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紫頭の男の子  作者: けら をばな
第三部・報われたい
6/9

第五話・幸運の女神は実に気まぐれ

「……なんだ、寝ているのか。随分と布団の中が好きらしいな」

 襖がガラッと音を立てて、続けざまにグミの低い声が聞こえた。

 ぼくはあれからずっと布団の中にこもっていた。何度か心配げなフヨウに声をかけられたが、満足な返事をすることが出来なかった。ぼくは布団をかぶったままで、

「……何か用?」

「コノハが意識を取り戻したことを、聞いているのだろう。会いに行けばいいではないか。あいつも、お前が引き籠っていると聞いて、大分気にかけていたぞ。安心させてやってくれ。……それと、できれば顔を見せろ。話し難くって仕方がない」

「……また説教でも始めるつもり? もういい加減にうんざりだよ」

 ぼくは仕方なく顔を出した。泣き腫らした顔をあまり他人に見せたくなかったけど。グミは苦笑して、

「ふん、そんな風に思われていたとは心外だな。まあ確かに、小うるさいとは言われるがな」

「で、なに?」

「礼を言いに来た」突然グミはお座りのポーズから目を瞑り器用に頭だけを下げ、「よくぞ致命傷のコノハを助けてくれた。お館と同じ意思を持つわたしとしては、確かに『秘宝』の無駄な使用があればそれを看過できないが、今回はその限りではない。お前の行動を全面的に支持する。もし今後このことでなにか責め立てられることがあれば、わたしはお館にさえも楯突こうと思う。……改めて言う、ありがとう」

 そう言って、柔和な笑みを作った。ぼくは布団をかぶって顔だけ出したまま、固まってしまっている。……驚いた。あまりに意外だった。

「……明日にでも会いに行ってやれ。笑顔を見せてやれ。それだけであいつは安心するんだ」

 そう言い残して、背を向けてさっさと帰ってしまった。動くことも返事をすることもかなわず、ひたすら目を丸くして後姿を見送っていた。


 ぼくとコノハ、ベンチの両端にそれぞれ陣取ったまま、ひたすら押し黙っている。

 ……ん、なぁにこの既視感!? 駄目だ駄目だ駄目だ! ニギ! お前が呼んだんだろ! 何だって、こんなに緊張しているんだ!

 ちらり、とコノハを見る。

 あの時と違うのは、首にしっかりと巻かれたマフラー。

 目と目が合う。

 にこっとコノハが微笑みかけられる。あの時と、まったく違う反応。――不意打ちだ。

 心臓が小躍りし、顔に全身の血液が流れ込む。呼吸を忘れる。すぐに顔を逸らす。手持無沙汰にズボンの腿の部分をぎゅっと握る。どうしてこんなにもうろたえているんだ? この間のパーティーじゃ比較的普通に話すことができたのに。久しぶりに会ったから?

 ええい、ままよ! 成り行きに身を任せろ! 糸口はきっと見つかる!

「……コノハ。よかった、治って」――片言!? どうして!!

「……ワインの中に、麻薬みたいなのが入っていたみたいです。いつもより酔いが早い気がしていたのですけどね。攻撃的になって、注意力が散漫になった結果があれでした。いけませんね。ただの立食パーティーだと思って油断していました」

「ううん! それはぼくだって同じだよ。単にお酒が飲めなかったからよかっただけで、何も無いって高を括ってた。絶対に、コノハだけのせいじゃないから」

 あ、大きい声を出したらいつもの調子になってきた。単純だなオイ! まあいい、この調子でいこう。

「……わたしを助けるために、『秘宝』を使ったとか。……ねえ、お館から何か言われませんでした? カヤノさんに聞いても不問になったとしか教えてくれなくって」

 例の件は、コノハには伝えないよう言ってある。というかカヤノも、

「あんたが土下座して謝ったなんて教えたら、コノハのことだから、お館さまを斬り殺しに行きかねないわね。……考えるだけでぞっとする。超厄介だから、黙っておいた方がいいわ」

 ということだから丁度いい。

 ぼくはあくまで(しら)を切るに徹する。

「あっちにも責任があった、コノハが必要とされている、その二点だけでも、十分過ぎるほどの言いわけになるじゃないか。訝しがることはない」

「そうですけど。……あの、ニギ、あなた、ここの所どうしちゃっていたんですか? ずっと部屋の中に籠っていたと聞きましたけど……」

 言葉に詰まる。引き金が引けなくなった。殺し合いそのものに恐怖を抱いている。もしかしたら、『紫鬼』として戦えないかもしれない。

 ――そうしたら、ここにはもういられないかもしれない。

 ――もしかしたら、コノハにも愛想を尽かされるかもしれない。

 言えるわけがない。

「……ううん。別に何でもない。大したことじゃないから。心配する必要なんてない」

「そうですか。……やっぱり、『戦えなくなった』ってこと、教えてくれませんか」

「うん。……ん? え……ええ!? コノハ!? 何で知って……」

「フヨウに聞きましたよ。あ、他の人には言っていませんので、大丈夫ですよ」

「いや、そうじゃなくって!!」

 頭の中に浮かぶ、眠そうな表情のフヨウの、憎たらしいピースサイン。フヨウのやつ、秘密にしておいてって言ったのに! 裏切った!!

「――なんてことをきっと思っているのでしょうが、あの子もきっと考えてやったことでしょう。あんまり恨まないで下さいね」

「心読まれた(エスパーですか)!?」

「ニギもニギですよ。そんなことで塞ぎこんで、顔も見せてくれなくって」

「そんな……ふざけるな! そんなことなんかじゃない!!」

 ぼくなりに悩んだんだ、苦しんだんだ。決してそんなことなんかじゃない。ぼくはコノハを力強く睨みつける。コノハをしっかりと見る。

 コノハは、ぼく以上の強い意思で、ぼくの瞳を見つめ返して来た。気圧されたぼくはいそいそと目を逸らす。

「……そんなこと、ですよ。戦えなくなったくらいで、めそめそしちゃって」

「……違うよ。分かってないよ、コノハは。ぼくは戦うためにここにいるんだ。それができなくなったら、もうここにいられない」

「あなたは、わたしが連れて来たんです。わたしが責任をもって、全力であなたを守ります。でも、違うでしょう? あなたはそれを恐れたんじゃないでしょう。もっと違うこと。例えば、そうですね……。『戦えないぼくなんて、みんなに見捨てられちゃうー』とか」

「……」

 ……半分は、正解だ。でも、違うんだ。みんな、じゃないんだ。

「ねえ、コノハは、どうなの? ……コノハは、ぼくのことをどう思っているの?」

 ぼくのからだは震えていた。不安に押しつぶされそうにながら、か細い声を絞り出した。

「ニギ、馬鹿にしないで下さい」コノハの口調は、存外厳しいものだ。「言ったでしょう、戦えなくなったなんて、その程度のことでしかないって。わたしはね、あなたの左腕を切り離したくらいですよ。言ってしまえば、わたしはあなたの強さにまったく期待しておりません。わたしはあなたを、戦力だなんて、そんな風に思っていないのですよ。……ねえ、本当にわたしのことを、戦えなくなったあなたを、見捨てるような、そんな薄情なやつだって、思っていたのですか? 答えて下さい。わたしの目を見て」

 そう言われても、ぼくはコノハの目を見ることができない。代わりに目から熱いものがどんどん流れだした。それを拭うのもみっともなくて、ただただ流れるがままにしていた。

「……コノハ。ぼくには、何も無いんだ。戦うこと以外、何もできないんだ。確かにコノハの足許にも及ばない戦闘技術しかないけど、それ以外に、自慢になるような技術はないし、他人の役に立てるようなこともできない。……ぼくは今まで、いっぱい本を読んだ。きっと何かの役に立つだろうって思って。知識は大事だって、おじいさんが言っていたから。……でも、結局、ぼくは役立たずのまんま。駄目なんだよ。ぼくは。……コノハを助けることができたのだって、ぼくにそれがあったからだもん」

「……あ、そうだった」

 急にコノハの口調は明るくなった。……ぼくの話ちゃんと聞いてた?

「ちゃんと言っておかなくちゃいけなことがあったんですけど、……うーん、そっち向いてちゃ、言いにくいから、こっち向いて下さい。……ねえ、ニギってば。ちょっとですから、こっち向いて!」

 みっともないくらい泣いて、きっと、酷い顔をしていると思う。

 だから見せたくないんだけど、

「ねえー! お願いですよー! いいじゃないですかー! 大丈夫ですよー! 変な顔していても笑ったりしませんからー! むすっとしていないでさー!」

 とコノハが異様にしつこい。他人がそれなりに思い詰めているってのに、変な顔とは何だ、失礼な。無視し続けてもいいけど、それではどうにもならないので、根負けしてコノハの方を向いた。

 コノハはぐっと近付いて、ぼくに笑顔を見せた。

 とくん。――心臓が潰れそうなくらいに苦しくなる。近付き過ぎたせいで、命の危険を感じたのだろうか? いや、コノハがぐっと近付いた、というのはぼくの錯覚で、実際は危険圏内にまったく入っていなかった。

 じゃあ、この苦しみは、一体何なんだ。

「ちゃんと、お礼を言っていませんでしたね。ねえ、ニギ。ありがとうございました。あなたが、わたしを助けてくれたんです。あなたじゃなきゃ、わたしを助けられなかったんです。あなたがいなくちゃ、今のわたしはないんです。どうか、自信を持って下さい」

 心臓を射抜かれたような感覚。苦しい。でも、不快感はない。

 温かい。心が融けてしまいそうなほど。

 ――どうしよう。まったく動けない。早くどうにかしなきゃ、と思う反面、ずっとこの時間が続けばいいのに、と思っている。

 じっとコノハを見つめている。コノハも、ぼくをじっと見つめている。

 どちらも、なにも考えていないかのように。

 なにもかもを捨て去ったかのように、なにもかもが満ち足りたように。

 ――でも、足りない。

 ぼくとコノハの距離は、一メートルほど。触れられないぼくらの、精一杯の距離。

 ……越えたい。

 この距離を、縮めてしまいたい。

 二人の暗黙の約束を、破り捨ててしまいたい。

 とくん。――心臓がぼくの邪な心を揺すり、正気を取り戻させる。

 駄目だ、駄目だ。それは、裏切りだ。きっと困ると思う。絶対に悲しい顔をすると思う。

 コノハだけは、地球上でコノハだけは、悲しませたりしたくない。

 コノハを襲う厄災の全てを、取り除いてしまいたい。

 コノハはぼくの様子をどういう風に解釈したのか、困ったように笑い、首を傾げさせ、

「……なんか、説教臭くなっちゃいましたね。ごめんなさい。本当はちゃんとあなたにお礼だけ言おうと思ったのですけど。……でも、折角ですから言いたいことだけは言わせてもらいます。あなたが、わたしを助けようとしてくれた、それだけで、嬉しかったんです。ものすごく、嬉しかったんです。……クッキーを焼いて持ってきてくれたことだって、そうですよ。無断で言いふらしちゃって、ちょっと悪いことしちゃったかなって思っています。そのくらい、舞い上がっていたので。……分かるでしょう? わたしはあなたを必要としています。でもそれは、戦力としてじゃありません。ただ、ここにいて欲しいんです。それだけでいいんです。これを綺麗ごとだってほざくやつは、わたしが全て斬り伏せて見せます」

「コノハ……」

「……ねえ、ニギ。わたしだってね、戦うこと以外、何の取り柄もありません。もし、……もしわたしが戦えなくなったとして、あなたはわたしを見捨てたりしますか?」

「――ッ!? そんなこと、絶対にしない!!」

 ぼくはびくんと立ち上がった。今まで力が入らなかったのが嘘のように。

 コノハは嬉しそうに微笑んで、少しだけ頬を染めて、

「ありがとうございます。わたしもまた、あなたに対して、きっと同じ感情を抱いています。もっと、わたしを信じて下さい。大丈夫ですから。……すっかり長く話しこんじゃいましたね。陽も傾いてきました。今日は、これくらいにしておきましょう。……それじゃあ、また明日会いましょう」

 立ち上がって振り返り、歩きだした。

 ……コノハも、ぼくに対して、ぼくと同じ感情を抱いている?

 ぼくはコノハに対して、どんな感情を抱いている?

 分からない。

 知りたい。

 分からないコノハのことを、もっと、もっともっと、よく知りたい。

 ――また明日。

 ――また明日、会える。

 ――でも、今はまだ、……もう少しだけ、いたい。もう少しだけ、話していたい。

 待って、コノハ。呼び止めようとしても、声が出ない。息が苦しい。まるで、声の出し方を忘れてしまったかのよう。

「――ぐえ!?」

 ぼくはコノハのマフラーを引っ張る。それによって首が締まり、コノハは苦しそうな呻き声を出し、振り返り、黒曜石のような瞳を涙で濡らし、恨めしそうな顔をぼくへ向ける。

「ニギィ……あなたねぇ……」

「ご、ごめん! でも、……もう少し、ここにいて、欲しいんだ」

「……ニギ?」

「……ぼくは、『秘宝』に祈ったんだ。コノハのことを、もっとよく知りたいって。コノハは、どんな人といたか、どんな風に生きてきたのか、もっともっと、話をして、知りたいんだ。……駄目、かな?」

「……あかん」

「……え?」

「ふ、不意打ちはアカンですよ。その上うるうるの瞳で上目遣いとか、正気の沙汰じゃないでしょう。殺しに来ているとしか思いませんでェ……」

「……コノハ?」

「……あ、いえ、何でもありません。ちょっと鼻血が大量に出そうだったので、自分を客観視して賢者モードに強制移行しただけです」

「コノハ? ごめん、意味が分からない。大丈夫? 痛かったの?」

「わたしはイタくなんかない! きっと、……きっと正常です!」

 とわけのわからないことを言い、首のマフラーを解いた。

「え、いいの?」

「大丈夫ですよ。なーんか暑くなっちゃいましたから」

 コノハはマフラーの端を持った。ぼくとコノハでマフラーの両端を持つ。

 ――まるで、手を繋いでいるようだ。

 そんな感想を抱いていると、急に、くいっとコノハに引っ張られる。

 ――初めて感じる、コノハの感触。

 全身を駆け巡る、今まで感じたことのない幸福感。

 ぼくもくいっとマフラーを引っ張る。コノハに伝わる、ぼくの感触。酩酊したように地面が揺れる。ぼくは耐えられず、元のベンチへ腰かける。

 コノハも、顔を真っ赤にしながら、同じようにベンチに座る。ぼくと、同じような感覚にあるのだろうか。――だとすれば、嬉しい。

 二人黙る。ベンチ両端に腰かけたぼくらは、目の端でちらちらお互いの様子を探り合いながら、くいっくいっ、とマフラーを引っ張り合っている。

 周りから見たら、さぞ滑稽だろう。ふと頭に浮かんだそんな考えも、やがては忘れ去る。

 とにかく、マフラー越しにでも、コノハの感触を味わっていたい。

 どんな風にすれば、コノハは喜ぶのか知りたい。

 そんなことを考えるのに必死だった。

 くいっと引っ張られる度に、全身に快感が走る、口の端から白い息が漏れる。例えようのない幸福感に包まれる。

 くいっと引っ張ると、コノハのからだが小刻みに震える、息が荒くなる、かわいらしい声が漏れる。顔をこれ以上ないくらいに真っ赤にして、恥ずかしそうに俯く。

 ずっとこのままでいられたらどれだけ幸せだろうか。コノハも、そんな風に考えてくれているだろうか。もしそうだったら、どれだけ嬉しいだろうか。

 ――ぼくらはそうやって、陽が暮れるまで、お互いの気持ちを探り合いながら、二人押し黙ったまま、マフラーを引っ張り合っていた。


「……何だったんだろう、あれは」

 ぼくはひとり明かりのない部屋に寝転がって、天井をじっと見つめながら呟いた。心臓は、いまだどくどくと強く速い鼓動を続けている。目を閉じると、瞼の裏にコノハの恥ずかしそうに紅潮した顔が映し出される。あんなとろけた顔、見たことなかった。

 かわいかった。もっといろいろな表情を見てみたい。

 前触れもなく、すっと障子が開いた。見えたのは、褐色の顔。フヨウだ。起き上がり、目と目を合わせる。

「……怒ってる?」

「……ううん、別に」

 ぼくのそっけない言葉に、フヨウは微笑んだ。それだけで大体通じ合った。



「ねえねえ、あんた、何が欲しい?」

 いきなり聞かれて答えられるはずがない。サクラはぴょこぴょことツインテールを揺らしながら、竹ぼうき片手に勝気な瞳でぼくを覗き込んでいる。

「……もうちょっと説明を要求していい?」

「コノハに聞けって言われたのよ。ちゃんとお礼を形にしたいからって」

「コノハが、ぼくに? そんなのいいのに。……コノハへの借りが、まだ返しきれていない気がするし」

 ……そう言えばちゃんと、『ありがとう』って伝えていないな。グミがうるさいとか、そういうの抜きで言わなくちゃ。お礼だって、クッキーじゃあまりにも簡単過ぎる気もするけど……それ言うとサクラが命を奪いに来そうだな。

 ああそう言えば、あとツバキにも。……まあどうせ、いつでも言えるよね。

「うん、あんたのことだからそう言うだろうと思って、コノハからは『わたしからってことは秘密にして、それとなく聞いて来て』って言われたんだけどね」

「……他人に言えない相談を君たち姉弟(きょうだい)にしちゃいけないって、思い知ったよ」

「そんなもんする方が悪いわよ」

 サクラの褐色の顔に悪びれた様子は、清々しいほどに一切描かれていない。

「で、どうなのよ。言っておくけど、あの子に手作りを期待しちゃ駄目よ。手先の不器用さは折り紙つきだから。相当ピーキーなステータスしてるわ。でもお金はいっぱい持ってるから、そっちで適当に高価なモンねだっときゃ、ホストにハマった四十代女性みたいに『もー、しょーがないですねー』とか何とか言って、頬緩めながら嬉しそうにガマ口開けるわ。そっちで適当に手を打っておきなさい」

「ごめん、クッキー云々で他人にナイフ投げつけて来た人の台詞とは思えない」

「冗談よ。本当だけど」

「――え?」

「それより、何かないの? 本当に何でもいいのよ。お互いに満足いくようなものがあればね」

「そう言われても……」

「嫌なの? また変なプライドやらメンツやら気にしてんじゃないでしょうね?」

「違うって、もう! ……ぼくは元々無芸無趣味で、」これと言って取り柄がなくって、「衣食住が足りている今、特に欲しいものって言われても、思い浮かばないんだよ」

「うわー、引くわー。惰性で生きてんのね、あんた。情けない。暇なとき何してんのよ」

「っさいよもう! 好き勝手言い過ぎじゃないか、いくらなんでも!」

 声を荒げても、サクラはまったく堪えない。ぼくは諦めて溜息をひとつ、

「……暇な時は、ひたすら本読んでるよ。いいでしょう、他人の人生なんだから」

「なーんだ、それでいいじゃないの」

「え?」



「こんなのでいいんですか? 本当に?」

「悪かったね、こんなんしか趣味がなくって」

「いや、そうじゃなくって……あ、ニギ! そっちじゃなくって! こっちの方が人通り少ないので! お願いだから聞いて!」

 サクラとの会話の後、コノハとぼくは二人、街中をお互い一定の距離を保ちながら歩いている。

 コノハの首許にはマフラー、腰にはいつも通り小太刀と脇差。結果、一般人は避ける。ぼくはいつも通りの黒のスーツに黒のコートを羽織っている。武器はベルトに隠している。が、矢張りこの紫の頭を見て、好き好んで近寄って来るやつなんていない。

 そういうわけで、通りは何事もなく進むことができた。

「でも、本屋に入ったらそうはいかないんじゃないの? 狭いだろうし。別に身を守るのは容易いけど、相手にそれなりのことをしなきゃいけないよ」

「大丈夫です。とにかく無駄に広い所なんですけど、とにかく乱雑に本が積まれていて、とにかく人の姿がないんです。来るとすれば、本読みというよりは、買っただけで満足しちゃうような、そんな人種ばかりなのです」

「とにかく安全だってのは分かった。……でも、そーゆー人たちは、本を買っただけで満足しちゃうなんて、勿体ないって思わないのかな」

「……あなたにも分かる時が来ます。絶対に来ます」

 自信を持って言われた。まあ、いいや。……



 ――決して抗うことのできない存在が目の前に現れたら、どうすべきか。

 逃げればいい。というか逃げなきゃいけない。自分のことを一番に考えて、自分を全力で護ることに専念しなければならない。どんな状況にあろうとも。

 しかし、――逃げることは決して簡単なことではない。多大なコストを支払い、そこから逃げることができたとしても、その先で確実に安全な場所へと辿り着けるとは限らないし、逃げ出せた事柄が形を変えて襲って来る、なんてことはあまりにも頻繁にあることだ。

 逃げ続けることと立ち向かい続けること。結局、対極的に見えるその二つの選択肢は、どちらにしろ、あまりに残酷な戦いを強いる双子でしかない。

 そして今、ぼくもまた、決して抗えない存在を目の前にして、逃げる、立ち向かうの二択を強いられながらも、またそのどちらの実現も不可能であることを、十分過ぎるほど分かっている。――

「ぴぎゃあぁ――――!」「うえぇえぇ――――ん!」「ぎゃぴぃいぃ――――ッ!」

「えーっと、あのー、で、できればちゃんと話を聞いて欲しいのだけど……」

「ふえぇぇえぇぇ――――ぇん!」「ひぎゃあ――――ぁ!」「おか――――さ――――ん!」

「いやあの、ごめん、騒いでるだけじゃ分からないから、その……」

「「「びええぇえぇえぇえぇえ――――――――――――――――――――――――んっ!!」」」

 ぼくの目の前で五歳前後の女の子三人が騒ぎ喚き立てている。どうしてこうなったのか。

 本屋へのショートカットと公園を横切っている時コノハが立ち止まって、

「いつも本屋へ行く途中に寄るクレープ屋さんがここにあるんです。買って来るので、店主も女の方ですし、そこのベンチで待っていてくれませんか?」

 と待っていたらこれだ。なんてことだ。ぼくは努めて冷静に、

「ねえ、状況から判断するに、君たちはお母さんとはぐれたと、そういうことでいいのかな?」

「おかーさんがー! おかーさんがー!!」「ふぇぇえん!!」「ぴぎゃあぁぁあ――――!!」

 と突然その中のひとりが泣きながら、ぼくの方へと両手を伸ばして歩み寄ってきた。

 さすが子供、迷いがない。ってェ感心しとる場合じゃない!!

「ぎゃあッ!! 近付くなァ!!」

 ぼくは慌てふためいてそう叫ぶと、ベンチの後ろへと跳んで逃げた。すると子供らは、びっくりしたような顔をして、ぴたりと泣き止んだ。あ、これは、泣き止んだというよりは、――

「「「ふぎゃあぁあぁあぁあ――――――――――――――――――――――――あっ!!」」」

 ……先程よりも大きな声で泣きだした。ぼくでは、この子たちに手を差し伸べることも、「大丈夫安心して」と頭を撫でてあげることもできない。

 どうしよう、どうしよう。武器を携えた兵隊が何千と迫ろうが怖くないのに、泣き喚く女の子三人を前に、あたふたとなにもできずにいる。怖いとさえ思ってしまう。

 ……涙を流すコノハを前に何もできなかったことを思い出す。本当に、こんな時はどうしようもなく無力だ。

「……なにをやっとるのですか、あなたは……」

 コノハの呆れたような声を聞いて、ぼくは心の中でこれ以上ないくらいの歓声を上げた。


 で、コノハはクレープ両手に、子供たちを適当にあやしながら辺りを見回して、素早く、近くできょろきょろと誰かしら捜している髪の長い女性を見付け連れて来ると、子供たちは一目散にそこへと駆け寄った。……無事母親に引き渡し成功。先程まで泣いていたのが嘘のように、

「「「おにーさんおねーさんありがとー」」」

 と元気よく礼を言って母親に手を引かれ帰って行った。――この間、わずか五分。

 ぼくはというと、……ベンチの後ろから、一歩も動くことができなかった。情けない。

「……ニギ、もういいですよ」

「あ、うん……」

 コノハに言われてようやくベンチの前へ出る。……ばつが悪い。もっとスマートにいろいろとできなかったのか。そんな反省の中、コノハは意地の悪そうな笑みを浮かべて、

「ふっふっふー、地上最強の種族・『紫鬼』ともあろうあなたが、あーんな小さな女の子を前にして手足も出ないなんてねー」

 うわ、他人が凹んでるってのに、性格悪いッ! 普段はあんだけ『ふれぽん』って呼べって口うるさいくせに!

「しょうがないじゃないか! 力ずくでどうにかなる問題じゃないし、子供は話が通じないんだもの! 本当に子供は嫌いだ! でも今回は突然だったから慌てちゃっただけで、ちゃんと落ち着いていれば、コノハの助けがなくても、ぼくひとりでだって――」

「そーですかー? わたしを見た時のあなたの顔の輝きようといったらなかったですよー?」

「う、でも……」

 ……言い返せない。その通りだ。コノハが来てくれて安心できた。だって実際、ぼくひとりじゃどうしようもなかったもの。どうすればよかったなんて、まったく思い浮かばないもの。

 ……結局、コノハがいてくれなきゃ駄目だった。いつもそうだ。誰かがいてくれなきゃ、ぼくひとりじゃなにもできない。引き籠るだけしかできない。悔しい、情けない。

 ――涙が流れる。我慢したけど溢れ出てしまった。

「え? ……ええ!? あ、あの、その、え、え、えぇ!?」今度はコノハが慌てふためく。「あの、ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃなくって、あの、その、しょぼくれたあなたがあまりにかわいくて、ついついいじめてみたく……じゃなくって!! そうじゃないのです、ほら、こういう時ってオトナの女性が冗談交じりに元気づけてあげるのかなって思い立って、やってみたのですけれど……ごめんなさい」

「……」なにも言葉にできない。

「……わたしも、子供は苦手です。なに考えてるか分からないし、なにするか分かったもんじゃないし、でも手出しは出来ませんし。……昔は意地悪なことだってされたんですよ。だから、えっと、気にしないでっていうか、……仕方のないことですから、どうか元気出して下さい」

 コノハは子供でもあやすように、優しげな声色でぼくを慰めた。その態度は少し癪だったけど、コノハもぼくと同じだ、ということが妙に嬉しかった。

 よく見ると、コノハの顔は少し赤くなっている。やっぱり、恥ずかしい部分なのだろうか。そういう所をぼくのためを思って晒してくれた。

 ぼくは無言で頷いて、差し出されたクレープを受け取った。



「うわーなんて広さ! この建物全部が本屋さん!? すごい、すごいよコノハ! こんな所があったなんて! 信じられない! この地域は治安が良いだけじゃないんだぁ」

「とはいえ、夜に女性が出歩くのは推奨できませんし、さっきみたいに子供だけってのも考えものですけどね」

 本屋に着いて、ぼくは早速感嘆の声を上げた。

 五階建ての鉄筋コンクリート打ちっぱなしの内部には、本棚が整然と並べられているが、肝心の本は溢れだしてそこら中に乱雑に積み上げられている。そして、掃除は隅々に、まったく行き届いていない。……成程、これでは確かに、来るヤツなんて物好きに限られる。人は、いるにはいるがかなりまばらで、女の気配などはコノハを除いて見つからない。

「凄いなあ、一日じゃ回りきれない……うん、こんなことしてる場合じゃない、行こう!」

「まったく、ついさっきまでしょぼくれてたくせに、着いた途端に子供みたいにはしゃいじゃって……。って、ニギ! あなた、一応気を付けて下さいよ! はしゃぎ過ぎて女の人に気付きませんでしたとか洒落になりませんから!」

「分かってるって!」

 ぼくは喜び勇んで本の海へと跳び込んだ。


 適当に、ハードカバーと文庫本を数冊見繕って、端に設置されてある机に本を置いた。ソファーまで完備されている。どうやらご自由にお読みください、と言った感じらしい。お金を持って来なくても一日潰せるな。ちゃんと利益を出せているのかな。ここまで来ると心配になって来る。

 そして近付く、この本屋で唯一の女の気配。コノハの手にも数冊の文庫本が握られている。

「どうですか? 気に入っていただけましたか?」

「うん、十分過ぎるほどだよ。きっと一日じゃ回れない」

「それじゃ、何度か来ましょうね」

 コノハが朗らかに微笑みかける。その言葉に社交辞令じみた響きは感じられない。また一緒に来れる。その事実が無性に心を躍らせる。

 ぼくとコノハは差し向かいに座る。間には小さな本の壁が出来る。ふとコノハは首を傾げ、

「ねえ、ニギはどんな本を読むのですか?」

「意地悪なコノハには教えてあげない」

「なんとォ!?」

「子供みたいにはしゃいじゃって、だっけ? ちゃんと聞こえてたからね」

「あー、えーと……」

 ぼくがじとっとした目でねめつけると、コノハは引きつった笑みで明後日の方向を見る。その様子がおかしくて、くすりと吹き出してしまう。

「冗談だよ! ……うん、別に、変わったものは読んでいないよ。というか、あんまり偏食しないで読みたいなって思ってる。……前は、ちょっと気取って純文学系をよく読んでたけど」

「へえ、そうなんですか。わたし、純文学系の小説って、主人公がなーんか偏屈で自意識過剰で、遠ざけて来たんですけどね」

「そうなんだよね、分かる。当時はこれが面白いんだって、無理矢理納得させて読んでたけど。……でも、そうじゃないのもいっぱいあるよ。本当に、ラノベ感覚で読める小説はいっぱいあるんだ」

「そうですか。……じゃあ、ラノベとかも読むんですか」

「うん。きっかけは、……そうだ、元々ツバキからSF小説を薦められて面白くって、『これが楽しめるんだったら、これも楽しめるんじゃないかな』って渡されたのが、ラノベだったの」

「へえ、ツバキさんも本をよく読むんですか、知りませんでした」

「うん……」

 話しながら気付く、意外に大きいツバキの存在。

 ぼくはリンドウの許で、味気のない毎日をひたすら過ごして来た。護衛という名の人殺しが一種の清涼剤に働いてしまう、至極不健康な毎日だった。その後ツバキが入って、本を貸してくれたり、無理矢理ゲームに誘ったりと、確かに不健康ではあるものの少しでもマシな生活へと変えてくれた。――そこまで考えて、ある考えに至る。

 もしツバキと出会っていなかったら、あの時コノハに殺されていたのではないか。コノハじゃなくても、他の何ものかに、命を奪われていたのではないか。

 なんの根拠もない話だ。真面目に考えるのすらばかばかしい。

 でも、……それが至極当然のような、まるでぼくはツバキに命を救われたかのような、そんな気がしてしまう。

 本を貸してくれた、(鬱陶しく感じながらも)食堂などで積極的に声をかけてくれた、無断で部屋に侵入しては好き勝手していった。リンドウの許でツバキがしてくれたことは、こうやって並べてしまえば、はっきり言って大したことがない。

 それでも、ぼくの人生を根本的に変えてしまった……いや、変えてくれた。そんな風に思ってしまうのは、決して勘違いなんかじゃないと思う。もし、ツバキがいなかったら。……

 もし~だったら。

 蝶の羽ばたきが遠く嵐を起こす、風が吹いて桶屋が儲かる、こんな混沌とした世の中で、その設問がいかに馬鹿らしいか。それは分かっている。でも、ツバキとコノハ、この二人がぼくの今に与えた影響は、多大なものがあることを、思わずにはいられない。

「……ニギ……ニギ、ねえ、ニギ? どうしましたか?」

「…………あ、ううん、ごめん、なんでもない」

 心配そうに首を傾げるコノハに気付いて、取り繕った笑顔でごまかした。


 ぼくとコノハは、そうやって長い時間ああだこうだと話し合っていた。そのため本を読んだり見繕ったりする時間はほとんどなかった。そして帰る段になり、コノハに買ってもらう本を適当に選ばなければならなくなった。うーん、どうしよう。あんまり中身見てない。とりあえず、ハードカバーの高いものは除外して、と。

「――なんて思わなくっていいですからね。こう見えても、懐は同世代よりもかなり温かい方ですから」

「また読まれた(エスパーでしたね)!?」

「そりゃ分りますよ。……遠慮しなくていいんです。だって命救われたお礼ですからね。ここにあるもの、全部買っちゃいましょうよ」

「え、でも……」

「いいのいいの! レジへ持ってきますからね!!」

 コノハは満面の笑みで、机に広げられた本をすべてひったくった。

「……そうか、こうやって読めない本が増えていくわけだね」

「……ここは素直にありがとうって言ってくれません?」

 ぼくの丸くした目とコノハの批難の目をしばらく合わせ、耐えきれず、二人吹き出した。



 そんなことがあって、結局コノハは最初に選んだ本をすべて買ってくれた。コノハは自分の分に三冊持ち、ぼくは自分の分の計六冊の本を持っている。コノハに買ってもらったものだと考えると、右手に抱えるこの本の重さが心地よいとさえ思ってしまう。

 ぼくは、コノハの三歩後ろを歩いている。

「……今日は、連れて来てくれてありがとう」

 ぼくは、いつ言おうかと悩みながらも、その背中に声をかけた。あまりにも小さくって、届いたかどうかさえ怪しい。それに、本当はいろんなことをひっくるめてお礼を言いたかったけど、あまりに気恥ずかしくって、限定的に言うのが精一杯だった。

 多分、今ぼくの顔は真っ赤になっている。できれば振り向いて欲しくない。そんな願いが届いたのか、コノハは前を向いたままで、

「……わたしも、今日は楽しかったですよ。こっちがお礼を申し上げたいくらいです」

「……え?」

「……あなた、普段ぶすっとした顔しか見せてくれないんですもの。笑った顔とかも見てみたいなって、ずっと思っていたんですよ? でも今日は、ころころと表情を変えて、笑ったり、熱くなって喋ったり、見ているだけでも楽しかったですよ。こんなに簡単なら、もっと早く連れてこればよかった」

 カッと音を立てて全身の血液が頭に昇る。自分のことなのに、まったく気付かなかった。

「わたしなりに悩んだんですよ。どんな時に笑ってくれるのかな、ニギのことだから、笑ったらかわいいだろうな、とか考えながら。サクラに相談してみても、あの子ったら、冷たくあしらうだけなんですもの。でも、今日のことはサクラのファインプレーですから、あの子にも感謝しなくちゃいけませんけどね」

 と言って、立ち止まり振り向いた。コノハの顔も、ぼく同様に、真っ赤になっていた。

「今日は、付き合ってくれてありがとう」

 コノハは、赤い顔のままでにっと少し悪戯っぽく笑った。

 いつも誰にでも敬語を使うコノハの、普段とは少しだけ異なる、遠慮のない口調。

 とくん。――心臓を射止められた、そんな感じがして、ぼくは立ちすくんだ。

 コノハはすぐさま恥ずかしそうに振り返った。

 ……どうしよう。

 今日が、終わってしまう。

 なにか、声をかけないと。

 コノハを呼び止めないと。

 もっと、コノハといたい。

 今日を、もっと続けたい。

 空からちらちらと雪の姿。

 翌日には融けてなくなる。

 どうにかしなきゃ駄目だ。

「――ぐげ!?」

 なにも思いつかずコノハのマフラーを引っ張ると、前回の出来事をトレースしたようにコノハから悲鳴が漏れて、涙目の非難がましい瞳をこちらへ向けた。

「……ニギ、あなたねぇ」

 ――マフラー越しでもいい、コノハと繋がりたい。そう言いたくても、

「あの……その……」

 と言ったまま二の句が継げない。……でも、もしかしたら伝わるかもしれない。しかしコノハはそんな淡い期待を裏切って、

「ああ、成程」

 と納得したように頷いて、マフラーをぼくの首に巻いてしまった。違う! なにか言おうと口を動かしたけど、どうにも言葉が出て来ない。それをどう解釈したのか笑顔で、

「わたしは、大丈夫です。最近、少しずつ寒いのにも慣れて来たんですよ」

 だから違う! そんなんじゃなくって……。と考えあぐねていると、違和感に気付く。

「……あ、これ、もしかして、コノハのにおい?」

「……………………え?」

 マフラーに鼻を付けて、思いっ切り息を吸う。コノハのにおいが肺に溜まる。今まで嗅いだことのないコノハの強いにおいで頭がいっぱいになる。

「ええぇ――――――――――――――ッ!!? なにやっとりますかこの子は!?」

 コノハは慌てふためいて、しかし何もできずに顔を真っ赤にするだけ。

「え?」

 ……なんか変なことしたかな。ぼくは首を傾げる。

「いや、あの、だ、駄目ですよそんなことしたら! 嫌でしょう!?」

「え? ぼくは嫌じゃないけど」

「わ、わたしが嫌なんです!!」

 声を荒げるコノハを無視して、においを嗅ぎ続ける。いつの間にやら心は落ち着いた。いや、落ち着いたというよりは、――

「全然嫌じゃないよ、コノハのにおいなんだもん。嫌なはずがないよ。……でも、なんかどきどきして、ふわふわする感じがあるけど……コノハ、もしかしてアブナイ香水使ってない?」

「使っちゃいません! ああ、この子は変な所で常識が抜けているというか……」

「常識? ……ねえ、コノハには分かるの? どうして、コノハのにおいはこんなに気持ちがいいの? ずっとこうしていたいって思えるの?」

「あーうーあーえーおーあーえーうーあーえー……」

 コノハは戸惑うばかりで、答えを教えてくれない。

「どうして、どうして、……こんなに、胸が切なくなるの?」

「ニギ……」

 目頭がつんと熱くなる。視界がかすむ。それでもコノハから視線を外さない。答えが欲しいんだ。この胸の痛みの原因が知りたいんだ。――しかしコノハは目を逸らし、

「すみません……多分、ですけど、わたしはあなたの苦しみの原因を分かっています。でも、……ごめんなさい。わたしの口から申し上げるのは憚られるといいますか……わたしにも、準備がいると申しますか……というよりも、自分で気づいた方がいいと申しますか……あの、ごめんなさい……」

 コノハはしどろもどろになりながら、言いわけがましく謝った。分かっているなら教えて欲しい。でも真っ赤な困り顔のコノハを見ていると、批難する気にはならない。ぼくは首を振って、

「……コノハが謝ることじゃないよ。ぼくの方こそごめん。……ねえ、その代わりって言っちゃなんだけど、このマフラー、一日持っていていい?」

「うぇ!? ぜぁあ!? な、何故にですかい!?」

 コノハがまた大袈裟に驚く。……なんでこんな変な驚き方するんだろう。

「うん。コノハと離れている間でも、コノハのことを感じていたいんだ。……駄目?」

「アカン! かわいすぎる! この子殺しに来とる! 殺人未遂やでぇ!!」

「どうしたのコノハ!? 変だよ!?」

「ニギには言われたくないけど! けど! ……はあ、分かりました。一日だけですよ? 明日にはちゃんと返して貰いますからね」

「うん!」

「……うう、ここで断れない弱いわたし。叱れない駄目なわたし。……でも……ま……いっか」

 コノハは大きな溜息をついて歩き始めた。ぼくは大事にマフラーを握りしめながら、その後ろに続いた。


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