佐と一時の休息――と言っても彼此1週間以上は経つが――を取っていた。クロイツァーもセルゲイと同じく暇を持て余していたため、彼の話し相手という重要な任務を続けている。
「そうなのですか?」
「あぁ。もし俺が叛乱軍、もといシレジア王国軍とやらだったら、バクーニンが意図している消耗戦にちんたら付き合うわけない」
「確かに……。では、閣下が元帥の地位にあればどうなさります?」
「そうだな。今コーベルで油を売っているだろう残りの予備戦力を投入して、王国軍の背後を襲う。そうすればたちまち奴らの敗北への坂道を転がり続けるだろうな」
「では、それを司令部に上申されては?」
「え? なんで?」
これを聞いたクロイツァーは驚かざるを得なかった。セルゲイは心底疑問に思っているような表情をしていたからだ。
「なぜって、それをすれば我が帝国は勝てるのでしょう?」
「勝てるよ。たぶん将兵の命を無駄に失わせることはないだろう」
「ではなぜ?」
「なぜって、十中八九この提案が通らないことがわかっているからさ」
それを言った彼は心底不機嫌そうな顔をした。クロイツァーから見れば、盛大な溜め息をつくセルゲイの行動が庶民的すぎて、少し可笑しかった。無論不敬にあたるため、顔に出すことはしなかったが。
「俺は立場上、マルムベルグの指揮下にある。だから作戦案を上申するとしたら、まずあのマルムベルグの野郎に許可を取らなければならないんだ。あの、マルムベルグだ」
セルゲイはリダに到着した時のマルムベルグの対応を思い出し、より一層不機嫌になった。眉間に酷い皺が寄っているのが、なによりの証拠である。
「では、非礼を承知でバクーニン元帥に直接上申してみては? 少なくともバクーニン元帥はマルムベルグ大将よりは話の分かる方です」
クロイツァーはそう助言したが、確証があったわけではなかった。それにバクーニンは現在、貴族の相手に忙しく他の部隊の上申書を読む暇もないだろう。セルゲイの不機嫌さを和らげるために言ってみただけ、という意味合いが強かった。
だが、セルゲイはクロイツァーの予想を裏切った。いや、クロイツァーはもしかしたら予想はしていたかもしれない。セルゲイは、やる時はやる男である。
「そうだな。バクーニンの奴も俺の政敵には違いないが、将兵を無駄に死なせるよりはマシか。早速上申書を作って提出するとしよう」
セルゲイが作成した上申書が、クロイツァーの助言通りバクーニン元帥に手渡されたのは、6月5日のことである。




