春の到来
政府や一部の高級官僚の思惑はともかく、前線に立つ将兵の心境と言うものは主に2つに分類される。
ひとつは戦って得る物を重視する心。「勝てば領地が貰える」「勝てば出世ができる」「武勲を立てれば貴族になれる」などなど。そういう考えを持って自己の戦闘意欲を向上させる、もしくは率いる兵の士気を高める。
体裁はどうあれ侵略軍である東大陸帝国軍将兵においては、この心が重視された。討伐軍総司令官ロコソフスキ元帥は全軍に、最前線に立つ農奴1人1人に対して信賞必罰の考えを表明した。
「シレジア王国などと僭称する叛乱軍を我が帝国の正当なる力で以って粉砕し、一切の降伏を認めず死滅させ、以って皇帝陛下の栄誉を知らしめるのだ! シレジア国王を自称する賊を捕えた者には、例え平民であっても恩賞は思いのままぞ!」
この演説によって兵の士気は高まったが、一部の高級士官の不安は増大していた。その一人に、討伐軍中北部軍団第50師団長シュレメーテフ中将がいた。
シュレメーテフ中将は平民出身の将軍であり、そして先のラスキノ独立戦争において帝国軍討伐部隊を指揮し、そして敗北した将軍でもある。彼はその敗戦の責任を問われ1年間の減俸処分が言い渡された。今回のシレジア討伐はその敗戦に対して名誉挽回の機会が与えられた形となる。
彼は出征前のロコソフスキ元帥の演説を聞いた後、不安を隠しきれなかった。
信賞必罰は軍隊と言う組織にあっては重要な考えである。失敗し負ければ相応の罰を、成功し武勲を立てれば相応の褒美を与える。これを公正に行えば、兵も成功しようと努力する。
だがそれを過度に喧伝すれば逆効果となる可能性がある。即ち、将兵が自己の武勲を気にするあまり他の将兵や部隊との連携を忘れ、それどころか友軍である味方を蹴落としてまで武勲を立てようとする。連携の取れない軍隊とはそれ即ち烏合の衆と言うことであり、いかに帝国軍が数の上で勝っていたとしても不利は免れない。
だがその不安を、シュレメーテフ中将は彼の部下や同僚に口にすることはなかった。彼が平民で、そして敗軍の将であるという汚名を着せられた存在であるため強く物を言えないという事情があったからである。
ふたつ目は、負けて失う物を重視する心である。「負ければ家族が殺される」「負ければ故郷が焼かれる」「負ければ更迭される」などなど。そう言った心で以って「絶対に負けてはいけない」という意志を持ち、士気を上げるのだ。
この心は、防衛側のシレジア王国軍において主流な考えだった。
そして指揮官たちは、殊更そう言った点を強調することはない。「負ければ」という言葉があまりにも陰鬱でかえって士気を削ぐ可能性がある。だが指揮官たちが何も言わなくても、徴兵された農民たちはわかっていた。「負ければ大切な家族や家がなくなる」ことなど、歴史の教科書を紐解けばわかることだった。
「……私たちは、彼らを1人でも多く故郷に帰すのが義務です。そのために全力を尽くしましょう」
シレジア王国軍少佐にして第一王女であるエミリア・シレジアは、士官学校時代の友人や侍従副官にそう言ったとされる。友人たちは強く頷き、そして自らが指揮する部下の下に駆け寄った。
どんなに泥にまみれても、どんなに恰好がつかなくても、必ず生きて帰る。
それが、シレジア王国軍の基本理念だった。
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大陸暦637年4月1日。
シレジア東部国境地帯を覆っていた雪と凍土は完全に融解し、そして地面も乾き始めた日。そしてそれは、軍隊の行軍に適した土でもある。
その土を、東大陸帝国シレジア討伐軍40個師団、約40万人の軍勢が踏み固めた。
対するシレジア王国迎撃軍は20個師団、約20万人。彼らも、自らの故郷の土の具合を足で感じていた。
9時40分。
それが、シレジア王国の帰趨を決する戦いが幕を開けた時刻である。




