3月31日
3月31日。
おそらく明日戦端が開かれる。そう思うと仕事に手がつかない。
フィーネさんからの話によると、東部国境にはエミリア殿下始め、サラもラデックもマヤさんもいるらしい。みんなこんな俺よりよっぽど優秀な人間だ。エミリア殿下の作戦案を見た限り負けはしないだろうが、理論と実戦が異なるのも確か。せめて皆無事に生き残ってほしいが……。
「手が止まっているぞ。ワレサ大尉」
「あ、すみません少佐……」
今日何度目かの注意を受け、目の前の書類を処理することに専念しようとする。が、その意気込みも5分と持たずまた手が止まってしまう。そしてダムロッシュ少佐に注意され……以下無限ループ。
そんな俺を不憫に思ったのか、それとも邪魔に思ったのか、ダムロッシュ少佐は提案した。
「……今日はもう休め」
「はい?」
現在時刻はまだ昼の1時。まだ仕事は半分、どころか三分の一も終わってない。ここで休んだら仕事が溜まるってレベルの話じゃない気がするのだが。
「後は私がやる。だから休んで良い」
「しかし……」
「貴様が情報収集と称して外出していた際、事務の一切を仕切っていたのは私だぞ。今更ワレサ大尉がいなくなったところでなんともない。それに今日は役立たずみたいだしな」
何も言えねぇ。俺は知らない内に少佐に迷惑をかけていたようだ。大公派の士官であるダムロッシュ少佐に仕事を押し付ける農民出身で王女と面識がある新任の次席補佐官(15歳)。
うん、教えてくれ。なんで俺はまだ生きてるんだ。
「……すみません」
「構わん。さっさと行け」
ダムロッシュ少佐は俺と目を合わせることなくそう言って「出て行け」のジェスチャーをする。本当に
ごめんなさい。
気分転換に外出し、散歩をする。と言ってもエスターブルクで俺が行くところと言うのは限られている。東大陸帝国弁務官府前の喫茶店「百合座」くらいなものだ。
いつの間にか常連になったためか、店の人にも顔を覚えられてしまったようだ。いつもの席空いてますよと言った感じの接客をされ、何も頼んでないのにコーヒーと菓子が出てくる。そして20分程、窓の外の弁務官府を観察していると、最近よく聞く声の持ち主に話しかけられるのだ。
「祖国が危急の際に立っていると言うのに、随分のんびりしているのですね?」
俺は窓に反射して映る彼女の目を見て応答する。
「やることはやりました。後は神に祈るだけです」
「私には祈ってるようには見えませんが?」
そう言いつつ彼女はいつも通り俺の許可を求めずに真向かいに座り、そしてさも当然のように注文する。今日も俺の支払いになるのだろうか。
「自分の信仰する神は願いを叶える類のものではないので」
「おや。ではどんな神なのです?」
「戦場の女神、と言ったところでしょうか。この神に対しては祈りではなく具体的な提案をする方が効率が良いんですよ」
「なるほど。確かにその神相手では祈っても徒労に終わるだけでしょうね」
彼女も彼女で俺の顔を見ようとしない。これもいつも通りだ。
「……今日は一段と様子がおかしいですね。気持ちはわかりますが」
「あら、わかってしまいますか」
「えぇ。あなたは無表情が得意ではないので、すぐにわかるのですよ」
おかしいな。少佐に通せんぼされて以来結構頑張って練習してるんだが。
「今はただ待つしかないでしょう。我々の腕はシレジアに届くほど長くはないのですから」
「待つのは苦手なんですよ」
デートで彼女に「ごっめーん! 待ったぁ?」なんてチャラい感じで言われたらその瞬間別れるくらい待つのは苦手だ。待つのが嫌だから約束には遅刻するのが常套手段だ。
「大尉は先月まで献身的な働きを見せ、そして祖国を救う一助とする情報や関係を手に入れた。十分働いたではありませんか」
「……珍しいですね。貴女が人を褒めるなんて。明日は雪ですか?」
「私だって褒めるときは褒めます。褒める機会がなかっただけです。あと4月に雪が降ることもありますよ」
「それは驚きですね」
今更褒められても実感湧かないし、雪が降っても喜べるような歳でもない。雪が降ったら通勤が大変だとか、雪かきが面倒だとかしか思わないしな。あ、でも冬服の女性は魅力的だと思う。
「いつまで弁務官府を覗いているんですか?」
「飽きるまで、ですかね」
「そろそろ飽きたらどうですか?」
「その帝国語は少しおかしいのでは……」
ま、でもそろそろ飽きてきたのも確かだ。弁務官府は誰も出入りしなかったし、道行く人もオッサンばっかだった。
そして今日初めてフィーネさんを窓ガラス越しではなく直接見た。いつもと同じように中間所得層の服だが、少し違う点がある。
「……服の色が少し明るくなりましたね」
冬から春に季節が移り変わったせいなのだろうか。意外とオシャレに気を遣うのかな。
「その言葉、十分前に聞ければ嬉しかったのですが少し遅かったですね」
「それは残念です」
最初から彼女の事を見てれば好感度うなぎ上りだったのに、惜しいことしたかな。
「……国際情勢とやらも、上着みたいにすぐに変えられる物だといいんですが」
「残念なことに小さな服を着ただけでは『減量に成功したんだ』とは言えませんよ」
「でも、必死に努力して食事を減らして運動を増やしても失敗して元の体重に戻ることもある。そうなると、何の為に俺は頑張っていたのかと考えてしまうのですよ」
「堂々巡りですね。何度も言いますが『人事を尽くして天命を待つ』ですよ」
「……本当に尽くせたか、不安ですがね」
俺がやったことと言えば、単にオストマルク帝国外務省と交渉しただけだろう。情報収集はフィーネさんやリゼルさんに任せっきりだったし、その情報を送ることだってフィーネさんらがやっていたのだ。人事を尽くしたのは、むしろフィーネさんの方だ。
「貴方は外交官、しかも大使館附武官でもなく特命全権大使でもない。ただの駐在武官です。その貴方がここまでやったのは、むしろ偉業とも言えることですが?」
「持ち上げても何もでませんよ?」
「それは残念です。褒めた甲斐がありませんね」
彼女はそう言うと優雅に紅茶を飲む。こういう事はザラなので、例え本心で褒められても何か裏の意味があるに違いない、そう思ってしまうのが悲しいところだ。今のは確実に本心じゃないだろうけど。
「まぁ、私にしては上出来だったとは思います。でも外交官として見たら落第点でしょう」
「そうですか?」
「えぇ。結局、戦争を止めることはできなかったのですから」
昔の偉い人は言った。「戦争は外交の延長線上にあるものだ」と。それは外交によって戦争回避を模索して、それでも無理なら仕方なく戦争という意味だ。でも今回、東大陸帝国相手に外交なんてものはしなかった。オストマルク相手にしたって、戦争回避のための交渉はしなかった。努力もないまま戦争に突入して、それで天命を待つなんて烏滸がましいことだと思う。
「それは無理でしょう。今回の戦争は皇帝イヴァンⅦ世の独断、それに貴方に権限は……」
「確かにそうですが、もっとやりようがあったと思うんですよ」
東大陸帝国相手は、確かにどうにもならなかったかもしれない。でもオストマルク相手ならどうだろう。例えばシレジア=オストマルク同盟を結ぶことは、強大な抑止力になったはずだ。実際に結ばなくても、皇帝派にそれとなく情報を流せば皇帝が思い留まってくれた可能性もある。
外務大臣クーデンホーフ侯爵相手にも、もうちょっと有利な条件が引き摺り出せたのではないかとも思う。公式の同盟ではなく、ラスキノみたいに義勇軍の派遣を要請できたのではないだろうか。それができないにしても、物資や武器の供与の条件も付けられなかっただろうか。そうすればもっと勝算があったかもしれない。
それにこの戦争に勝てた場合、第60代皇帝になるのは間違いなく皇太大甥セルゲイ・ロマノフだ。彼が帝位に着いた場合、シレジアにどういう影響を与えるのだろうか。むしろ皇帝派に味方して東大陸帝国内に内戦構造を生み出した方が良かったのではないか。
そんな風に、結論もなくただ延々と悩み続ける俺に対して、フィーネさんはただ短く小さな声で言った。
「……少なくとも貴方は、大陸の歴史を動かしましたよ。それを誇りに思ってください」
誇りに思うか、恥に思うか、まだ判断するときではないだろう。
俺は暫く何も言えず、冷めきったコーヒーを口に入れることしかできなかった。
……苦い。




