レギエル北街道の遭遇戦
5月17日。
アテニ湖水地方の南部にある放棄されたレギエルという小さな町、その初級学校校舎内に王国軍の前線司令部が設けられた。
そこでは各軍団の長や一部幕僚、師団長が集まり、現状確認と今後の方針について話し合っている。
「シレジア王国には大小様々な湖が約3000ほど存在しますが、そのうちの3分の1がこのアテニ湖水地方に集中しています。それに加え、湿地や森林も多く、歩兵や騎兵の移動を極度に制限しています」
総合作戦本部から派遣された高等参事官、エミリア少佐の司会によって会議は進められている。
「そして我が軍は、このアテニ湖水地方の南外縁のギニエ、レギエル、そして北部のセドランキに軍を配置させ、その各軍団の総兵力は18個師団、約17万3500余名に上ります」
エミリアがそう述べた後、仮設司令部はにわかにどよめいた。平時における全戦力を上回る規模の人員がこの地方に展開しているとあれば仕方のない事である。
「ですが、各軍団の状況は良くありません。特に長距離の行軍を強いられたキシール元帥率いる軍団――便宜上、キシール軍団と呼びますが――は兵の疲労も大きく、また士気も落ちています。また、セドランキに展開するクハルスキ軍団も、度重なる戦闘による精神的消耗が大きいです」
王国軍はその数こそ18個師団と、国の経済規模からすれば十分な量を保持している。だが実情は満身創痍と言っても良く、多くの徴兵された農民兵の心中は厭戦気分と望郷の念で占められていた。
一番マシなのが、戦闘の回数が少なく、また行軍距離もキシール軍団よりは短かったラクス軍団である。
「そして、肝心の帝国軍の配置状況なのですが……」
「それは私からお答えしましょう」
エミリアの発言を引き継いだのは、ラクス大将の幕僚ホイナツキ大佐である。
「この1ヶ月間、我が軍団の偵察部隊が得た情報によりますと、帝国軍は占領したタルタク砦を拠点に20個師団を集結させつつあります。また、我が軍団は捕虜を得ることに成功しました。その度重なる苦労の中、ようやく捕虜からの情報を聞き出せましたが、それによれば帝国軍は予備兵力を投入し、おそらく今頃には、帝国軍は25個師団に膨れ上がっていると思われます」
ホイナツキ大佐は、殊更に「我が軍団」を強調していた。それはあからさまな武勲の主張であったが、この発言を聞いていた多くの高級将校がホイナツキを白い目で見た事は言うまでもない。
とはいえ、彼の厚顔無恥さをさておくにしてもこの情報は重要であることは確かだ。
「ホイナツキ大佐の情報を下に、帝国軍に対する具体的な攻撃作戦の立案に移りたいと思うのだが……」
キシール元帥はそう言って、この場にいる者たちからの意見を聞こうとしたのだが、それは会議室に突然やってきた若手女性士官の訪問によって遮られた。エミリアの侍従武官にして、シュミット師団第21剣兵小隊長マヤ・クラクフスカである。
彼女は「ご無礼を」と言って短く敬礼すると、会議室内にいた全ての者にあることを伝える。
「報告します。シュミット師団所属の第12歩兵中隊がレギエル北の街道にて帝国軍200ないし300の歩兵隊を発見。現在交戦中の模様です」
「……またか」
この1ヶ月間、このような小規模戦闘が断続的に続いている。その行動は威力偵察と嫌がらせを狙った戦いであると王国軍の高級将校たちは理解したが、マヤの報告はまだ続きがあった。
「しかし、妙なところがあるようです」
「妙、とは?」
「はい。詳細は不明ですが、敵に交戦の意思を感じられない、とのことです」
「……確かに妙だな」
威力偵察であるとすれば、敵を挑発するように行動し、敵の動向や規模を推し量ろうとするものである。可能であればそのまま敵陣深く侵攻し、敵の後方拠点を荒らし回るものである。しかし消極的な行動をすれば、かえって敵の攻勢を誘って全滅する恐れがある。
何かの罠なのか、とこの時高級将校の誰もが思った。キシール元帥もその例外ではなく、判断に迷い、近くにいた者に意見を求めることにした。キシール元帥から1番近かったのは、高等参事官エミリア少佐だった。
「エミリア少佐。貴官はどう思う?」
「……やはり我々を誘う罠だと思われます。敵の消極的行動は、我々を敵陣深くまで誘い込んで包囲撃滅することが目的かと」
エミリアの助言を聞いて、最初に発言をしたのは総参謀長ウィロボルスキ大将である。彼は気色の悪い笑顔を浮かべながら、なおかつ少し不満気な顔でエミリアに言い放つ。
「つまり、ザレシエにおける貴官の作戦を、敵味方入れ替えた形になるということか」
「……はい」
エミリアは、総参謀長の皮肉めいた褒め言葉に対して嫌な顔せず、また特に感想らしい感想を持たなかった。むしろ嫌な顔をしていたのは、報告しにやってきたエミリアの副官だった。
大公派高級士官と王女自身の微妙な人間関係はさておくとして、王国軍はこの妙な動きをする帝国軍をなんとかせねばならない。
「敵が罠を張っている、いないに関わらず、セドランキへの街道が敵に遮断される事態は好ましくない。至急増援を送りこれを迎撃する。ヨギヘス中将」
「ハッ」
「至急、この帝国軍を迎撃せよ。わかっているとは思うが、深追いは無用である。それ以外は、貴官の善処に任せよう」
「了解しました。すぐに向かいます」
こうして、5月17日の作戦会議は帝国軍襲来の報によってなし崩し的に終了した。
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ヨギヘス中将旗下の第9歩兵連隊が、報告のあった戦場へと到着したのは同日15時40分のことである。
第9歩兵連隊の連隊長ロランダス・マズロニス中佐は戦場に到着するなり、戦闘中の第12歩兵中隊長のヴァルダス・パクサス大尉の下へ駆けつけ詳細な情報を聞きだそうとした。
「それで、被害は?」
「……ありません」
「なに?」
「い、いえ。正確に言えば負傷17名ですが、いずれも軽傷で治癒魔術師の治療を受ければ問題ないかと思われます」
マズロニスは、パクサスの報告を聞いて言葉を失った。
敵の戦意が低いことは予め聞いていたが、中隊規模の歩兵が数時間戦って被害僅少というのは異常と言うより意味不明である。
しばし黙ったままのマズロニスを不審に思ったのか、パクサスが声をかける。
「どうしますか? 攻勢に出ますか?」
「……あぁ。いや、ダメだ。ヨギヘス中将閣下より罠の存在に留意せよと言われている。ここは様子を見るか」
「では、このまま中級魔術による遠距離戦闘を?」
「うむ。……しかし、あまりダラダラと戦っていては将兵の疲労も大きくなるのも確かだ。ここは一気に攻めてみるのもアリだな」
マズロニス相反する考えをほぼ同時に言い放った。これを聞いたパクサスが混乱しても誰も文句は言わないだろう。
実際、パクサスは判断に困っていた。マズロニスの第9歩兵連隊が戦場に到着した時点で、パクサスの第12歩兵中隊はその指揮下に置かれる。マズロニスが判断に迷えば、第12歩兵小隊も上手く動けず、結局この不毛な戦いを続ける羽目になる可能性もあった。
幸い、マズロニスは数分の思考の後にパクサスに命令した。
「一度、敵に対して積極的攻勢をかける。だが短時間で攻勢を中止し、その後退く」
「……それに何の意味が?」
「敵が罠を張ろうとしているのか、それとも単に戦意がないのかを見極める。もし罠であれば、我々が後退すると同時に再攻勢に出て、我が部隊を有利な地点に引き摺り込もうとするだろう」
「なるほど。罠でなければそのまま逃げるはずだ、と?」
「その通りだ。すぐに準備をしてくれ」
「了解しました!」
このマズロニスの命令から10分後、旗下全部隊は攻勢のための陣形の再編を終了した。マズロニスの連隊には上級魔術師が居なかったため、残念ながら魔術攻勢には出れなかった。だが敵はたかだか300、後れを取るはずもない。
彼はそう判断すると、号令をかけた。
「よし、全隊同時に前進せよ!」
創造性のかけらもないマズロニスの命令を受け、旗下の部隊も前進を始める。王国軍歩兵連隊は当初、部隊を横に広げるなどをせず、ただ単純に前進した。帝国軍が罠を張っているかを見極めるかどうかの攻勢だっただけに、なまじ半包囲をしようと両翼を伸ばしてしまえば、罠云々の前に帝国軍は全力で逃げてしまうだろう。
それでは意味がない上に、第一面白くもない。というのがマズロニスの言い分だった。
「帝国軍、後退します」
「よし、当初予定通りこちらも一旦停止。敵の様子を見る」
「ハッ」
マズロニスの命令を受けた連隊は、同時に停止する。一糸乱れぬその部隊運動は、王国軍の指揮と練度の高さを証明する物である。
「中佐、敵が再度攻勢に出ます」
「やはりな! 生かして帰すな、総員突撃せよ!」
自分の読みが当たった、という甘美な興奮に包まれたマズロニスは、その興奮をそのまま声に乗せて全隊に突撃を命令した。
熱狂的な突進を始める1個連隊を、攻勢の中途にあった1個中隊が防げるはずもなく、帝国軍は急速に後退した。
「逃がすな! 囲んで叩け!」
マズロニスは更に前進を命令した。この時彼の脳裏には、ヨギヘス中将から聞かせられた「罠の存在」は完全に記憶の奥底へと封印されていた。
だがあるいはもしかすると、彼は罠の存在を承知で突撃したのかもしれない。それは帝国軍が稚拙な罠でこちらを貶めようとしているのだと。でもそれは王国軍には無意味なのだと教えるために、わざと突撃を命令したのかもしれない。
だがどちらにせよ、マズロニスは完全に敵の術中にはまっていた。
16時15分。
敵陣深くにまで引き摺り込まれた王国軍の歩兵連隊は縦に非常に長い陣形となっていた。
これは無遠慮な突撃を繰り返す余り、一部の将兵がその速度についていけず脱落したためでもある。だがなにより、敗走している帝国軍が湿地と森と湖の間を縫うように逃げているため自然と道幅が狭くなっているのである。
だが、その終わりのない鬼ごっこはついに、もしくはやっと終幕を迎えることになった。
「中佐、左です!」
「……!」
マズロニスが視線を左に移すと、その先には中級魔術「火砲弾」の群れがあった。
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「……上手くいきましたね」
「そうだな。拍子抜けするほどだが……運が良かっただけだと思っておこう」
潰走する王国軍の歩兵連隊を遠巻きに見つつ、2人は悠長に歓談していた。
「叛乱軍がザレシエで行った策を真似てみたのだが……どうやら、これは思ったよりも使い勝手がいいのかもしれない。もっと多くの部隊で包囲していれば、あの連中は全滅していただろうな」
「それでは追撃をかけますか?」
「いや、無用だ。少なくとも我々は敵の3割は倒したはず、残敵掃討も必要ない」
「承知しました、殿下」
殿下と呼ばれた彼、セルゲイ・ロマノフ少将は微かに笑って、傍らに立つ男に言葉を返した。
「戦場で殿下って呼ぶなよ、親衛隊長殿」




