サラの作戦
エミリア王女が抱えていた悩みに解決の兆しが見えたのは、彼女らが沐浴を満喫した翌日の5月27日のことである。
この日、レギエルの初級学校に設置された仮司令部の高等参事官仮執務室に2人の来客があった。
1人は悩み事を打ち明けた相手である、近衛師団所属のサラ・マリノフスカ大尉。
もう1人は事情を知らないはずの、王国軍補給参謀補ラスドワフ・ノヴァク中尉である。
彼女らは、初級学校にありがちな「廊下を走るな」という規則を豪快に無視して、エミリアの下を訪れた。
「エミリア!」
「……あの、サラさん。廊下は走っては駄目ですよ?」
「そんな軍紀はないわ!」
サラの言う通り「初級学校に貼られている注意書きを守れ」という軍紀は王国軍にはない。
社会常識上の問題はこの際置いておく。
「はぁ、それで。どうかしましたか? そんなに急いで」
「私に良い案があるわ!」
「……はい?」
エミリアは一瞬何を言われたかわからなかった。だがその時サラから受け取った紙を見て、それが昨日の悩み事の解決案だと気づいてすぐに得心がいった。
そして数秒後、再びサラが何を言ったか理解できなくなった。
「…………サラさんが?」
「?」
考えることはユゼフとエミリアに投げている、と豪語していた彼女がまさか作戦を立案するとはさしもの彼女も思いもしなかったことである。これは他の者も同じようで、ラデックやマヤも不可解な現象を見るような目をしていた。
「サラ殿が作戦を?」
「あのマリノフスカ嬢が?」
「……意外ですね」
「みんなしてなにその反応……」
この周囲の失礼な反応を見たサラは一瞬しょぼくれたが、すぐに気を取り直して「良い案」について話した。
「ま、みんなの気持ちもわかるわ。ラデックに来てもらったのも、この作戦について色々聞きたかったのよ」
「そういうことなの?」
「教えてなかったんですね……」
「あぁ。急に腕を引っ張られて連れてこられたからな」
「それはともかく!」
サラはエミリアの机を思い切り叩いて会話の流れを変えた。感情をその腕に乗せすぎたせいか、叩いた本人の顔が少し歪んだ。
「とりあえず作戦書を読んでみて! 話はその後よ!」
サラの作戦は、とても作戦と言えるようなものではなかった。何せ紙1枚で、内容も酷く単純だ。
人員配置、作戦日時、補給計画、その他諸々の諸計画が全て省略されていた。あるのは、部隊の抽象的な作戦行動と、その目的だけだ。
本来であれば読まずに捨てられるであろうお粗末な作戦書だったが、エミリアはそんなことはしなかった。一文字一文字丁寧に読んで、そして彼女なりの解釈と修正を加えたのである。
サラの立案した作戦は以下の通り。
「機動力に優れた少数精鋭の騎兵を用いて、戦場(この場合アテニ湖水地方全域)を大きく迂回。敵後方を襲撃、攪乱し、補給線を遮断する。その際、可能であれば敵の後方拠点を壊滅させる」
という作戦である。
この作戦を実行した場合の利点は2つ。
ひとつは、補給が途絶えた帝国軍25個師団が最悪の場合餓死することになるということ。そこまで行かなくとも、将兵の士気と体力を大いに削ることができる。人口も少なく、経済的にも裕福とは言えないアテニ湖水地方では、食糧の現地調達など不可能だ。
飢えたところで一気に王国軍が攻勢に出れば、帝国軍は瓦解する可能性が高い。
もうひとつは、和平交渉時において重要な材料として使える可能性がある事だ。
補給が途切れて飢えかけている20万以上の将兵の命を助けたければ、今すぐ占領地を放棄して講和しろ、と言えるかもしれない。
帝国が如何に農奴に対して悪逆非道な統治をしようと、建前としては助けないわけにはいかないのである。帝国としては、悩みどころだろう。
この作戦を実行するにあたって、サラは「少数精鋭の騎兵隊」を用いるとした。
これは戦利に適っていた。奇襲を行うと言う関係上大部隊を動かすわけにはいかない。人数の多い部隊を動かせば、敵に察知される確率も高まる。せいぜい1個中隊300騎が上限だろう。
騎兵という点も理解ができる。一撃離脱に秀でた騎兵ならば、奇襲に成功した場合の戦果は計り知れないだろう。これは先のレギエル会戦の時、近衛師団第3騎兵連隊が帝国軍左翼部隊の左側背を襲い、莫大な戦果を挙げたのがいい例である。
エミリアは、サラ・マリノフスカという女性士官が、頭だけは優秀なユゼフ・ワレサから戦術を教わった人物であると再認識せざるを得なかった。
だが、エミリアもまたユゼフから戦術を教わった身であるため、すぐにこの作戦の欠点に気付いた。
「サラさん。騎兵の戦略速度はご存知ですね?」
「……えぇ。勿論よ」
エミリアが言わんとしたことは、騎兵科次席卒業のサラにも理解できた。
軍における速度には2つの種類がある。
戦場における速度である「戦術速度」と、拠点から戦場に移動する際の速度である「戦略速度」である。
確かに、馬は速い。人間の数倍の速度で戦場を駆けるため、その機動力は重宝される。
だが、長距離移動となると話は別である。いくら馬が速くとも、馬にだって「体力」というものがある。疲れれば走れないし、休みたくもなる。そして草を食べさせ腹を満たし、十分消化させてなければ体力は回復しない。
そして騎乗している人間も、当然体力というものがある。人間も疲れたら休みたいし、パンを食べて腹を満たさねばならない。
通常ならば、補給部隊が物資を輸送するか、手持ちを最小限に留めて強行軍を行うなどの方法がある。
だが、サラの作戦のように騎兵隊が独立して長距離移動し、補給が届かない敵地を通る場合、馬や人が口にする食糧を運ばなければならない。そして、そのような物資を満載した馬が、速く移動できるわけがない。
この時の騎兵隊の戦略速度は歩兵並か、せいぜい歩兵より少し速い程度でしかなくなるのだ。
敵の補給拠点を襲うためのこの作戦案が、補給に悩まされる。サラが作戦書に補給計画を書かなかったのは、そして作戦案を提出する際にラデック補給参謀補を連れてきたのは、これが原因なのかもしれない。
「問題はもう1つ。肝心の、敵の後方拠点の位置が分かりません」
「……そうね」
アテニ方面における帝国軍の拠点で、現状分かっているのは2ヶ所だけだ。
ひとつは、失陥したタルタク砦。だがこちらは橋頭堡や前線基地としての意味合いが強く、補給拠点としては不適格である。襲うにしても、帝国軍の警戒は厳重であるため奇襲は難しい。
もうひとつは、帝国軍の予備兵力5個師団が駐屯していたリダである。だがリダは戦場から遠く離れすぎており、補給拠点とはなり難かった。無論リダを奇襲しても効果は多少あるだろうが、それでも移動距離が長すぎるため、途中で発見される危険性が高い。
エミリアはそれを丁寧に作戦立案者であるサラに説明した。説明を重ねるごとにサラの表情はどんどん暗くなっていったが、エミリアは容赦はしなかった。
なぜなら、もしこの作戦を承認したらサラが「自分がこの作戦を実行する」と言うに決まっているとわかっていたからである。エミリアにとって数少ない親友を失いたくないという、身勝手な理由があった。
「この作戦には見るべき点はあります。ですが、それ以上に問題も多いです」
「……そう、ね」
サラは完全に憔悴しきっていた。エミリアが、彼女のこんな表情を見るのは士官学校で第2学年に進級するとき以来だった。
エミリアは、作戦不承認と、そしてサラに対する慰めの言葉を頭に用意したが、その言葉はエミリアの隣に立つ者の発言で消えた。
「エミリア殿下。いえ、エミリア少佐。この作戦、行けるかもしれません」




