第三話・逃げ場所が見つからない
そんなことがあった数日の後、ぼくは黒いスーツに着替えさせられた。前に着ていたものはぼろぼろだよ、とのことで、多少サイズの小さい、フヨウのスーツを借りることとなった。
どうやらぼくは今、コノハの雇い主のご厚意に甘え、その方の屋敷に置いて貰っている状態、らしい。そしてどうやら今から、そのお館さまとやらに、会うこととなったらしい。……そしてなにより、そいつは戦力を必要としているために、上手いこと気に入って貰えば、ここで雇っていただき、衣食住を保証してくれるかもしれない、らしい。
「冗談じゃない」
大きな和室で対面するコノハから説明を受けて、当然とも言える反応を示した。ちなみに全身の傷は、左腕以外、完治とはいかないまでも動ける程度には回復している。
コノハは両手に持ったお茶をずずずっと吸い、ふうっと水蒸気を多分に含んだ息を吐く。
「そんなに邪険にしなくたっていいでしょう、あの人とフヨウのお陰で今の命があるわけですから」
死にかけのぼくに応急処置を施して運んでくれたのはフヨウ、とのこと。
「……大きなお世話だよ。助けてなんて言った覚えはないのに」
「産んでと言われて産まれてくる赤子がいないのと同様、人ってのは助けられるときには勝手に助けられるものなのです」
コノハはつんとすましている。何だろう、この説教臭さ。腹が立つな。
「ぼくら『紫鬼』は人じゃないし、人から産まれたわけじゃない、人の理が通ずるわけじゃない」
「まったく、聞き分けのない子ですね。言ったでしょう、『ふれぽん』と人間は大して変わらないって。……いいでしょう、せめて会うだけ会って下さいよ。断る理由なんてないじゃないですか。別に、どこにも宛てなんてないのでしょう」
ぐさり。そういうこと、平気で言うんだ。酷いやつだ。到底好きになれないや。
なんてやり取りがあって、ぼくはそのお館さまとやらへ謁見するために、長く大きい廊下をフヨウと、少し離れてコノハと、この間の褐色肌のメイド服、《サクラ》とともに歩き、各々カツカツと寒々しい靴音を鳴らしている。
ぼくが数日間お世話になってやっていた広い屋敷は、実は数あまたとある棟の中のひとつに過ぎず、お館さまとやらはどうやら、他よりはややこぢんまりとした(他がでか過ぎる)この洋館にいるらしい。……ぼくがいたリンドウの所より数倍も大きい。根本的に規模が違う。きっと設備も警備も段違いなんだろう。
そんなんだから、今のうちだけは大人しくコノハたちに従うことにした。今、コノハに勝てないことは身をもって思い知ったし、左手はなかなか治らないし、何より、武器を取り上げられているのが痛い。
とそうこう考えているうちに、扉の前に来た。フヨウが扉に向かって「お館さま、参りました」と言うと中から「入れ」と女の声で返ってきた。……少し緊張してきた。
「……ニギ、大丈夫だから」
隣のフヨウが、終始眠そうな顔を少し崩し、あやすような表情でぼくの手を握った。
「子供じゃない」
ぼくはその手をぴっと払った。フヨウは手を引っ込めて、にっこりと微笑んだ。……うーん。相も変わらず、考えていることがまったく分からない。
「あかん、あかんでぇ……刺激が強過ぎるわ……」
「コノハ、お願い耐えて」
後ろでは、俯いて鼻を抑え、歩きながら床に赤い染みを作っているコノハを、サクラが懸命に介抱していた。……これ利用してこの人倒せないかな。
フヨウが木の扉をキィッと軋ませながら開いた。――中から女の気配が二つ感じる。それなのにこの広い洋室に見えたのは、髪の長い車いすの女と、六十は過ぎているだろう男の姿だけ。後ろの物陰に潜んでいる。警戒。……しかし、『紫鬼』がいながら、『紫鬼』が女の気配を察せられることも知らないのだろうか。
男は、咥えた煙管を灰皿にコンと打ち付けて、
「ああ、よく来たな。お前はニギと言ったな。わたしはこの館の主、《ウイキョウ》。こちらはわたしの妻の《マツリカ》だ」
と無愛想に自分と女を紹介した。ぼくはと言うと、
「へ?」
と間抜けな反応を示したまま、固まってしまった。……いやいや、嘘でしょう? そんな馬鹿な。初対面で申しわけないが、マツリカと呼ばれた女をじろじろと観察してしまう。
マツリカは、不健康なほど色白で、長い髪は座った状態の膝がしらにまで届き、唇は薄く、言ってしまえば病的である。……が、問題はそこじゃない。若過ぎる。二十歳にも届いていないんじゃないか。この白髪の老人が妻と紹介するのは、あまりに問題だ。
「……お付き合いはいつ頃から?」というぼくの率直な疑問を、
「ニギ、気持ちは分かりますがどうか流して」と後ろのコノハが小声で制す。
ウイキョウはそれでも、表情一つ崩さず、無愛想な顔でぼくに尖った視線を突き刺したまま、
「コノハたちから事情は聞いているだろう。率直に言う、お前の力を買いたい。子供とは言え、『紫鬼』ならば文句などあろうはずがない」
先程はあまりの衝撃に気付かなかったが、ウイキョウの言葉は、もたもたと滑舌が悪くて少し聞き取りにくい。リンドウみたいだ、と思った途端に嫌悪の情が突き出した。
「あんまり子供扱いされちゃ困る。あんたたちを、右手一本、一瞬で首をひと捻り。なんてのは余裕だ」
「ほう、それは頼もしい限りだ。なんせ、我々にはより多くの戦力が必要だ」
「……どうしてそれほどまで力を欲する? 戦争を始めようとでも?」
「『秘宝』の管理・収集のためには、戦力など余ることがない。日々発展のために尽力を注がねばならず、いくらあっても足りないくらいだ」
「……『秘宝』?」
そうだ、そう言えば前にコノハも言っていた。『秘宝』。一体何なんだ? ……と聞けば、教えてもらえるんだろうか。などというこちらの意向を察してか否か、あちらの方から進んで、
「ああ、『秘宝』のことを、君は雇い主から聞いていなかったようだな。コノハに聞いた。まあ、大方知られて持ち出されることを恐れたのだろう、気持ちは分からんでもない。それほどのものなのだ、『秘宝』とは、な」
「わたしの方から説明いたしましょう」
とマツリカが車椅子を前に出した。そして、ごそごそとスカートのポケットから何やら取り出した。それは、一見なんの変哲もない水晶の球だった。
「……見ていて下さい」
マツリカは、それと自分の首に提げているペンダントを近付けた。……すると、にわかにその両者がまばゆい、真っ白な光を放ちだした。あまりの光に、ぼくは目を逸らした。後ろを剥くと、どうやらコノハとサクラも同様にしていた。フヨウは……懐にでも隠し持っていたのか、いつの間にかサングラスをかけて光を防いでいた。
光が止む。マツリカを見ると、水晶玉をポケットの中へ戻しているところだった。そして、ペンダントをぼくに向かって見せつける。
「……これが、『秘宝』です。『秘宝』の存在自体は、実はそれほど隠されたものではありません。地域によってまちまちではありますが、少なくともここ《ヒグマ地区》では知らぬ人の方が多いでしょう。それも無理はありません。ここは、その昔『秘宝』によって繁栄を約束された地区であると、伝えられているからです」
「繁栄を……約束? どんなおとぎ話だそれは」ぼくは眉をひそめる。
マツリカはこっくりと頷いて、「説明が前後しましたね。端的に申しましょう。この『秘宝』とは、――持つものの願いごとを叶えてしまう、そんな、途方もない、神話じみた、オーバーテクノロジーな代物なのです」
……いきなり、素っ頓狂なことを言い出した。お金持の思うことは、心底分からない。そう思った。――が、同時に納得してしまう自分もいた。それならば、リンドウが厳重な警備を敷きあんな山奥で隠れ住んでいるのにもかかわらず、襲撃が多発するのも頷ける。
……でもなぁ。
「いきなりそれを信じろ、だなんて、無理があると思いませんか。……本当にぼくを欲しているのであれば、今ここで、何か願いを叶えて下さいよ。信頼を築くことのむつかしさは、あなたも知っているはずだ。ふたつもあるんだし、いいでしょう?」
「……ふふ、信頼か。今まで何も知らずに人を殺して来た者の台詞とは到底思えんな」
ウイキョウの口元が僅かに、嘲笑にゆがんだ。全身の血液が沸騰するかのように沸きだった。この男に、明確な殺気が湧いて出た。丸腰でなきゃ、前後左右を敵に囲まれていなけりゃ、ひとときにこいつの首を掻き切っていただろう。
「ああ、すまんすまん。そう殺気立つな。居心地が悪い」と言って煙管に煙草を詰め、火を点けた。「『秘宝』は、その数に応じた祈りだけを聞き入れる。ひとつふたつではかすり傷ひとつ治すことも出来ん。……逆に、『秘宝』がもしも幾つもあったなら。……『秘宝』はその数が多ければ、叶えられる祈りの難易度が、指数関数的に高くなる。甚大な数の『秘宝』があれば、――この世の法則さえも、覆すことが可能となるのだ」
「その『秘宝』ですが……」とマツリカが後を継いだ。「使用後、消失してしまいます。先ほど申しました通り、神話的な代物であり、オーバーテクノロジーでございます。故に、数に限りがございます。……今まで、つまらない願いにどれほどの『秘宝』が使われていたのでしょうね。頭の痛い話でございます。ですから、わたしたちとしては、悲願成就のために、ひとつの『秘宝』をも無駄使いしたくありません」
「ふざけるな」ぼくはこらえきれなかった。自分が思うよりも自然、大きな声が出ていた。「さっきから下手に出て聞いてりゃ、調子いいことばかりほざきやがって。つまらない願いに使われた、ねえ。さぞあんたたちの願いごとは崇高なんだろうさ。必死こいてるぼくらがゴミクズみたいに見えるくらいに、ね。……まあ、あんたたちの願いが果たして本当に良いことかどうか、そいつは、実際雇われる側のぼくが決めることだろう。あのリンドウが『秘宝』に込めようとしていた願いよりも、本当に、崇高なものなのか。と言っても今となっては分からないけど。命をかけるに値するかどうかは――」
「いや、その必要はない」ウイキョウはぼくの言葉を遠慮なく遮った。ぼくの言葉そのものに、そもそも興味を見いだせないかのように、「別に、我々の祈りが何か、興味があれば教えるが、興味がないのなら聞かなくてもいいし、そもそも、君が我々の望む祈りに共感できるか否か、そんなことは、どうでもいい。どうでもいいのだ。あのリンドウとかいうもののもとで働いていた通りに、ここにいてくれればいい。……いや、それ以上の待遇は保証しよう。不備・不満があれば遠慮なく言ってくれて構わない。『紫鬼』を手中に入れるためだ、尽力は惜しまんよ。……『秘宝』の存在を知らなかったくらいだ。君はもともと、ただ、生きるためだけに、働いていただけだ。衣食住のために働いていただけだ。そう聞いた。わたしの考えその他になどに、何の興味もなかろう。……なァに、頭がすげ替えられただけだ。何の不満がある?」
皺の目立つウイキョウのその口から、もたもたした聞こえづらい口調で、しかし淀みなく言葉が出て来た。ぼくはその間、微動だにしなかったがやがて、
「……じゃあひとつ、頼みがある。武器をひとつくれ。ウイキョウのところじゃ、ずっと武器を触って生きて来たんだ。丸腰じゃ、落ち着かない。今すぐ、ここでだ」
ぼくの言葉に殺気が色濃くなる。しかしウイキョウはあくまで飄々と、煙管をくわえたまま、ごく自然に懐に手を入れ、
「そうかそうか、では、こいつをやろう。今用意できるものと言えばこれくらいだ。また後でなんなりと言ってくれればいい。――ああ、弾は入っている」
と言って、中から小型拳銃を取り出し、ぽいっとぼくへ向かって放り投げた。
「随分ナメられたもんだな。気に入らない。死ねよ」
ぼくは小型拳銃を手にするなりその銃口をウイキョウに向ける。と同時に後ろの物陰から、真っ黒な肌の、紫髪の女が飛び出す。潜んでいたのは分かっていたが、――まさかの『紫鬼』。一瞬だが不意を突かれる。両手には斧。すぐさま、標的をウイキョウからその女へ移す。
「動くな」――いつの間にかぼくの首元に設置された、鋭い鎌の刃。その鎌の持ち主を目にし、開いた口が塞がらない。紫の髪の男――つまりは『紫鬼』。意味が、分からない。
かちゃり。――背後から聞こえた、刀の音。コノハだ。殺気がほとばしる。四面楚歌。
「……そういうことだ」
息の荒いぼくをよそに、ウイキョウはあくまでゆったりと、煙管をコツンと灰皿に叩く。
「我々の所有する『紫鬼』は、三人にとどまらない。君ひとりが謀反を起こした所で、どうにもならない。諦めてもらおう。それが賢明だ、というかそれ以外にない」
「……今この場で、この至近距離で引き金を引いたら……どう転ぶかなんて分からない」
「無駄なことだ。弾の装填数は二発、しかもダブルアクション、ただでさえ扱いにくいし、君の使っていたピースメイカーとは随分勝手が違う。その上手負いの君では、『紫鬼』はまず殺せないし、我々のうちのひとり、殺せるかどうかも危うい。……殺した所で君になんの得もあるまい、やめておきなさい」
ウイキョウはぼくに同情的な視線を向けた。それは、大人から子供へ向けられる視線だった。それは、強者から弱者へ向けられる視線だった。ぼくは、ここでは、紛うことなき弱者だった。――血が頭にかっとのぼる。からだが小刻みに震えて、目がかすむ。まずい、ナメられるわけにはいかない、と思って我慢しても、自然涙が頬を伝った。……なんだよ、何なんだよ。ずっと流れなかったくせに、なんで今更になって。
「ああ、それと……」とウイキョウはあくまで自分のペースで話を続ける。「リンドウの所にあった『秘宝』は、――偽物だった。『秘宝』とは先程示した通り、二つ以上それがなければ、そうと確認するすべがない。それ以外に特徴はないからな。大方、誰かしらに掴まされたのだろう。……『秘宝』でも何でもない、ただのがらくたを、大金をはたき、大勢雇い、殺し、殺されながら、守ってきたわけだ。……何とも《滑稽》だ」
容赦なく叩きつけられた、ウイキョウの語る真実。
その《滑稽》とは、ぼく自身でもあった。がらくたを一生懸命担いでいた道化だった。
ぼくは、逃げた。足がもつれて転んだ。嗚咽が漏れた。もういやだ。とにかく逃げた。後ろでコノハが何か言った気がしたけど、左腕がずきずきと痛んだけれど、構ってなんてられなかった。
洋館を出た。使用人らしき人もちらほらいたけど、その視線に捕まらないように、風になって走った。右も左も分からないけど、とにかく必死で走った。広い屋敷だったけど、すぐに終わりは見えた。柵があった。あれを抜ければ、きっと外へと出られる。
思う間もなく、柵を飛び越える。ぼくの眼前には、広い、自由な世界が。……
雑踏。――人通りは多かった。車がクラクションを鳴らして忙しげに縦横を走り、さまざまな恰好の老若男女が、ぼくを一瞥するなり、驚いたり、気味悪がったりして、足を速めた。
混乱。――ぼくは、どうすればいいんだっけ? どこへ行って、何をすればいいんだっけ? あれ? からだって、どうやって動かせばいいんだっけ?
脱力。――からだの震えが止まらない。耐えきれず膝をつく。息の仕方さえも忘れる。
決壊。――涙がとめどなく流れる。声を上げて、泣いた。何の目的も無く。何の期待も無く。
察知。――こんな時でも本能は働く。女の人の気配に、全身がびくっと反応。
「おい、あんた、大丈夫かい? 調子でも悪いのかい?」
おばあさんが、ぼくを心配して覗き込んだ。しかし、親切に差し伸べられたその手は、ぼくにとっては劇物でしかなかった。
ひとときに全身に力が戻る。跳躍し、唖然とするおばあさんを前に、柵をまた飛び越えた。
また、戻ってきた。いや、でも、どうすればいいんだ? ここには、ぼくの居場所などない。どこへ行って、何をすればいい? 何を頼ればいい? 何になればいい?
どうやって、生きていけばいい?
葉の黄色く染まった公孫樹の木の下の草むらで、誰にも見つからないようにうずくまる。
赤子のように膝を抱えて丸まって、ぼくはじっとしていた。脳内をぐるりぐるりといろいろな考えが巡った。けど、何もまとまらない。どうしようもならない。からだが、まったく動こうとしない。
がちがちと震えるからだにようやく、身を包む冷気に気付いた。
ふと頭に浮かんだのは、『拾い主』であるおじいさん。
あの時もそうだった。苦しむおじいさんを前に、何もできなかった。ただひたすら寒さに耐えるだけだった。
――どれくらいそうしていたか分からない。
驟雨。――急に辺りが暗くなってきた。すると空からは雨が降ってきた。痛いほどに冷えた水滴が、全身を濡らす。体温を奪う。
……なんだか、頭が冷えてきた。こうしていれば、おじいさんみたいになるのかな。そう考えると涙が止まった。……ぼくの人生って、何だったんだろう。生きるために這いつくばって、人を殺して、殺されかけて、終いには意味もなく消えてゆく。
……違う。おじいさんと生きた時間は、間違いなく幸せだったんだ。そうだ。ぼくの人生は、おじいさんとのものだったんだ。おじいさんが死んだ時、ぼくの人生も終わったんだ。慣性で飛び出した石が、今、止まったんだ。結局、それだけだ。
『ぼくの日常が、一変する』――あの時感じた虫の報せは何だったんだろう。
目を瞑る。ざあざあと雨音が四方を叩く。その心地よい振動を全身で楽しむ。
ふと、大きな雨音が頭上で響く。頭に容赦なく降り注いでいた雨が止む。顔を上げる。フヨウが、蛇の目傘をぼくに傾けて、自分の髪を濡らしている。
何しに来たんだ。関係ないだろ。そう言いたかった。けど、声にならなかった。
代わりに涙が出て来た。
フヨウが、微笑んだ。――ぼくは、それにすがりついた。
「大丈夫。……ここには確かに、変な人しか、いないけど……敵は、多分、いないから」
フヨウはぎゅっとぼくを抱きしめてくれた。ぼくはただ、それに甘えていた。
♪
その日はフヨウと一緒にお風呂に入って、一緒の布団で寝た。
「そのことは絶対にコノハに言わないこと!! いいわね!? 絶命必至よ!!」
ぼくらを起こしに来たサクラは、ことの次第を聞くと厳重に釘を刺した。そして、サクラの姿を見るなり飛び上がったぼくとは対照的に、未だまどろみの中にあるフヨウを引っ張り上げて、
「ほら、さっさと起きなさいよ、いい加減に!!」
「うーん……あと一週間……」
「干からびるわよ!! ホラ馬鹿なこと言ってないで!!」
なんてやり取りをしてフヨウを部屋から連れ出そうとした。
「あ、あの!!」
考えるより先に声が出ていた。サクラは障子の前で振り返り、大きく溜息をついて、
「別に、取り上げるわけじゃないから安心しなさい。わたしたちにもやることはあるのよ。……一応あなたは、ここにいていいっていう許しが出たわ。コノハと、あと……なんだったっけな、あの人の名前、何とかって人の説得のお陰で」
「……コノハも、あと誰だか分からないけど、余計なお世話だよ。ぼくはここにいたいだなんてひと言も言っていないのに」
「ばっかじゃないの!?」
サクラが怒鳴った。びくっとからだが反応する。『女の人の怒号』というのは、あまり経験がないから。
「ちゃんと考えてからモノ言いなさいよ。どうせあんた、行く宛てがないんでしょ? だったらここにいりゃいいじゃない。『お館』夫妻はあんたを一応必要としているんだから、あんたは『居てやってるんだ』くらいに構えて堂々としてりゃいいのよ、それなのに、ぐじぐじと馬鹿みたいに理由付けてめんどくさい」
立て板に水のようにまくし立てた。そして口を挟む余地も与えず、
「フン、別にコノハはハナっからあんたの感謝なんか期待してないわよ。馬鹿にしないでくれる? ま、今の所はこれくらいにしておいてあげる。次めんどくさい態度とったら容赦しないわよ? そうね、今日は屋敷にさッさと慣れるためにも、適当にひとりでぶらぶらしていなさいな。フヨウがいなくて心細いでしょうけどね」
「!? 心細くなんか――ッ!!」
すたん。ぼくの言葉の終わらない内に、サクラは襖を乱雑に閉め、未だ眠気眼なフヨウを連れて、とたとたと足音を立てて去ってしまった。
唖然。――嵐の過ぎ去った部屋はひっそりと静まり返り、外からツグミのちぃちぃという鳴き声だけが聞こえてくるだけだった。
『行く宛てがない』だの『ひとりで心細い』だの、好き勝手言って、気に入らない。昨日のコノハといい、女の人ってこんなのばっかりなのか? 嫌になる。もう一度布団の中に入り込む。今度は頭まですっぽりと。ちぃちぃと鳴く声が小さくなる。
寝てしまおうと思って、しばらくそうしていたけど……
「ああ、もう!!」
サクラの言葉に腹が立ったままで、いらいらと逆立って眠れそうにない。仕方がないから布団を剥いで、貰った黒のスーツに着替え、襖を開ける。
「……うわぁ……」
ついつい、感嘆の声が漏れる。雨上がりの空は青く、十一月の空気は痛いほどに澄んでいて、水滴を吸い込んだ草木は、寂しい冬の景色を懸命に光り輝かせていた。
縁側の踏石に置かれた靴を履く。……少しだけ、歩くのが楽しみになってきた。
しかし、本当に広い。信じられないくらいに。この間は全力疾走だったからすぐだったけど、こうして歩いたら端から端までどれくらいかかるんだろう。それなのに、人は少ないわけじゃない。個人でこれだけの土地を所有して、更にこれだけの人の人件費を払っていると? ……『お館』とやらは豪族か何かだろうか? これじゃ、いくらリンドウでも太刀打ちできないだろうに。……
ぴたりと足が止まる。脳裏に浮かんだリンドウの建物から、ふと連想された、読みかけの小説。そして、その所有者。――そうだ……ツバキは、ツバキはどうなったんだ。
リンドウが必死になって守っていた『秘宝』(と勘違いしていたもの)が奪われた、ということは、当然壊滅的な被害を被ったわけだ。その犠牲者の中にツバキがいない確率なんて、いくらだろう。
殺された。そう考えるのが自然だ。あの時いた、サクラか、フヨウか、または他の誰かが。
――もやもやする。
ツバキには、出来れば生きていて欲しい。一応世話にはなったわけだから。でも、同時に想像してしまうのが、情け容赦なくツバキの首を刈るコノハの姿。また、ツバキ眉間を正確に狙うフヨウの姿。状況から考えて、その方が自然だから。
ツバキに対する感情、コノハに対する感情、フヨウに対する感情、のったりと渦巻く。どきどきと強くなる心臓の鼓動、途端に色を失う景色。居ても立ってもいられないのに、どうしようもなく、足が一歩として動かせない。目眩さえ覚える。目を瞑る。ぐるぐると暗闇が気味悪く蠢く。……こんなこと、今まで一度もなかったのに、どうしちゃったんだ、ぼくは。
「ほほう……『床が崩れ落下する』を三枚のカードで解決、か。……では見せてやろう!! 刮目せよ!! 俺のからだが落下する中、手にした《水晶》に念じ、語りかける!! するとどうだろう、不思議なことが起こった。俺のからだが途端に《猫》へと変化したではないか!! 身軽になった、これならば落ちたって平気だ!! 俺は《ダイナマイト》を後ろの方へ投擲し、その美しい爆風をバックに、悠々と地面へ着地。……どうだ!? 完璧な回答だろう!! さあ、判定はいかに!? まあ結果は分かってるけどなァ!!」
「アウトー。最後が余計かなー」
「アウト。最初っからエキセントリック過ぎ」
「姉萌えに、再起をかける、舞の海。アウト」
「何だそれー!! っていうか最後のひとりオイ新人いじめかこらァー!!」
雨風の一応防げるドーム型の屋根のある休憩所のような所で、ベンチに腰掛ける男四人による、カードゲーム・キャット&チョコレートの模様。そう言えばツバキともやったな。ぼくのノリが悪いせいで、全然楽しくなかった。ごめんな、こんなことになるんだったら、ちょっとくらい愛想よく付き合ってやってもよかったのかもしれない。
平和だな。世界は、ぼくとは関係のないところで回ってゆく。ああ、ムジョウ。
「ってぇ、おいコラ、ツバキ!?」
「おー、ニギ、動けなくなるほどの重体だって聞いたけど、よくなったみたいだな。重畳重畳」
ぼくは目を剥いた。それは、間違いなくツバキだった。手にしたカードを置いて、ぼくの方に小走りに駆け寄って来る。ぼくはそれを夢か何か非現実の中にいるような心地で見ていた。ツバキの手が、ぽんぽんとぼくの頭を軽く叩く。
「ん? 何だ、大人しいな。いつもだったらぺしってすんのに。本調子じゃねえのか? まあ、無理もねえけどよ。もし、まだどっか悪いんなら、あんま出歩くんじゃねえぞ?」
そう言って怪訝な顔でぼくを下から覗き込んで来た。
「ツバキ…………生きて…………」
以降、言葉が続かない。ぼくの頬を、熱いものが伝った。
「………………え? ちょ、ちょオイ!! ニギィ!? ニギさん!? どうしちまったんだぜ!? おい、おい、何だってんだホントにッ!! お腹痛いか!? ぽんぽんしくしく!? 知らんうちにまーた俺がなんかやっちまったか!?」
「違う……違うんだ……」
――何が違うのか。あたふたと慌てふためくツバキを他所に、涙が止まらない。……また泣いてしまった。どうしてぼくは、この短時間に、ここまで弱くなってしまったんだろう。
分からない。分からないけど……ツバキを見て、ぼくは確かに、安心した。
「……まったく、見ちゃおれんな」
それを遠巻きに見ていた真っ白な狼が、寝そべった体勢からのっそりと四足で立ちあがり、手に(足?)していたカードを肉球から器用に離し、地面に置いて近寄ってきた。
見憶えがある。コノハ、フヨウとともに攻め入ってきた、喋る狼だ。名前は確か……
「グミだ。一度会ったな。憶えているかどうかは分からんが。……それはいい。そんなことよりも、お前はちゃんとその男に礼を言っておいた方がいい」ぼくに向かって低い声で語る。
ぼくは涙を拭く。ツバキがグミの方に向き直り、眉をひそめ、
「おい、それはいいから……」
「まったく、コノハといいあんたといい、随分過保護だ。あんまり甘えさせてもいかんぞ。こういうことはきっちりしないとな。おい、ニギ、と言ったな。お前がここにいられるのはな、その男――ツバキと言ったか――そいつが頭を下げてお館を口説いたからだ」
ツバキはばつが悪そうに、「……ま、そういうことだ。と言っても、お前だけのためってんじゃないぞ? 生き残ったやつは沢山いたからな。何より自分のためでもあるし――」
「その生き残りの何人かは屋敷の外に仕事を斡旋した。お館の顔があれば、ここじゃ大抵はどうにかなる。無い知恵絞って頭下げて、何とかお館に取り入って、面倒を見たわけだ。若いくせになかなか見どころのある男じゃないか。で、残りはこの屋敷で雇ってある。幾人か見知った顔がいたろう? 気付かなかったか?」
気付かなかった。そんな落ち着いた状態じゃなかったし。でも、ツバキがそこまでしていたなんて。ぼくなんて自分のことだけで精一杯だったのに。
「ま、まあな。出来ることしただけで、これと言って特別なことしたわけじゃないぞ?」
「ツバキ……ううん、凄いことだよ。きっとツバキじゃなきゃ、出来なかった」
……ツバキがきょとんと目を丸くして、動きを止める。そしてぼくの両肩に手を置いて、
「おいニギ、お前本当に大丈夫なのか? ぽんぽんしくしくか? 本当に、寝ていた方がいいぞ。どう考えてもおかしい。いつも死んだような目をしていたお前が、『めんどくさい』とか『興味ない』とかが口癖の、明らかな現代ッ子――しかも駄目な方の子――が、なんでそんなに眩しい笑顔が出来るんだ?」
「ツバキ、意識的に喧嘩売ってる? それとも心の底から本心で言ってる? どっちにしろぼくの硬く締められた拳が見える?」
「ニギ、いいか、ニギ。駄目な時は駄目って言え。助けて欲しい時は助けて欲しいって言え。早めに言ってくれれば、何らかの対策が出来るかも知れん。お前をこんな風に純粋な男の子になるくらい追い詰めたやつは一体誰なんだ? あぁ、神さま、あの、小生意気でちょっと中二な、ときどき笑いを我慢しなきゃいけないくらい背伸びをしていたニギを返せ!!」
「ほほう。そんな風に思っていたのか。せいッ!!」
「ごふう!!」
腹に一撃を喰らわせると、膝をつき、地面に突っ伏して、苦しそうにのたうち回った。
そうこうしていると、ツバキらとカードゲームをやっていた、紫の髪の男が、いつの間にやらすぐ側にまで接近していた。――間違いない。あの時、ウイキョウの前で、ぼくの首元に鎌を置いた『紫鬼』だ。身長は(ぼくよりも)小さいが、小太り。しかし目も唇も細い。見た目からは年齢が割り出せないが、ぼくよりは上だろう。
とっさに身構える。『紫鬼』はぽりぽりと右手で頭を掻き、左手を振って、
「あー、大丈夫大丈夫、なぁんもしないから。いやー、こないだはごめんねー。流石にあの状況じゃ、他にやりようがなくってねー。首狩ろうとしといて、許してってのもあんまり都合がいいかも知んないけどさー、仲良くやって行きたいし」
「あ、えーっと……」
先日とは打って変わって気の抜けた声だった。臨戦態勢に入ったからだをどうほぐしていいか分からないぼくは、そのまま立ち尽くし二の句が継げない状態。男は何を思ったのかにっと笑い、手を差し伸べた。……握手しろ、そういうことらしい。
「俺は《ノヅチ》って言うんだ。よろしくー」
「ぼくは……ニギ」
所在なくその手を握る。それでもノヅチは満足したようだ。ただでさえ細い瞳を更に細めた。
「いやーでも、あの時動いてくれなくってよかったよ。下手すりゃ俺の首が飛んでいたからね」
ぼくは眉をひそめる。どういうことだ? 狙われていたのはぼくなのに。ノヅチはぼくの反応を見て、意外そうに、
「あれ、気が付かなかった? あの時、俺に向けられた、――コノハさんの殺意に」
ノヅチの顔が一瞬でしゅっと締まる。ぼくもそれにつられて緊張する。そして思い出す、ノヅチによって動きを封じられた瞬間背中に感じた、不気味に澄んだ刀の音と、密かで明確な殺気。でも、それがノヅチに向けられていたって――? ノヅチは勝手に納得して頷く。
「そっか、うん、分かっていなかったようだね。君は守られていたんだよ、コノハに。あまりの禍々しい殺意に、俺は死を覚悟したよ。もし、一歩でも、いや、半歩でも君が動いていたら、俺は今日こうして笑っていなかったろうね、うん、それくらい凄かったよ。……初めてあの人に会った時は衝撃だったな。まさか同じ『ふれぽん』でもこれほどまで個体差があるとはね」
ぺらぺら喋り続けるノヅチの言葉は、しかし、後半の部分は、ぼくの頭にまったく入って来なかった。ぼくが、コノハに守られていた? ……分からない、全然分からない。
ぼくらは、一度殺し合った仲じゃないか。ぼくは死ぬのが自然じゃないか。
それなのに、どうしてそんなことするの? そんなことをする理由があるの?
どうしてぼくを助けたの? どうしてぼくを守ったの?
見ず知らずのぼくに、何を見出したっていうの? 何を感じたというの?
心臓がとくんとくんと鼓動する。全身がぽかぽかと温かくなる。寒さが一切吹き飛ぶ。
どうして? ――コノハに聞いたら、何か教えてくれるだろうか。
そこでツバキが、やっと痛みが引いたのか、立ち上がって深呼吸し、
「あー、酷い目に遭った……まったく、本当にお前は」
と言って恨めしそうにぼくを睨んだ後、気付いたように胸ポケットに手を伸ばし、
「忘れてた。コレ、こんくらいしか取って来れんかったけど、お前のだ」
と、ぼくの読みかけの小説と……おじいさんの写真を入れた写真立てを渡して来た。
――まただ。また、胸が詰まった。今日だけで何度目だ。そう突っ立っているうちに、ツバキとノヅチは、
「んじゃ、俺は仕事場に戻るさ。つらいもんだね、下っ端は」
「ほいほい。俺も部屋に戻るかなー」
とひとりごとのように呟いて、さっさと帰ってしまった。その背中に何か声をかけなきゃいけない気がしたけど……何も出て来ない。それに口を開けたら、また涙が出そうだ。
二人の後姿が小さくなる。完全に期を逸した。
「……まったく、まだまだ子供だな」グミは不機嫌そうに呟いて、ぼくに尻尾を向ける。
「ぼ、ぼくは子供なんかじゃ――」
「十分すぎるほど守られておきながら、何をほざくか、小僧め。恩義に対し礼の一つも返せない小童が」
「あっ――」
お礼? ……そうなのか、それだけでよかったのか? そんなもので――?
「……あの男は、お前なんぞが何も返せんことくらい分かっとる。単に親切心からやったことだ。お前が喜ぶと思ってやったことだ。それをお前は、礼の一つも言わんかったことで、ただの自己満足にしてしまった。『かたじけない』とただひと言添えれば救われたのに、あの好意をただのお節介にしてしまった。あの男は道化と化した。恥を知れ」
「ち、違うッ!!」
「ああ、そうだろうな。あれはなかなか見どころのある男だ。しかし、お前が道化としてしまったんだ。分からんか。ならば矢張り所詮は子供ということだ。……いいか小僧、もうひとつ言っておく。次が必ずあると思うな。今日と同じ顔が明日必ずあると思うな。期を逸したら最後、二度と取り返しがつかぬことがこの世の中にごまんとあることを、ゆめゆめ心するがよい」
低い声で好き放題言うと、さっさと立ち去ってしまった。心がざわつく。
そして、思い出す――そうだ、おじいさんが死んだ時、ぼくは、喧嘩していたんだ。
喧嘩の原因は、もう思えだせない。それほどまでに些細なことに、意地を張って、謝りもしないで、結果、取り返しのつかないことになった。……あんなに大好きな人だったのに。どんなに願っても二度と話せないのに。胸がぎゅっと締めつけられる。
「……気にしない方がいい。あんな生き方は少々窮屈だろう。グミはちょっと堅物過ぎる」
急に、男の声がした。からだがびくっと反応する。そ、そうだ、忘れていた。もうひとりいたんだ。全身を白装束に身を包んだその男は、不自然なほどあまりに整った顔をこちらに向けた。声といいその風貌といい、浮世離れして、不気味なほどだった。
「君には、反省する時間なんかより、ゆっくりする時間が必要だろう。……とはいえ、礼を言うのに早いに越したことはないが」
そう言うと男は立ち上がった。そして……からだから七色の光を放ったと思うと、その身を途端に大きな白蛇へと変えてしまった。……唖然。
白蛇はちろちろと舌を忙しなく動かして、
「何にせよ、しばらくは好きにしていればいいさ。ここは君ひとり増えたくらいじゃびくともしない……正に魔境だからね」
口元をにやりと不敵に上げて、去って行った。
……変化する種族は、確かに数多くいる。それでも、こんな珍しい種族が、こんな所でぼうっとカードゲームに耽ているなんて、あまりに突拍子もなく、あまりに意外だったから。
喋る狼、変化する白蛇、当たり前のようにいる『紫鬼』……。
ここは、一体どうなっているんだ?
――背後から女がこちらに向かって来る気配を察知。取り敢えず、思考を中断。振り返る。それを予知していたように、女の足がぴたりと止まる。
その姿、見たことがある。真っ黒の肌を包んだ、真っ黒なスーツ。そして、紫の髪。
ウイキョウの傍らで両手に斧を持っていた『紫鬼』だ。……もう、びっくりしないぞ。
「コノハが呼んでいるわ。付いて来なさい」
女の明朗な声が届く。
……ねえちょっと、今日は、あまりに多くのことがあり過ぎやしないか。
♪
ぼくは女の後ろをてくてくと歩く。女の歩幅は大したことなかったけれど、歩調は、ついて歩くぼくのことなどお構いなしに、さっさと速く、風を切って歩いている。その間ひと言として口を開かない。別にいいのだけど、流石にちょっと不安になる。
「あの……」
「《カヤノ》よ。あんたはニギだったわね。一緒の仕事につくかどうかとか分からないけど、まあ、よろしく頼むわ」
「……どうしてコノハはぼくを?」
カヤノは振り返りもせずに、
「そんなの知ったこっちゃないけど、コノハのお気に入りか何かじゃないの? まあ、分からないわね、他人の趣味は。因みに、あなたはわたしの好みから遠く離れているわ」
「聞いてない」
「筋肉がなければ、男とは認めない。何なのそのきゃしゃなからだは。人生なめてんの?」
「おいコラ『紫鬼』、感覚を否定するな」
「成程、あなたは突っ込みなわけね。丁度いいわ。足りていなかったの。あのツバキってやつにも、期待しているわ」
「……あいつこそ、ボケだよ?」
「人は、その場その時代で自分を変え、合わせなきゃ生きていけないものなのよ。わたしたち『紫鬼』だってご多分に洩れず。あなたも、せいぜいがんばることね」
「……そんなご高説、聞きたくないよ。ねえ、ここの人たちはみんな説教好きばかりなの?」
「おしゃべりばかりで手を動かさないやつばかり。いい加減にして欲しいわまったく」
「あんた、さっきまで黙ってたくせに」
「まあね。でも丁度いい暇つぶしにはなったでしょう。着いたわ」
足が止まる。女の気配よりも速く、コノハの姿が目に入る。
着物姿に、今は茶色の長いマフラーを首に巻いている。そして、花壇近くに屈み、薄ピンクの小さな寒椿を覗き込んで、柔らかな微笑みを湛えていた。
とくん。――心が不意を打たれたように、びくんと反応。腹の奥底に、何か、今までに感じたことのない違和感が湧きたつ。なんていうか、ひと言でいうと苦しい。
……駄目だ駄目だ、どうしたってンだ。ずっと寝てばっかだったから、からだが鈍ったか? 大きく息を吸って、吐く。違和感はそのままに、でも少しは落ち着いた。
コノハがこちらに気付く。そして、カヤノに向かってぺこりと頭を下げる。
「ありがとうございます。助かりました」
「ううん、いいのよ。忙しい時はお互いさまだからね。……それに子供からかうのも、たまには悪くないわ」
「んな!?」
カヤノはそう言い残すと、ぼくの反応も無視してさッと跳んで消えてしまった。……その身のこなしを見た感じ、ちょっと敵いそうにはないな。つい少し前までは敵なしだったのに。
井の中の蛙、と思うと、恥ずかしい。
「……世界は広いですからね」
どきっとした。コノハは、ぼくの心を見透かしているかのように、そう宙にうそぶいた。
コノハはぼくの方に首を傾げて、
「信じられますか? あの子、筋肉むきむきのマッチョ好きなんですよ。あんなやつら、無駄に角ばっちゃって、機械じゃあるまいし、馬鹿じゃないですか? 動物には丸みが必要なのです。気持ち悪いだけじゃないです?」
「知らんがな」
駄目だこの人。ちょいちょい抜けてる所のある人だと思ってたけど、それ以上だ。
「……本題に入ろう。どうしてぼくを呼んだの?」
聞きたいことは山ほどあるんだけど、言いたいことは山ほどあるんだけど。
「いえ、あなたが起き上がって歩きまわっているって、サクラに聞いたものですから。なんにしても、無事でよかったですよ」
「……自分で斬り伏せておいて?」
「あなただって殺しに来ていたんだから、お互いさまですよ。……そうそう、ツバキさんには会いましたか?」
「……会った」
「そうですか。……あなたと闘う前、あの人にね、言われたんですよ。おれはどうなっても構いやしない、でもこの先にいる『紫鬼』の子供だけは助けてくれ、あいつはこんな所で野垂れ死にしちゃいけねえんだ、って」
ずきん。と心を槍でもって突き刺された感じ。いろいろな感情が渦巻く。
「……子供じゃない、とか、余計なお世話だ、とか言うかな? と思いましたが」
「……うるさい」
ぼくは努めてぶっきらぼうに返す。コノハはにっと笑う。なんか、手の平でいいように転がされている感じ。気に入らない。腹の奥底の違和感もそのまま。段々と腹が立ってきた。
「あの人、未だに生存者の仕事の斡旋だのなんだのに奔走していますよ」
「もう聞いた」――未だにってのは初耳だけど。
「そうですか。……全員ここで雇っちゃえば速いのでしょうけど、やっぱり、守っているモノがモノですからね。働くだけでも命懸けです。『秘宝』に関係するのならば、殺されても文句は言うな、っていうこの世界の不文律ですからね。金銭的には問題ないのでしょうけど、……いえ、いけませんね。一夜にして十七名の命を奪ったものの言っていい言葉じゃありません」
「じゅ、十七名!?」
ぼくはつい叫んだ。不機嫌なのも吹き飛んでしまった。それくらいの衝撃。
「ええ、その通りです。もうちょっとうまく出来たかもしれない、もうちょっと、殺さずに済んだかもしれないのに、精進が足りませんね。……いいえ、理不尽に殺された方からすれば、そんなこと知ったこっちゃありませんよね。すみません。わたしが背負うべき業です。言いわけじみた泣き言はなりません」
コノハは悲しげにひとりごつ。ぼくの反応を非難と受け取ったらしい。つまり、十七名も殺してしまったことを、嘆き、咎められていると思っているわけだ。
逆だ、あまりに少な過ぎる。だから驚いているんだ。
リンドウの許には、兵士や、情報系統の裏方合わせて千人近くはいた筈。それを壊滅に追いやっておきながら、たった十七名の犠牲者しか出していない? どうすれば、そんな芸当が出来るんだ?
『紫鬼』の個体差――頭をすり抜けた筈のノヅチの言葉が鮮明に思い出される。
このままじゃ、駄目だ。拳を作り、ぎゅっと握りしめる。もっと強くならないと。
「ねえ、コノハ、次の襲撃はいつ? ぼくも参加する」
「……ニギ?」
「そのために、あいつはぼくを雇ったんでしょう? 折角拾われた命だ、しっかり生きなきゃ駄目だ。もっと経験を積んで、もっともっと強くならなきゃ駄目だ」
「ニギ……あなたは敵ばかり探し求めていますね。あまり良くない傾向だと思います」
「そんなの、綺麗ごとだ。コノハだって、沢山殺して強くなったんでしょう?」
コノハの表情が一瞬にして、陰る。ぴくりと眉が動き、綺麗な瞳が濁り、口の端がきゅっと緊張する。心の底から湧きあがる沈痛さや悔恨を必死に抑えているような顔をしていた。
とくん。――まただ。吹き飛んだ筈の違和感、不快感が腹の底から全身に伝搬する。
糞、ぼくのからだは、何が言いたいんだ、何を伝えたいんだ、ぼく自身に。
沈黙。――ぼくとコノハの二人、それを破る言葉を持っていなかった。
「侵入者だッ!!」
沈黙をひと薙ぎにする男の怒声が、スピーカー越しに屋敷中に響く。
助かった、と心底思ったが、内容的にはあまり歓迎すべきではないかも。
『秘宝』に関係するのならば、殺されても文句は言うな、か。無関係だなんて言っても、敵は聞いてくれないだろうな。覚悟を決める。気を張る。ベルトのナイフと銃を……
「……あっ」
無い。ありゃ、忘れてた、うっかりだ。丸腰だ。……不味い。相手が女だったらどうしようもないぞ。第一徒手の稽古なんざしたことない。それに気付いたコノハが、
「ニギ、わたしの後ろに隠れて!!」
「冗談言うな!! あんたなんかに守られてたまるかッ!!」
うわ、ついつい言い返しちゃった! なに意地を張ってんだ、ニギ! でもコノハが悪いよコノハが! 主に言い方が! もうちょっと機転を利かせて、相手のプライドを尊重して……
ひゅるひゅると何かがこちらに向かって来る音。はっと顔を上げる。拳程度の弾丸を目視。跳躍、と同時に着弾、爆発。けが人は、無し。
「見付けたぞ……悪魔めッ!!」
少女の甲高い声。――この声、どこかで。聞き覚えのある声だ。
目の前に現れた、紫の髪の少女。しかしぼくは、この子が『紫鬼』でないことを知っている。
「君は……」
「姉さんたちの仇だ、死んでもらう!!」
少女のからだがみるみるうちに変化する。そして、尾が二股に分かれた、一メートルを超える猫へとその身を変じた。――そう、紫の髪で『紫鬼』を演じた、猫又の……
「ルコウ、か」
ルコウの尾がぴんと伸び、全身の毛が一斉に逆立つ。「その名は、姉さんが付けてくれた大切な名前だ、お前なんかが気安く呼んでいいものじゃない!!」
そして、鋭い爪をひけらかして、空高く飛翔。太陽を背に、そのままぼくへと襲いかかる。
相手は猫又。女ではなく、雌の部類だ。では触れた所で問題ない。
殺そう。
くっと右手の中指を伸ばし、他の指をすぼめるようにそこへ集め、手で槍先を形作る。
ぼくは、ルコウの攻撃を避け、ぼくの指が脳天を突き破るイメージをしっかりと描く。
やれる。
ルコウが飛んで来る。引きつけてから、避けるための予備動作、膝を曲げ……あれ? ま、曲がらない!? からだが、動かない!! 鈍っているのか!? どうした、力が、入らない!!
腹部に衝撃。「ごめんなさい!!」という切羽詰まった声。すぐ後にカキンと鋭い剣戟。
ずざっと地を削り、砂埃を巻き上げて、そのまま屋敷の白壁にどすん。衝撃にのたうちまわる暇なんてない、すぐさま立ち上がり、体勢を整える。そして状況確認。見えたのは、ルコウの右前足の爪を脇差で止める、コノハの姿。左手には鞘に仕舞ったままの小太刀が握られている。恐らくあれで吹き飛ばされたのだろう、と推察。
「邪魔するな、この女ァ!! お前はこいつの仲間か!? 守るというのならお前も仇だ!!」
「お待ちなさい! こんなことしても、お姉さん方が喜ぶ筈は――」
「ああそうだ!! 姉さんはもう喜びはしない、嘆きもしない、心配してくれもしない、笑っても! 泣いても! 悲しんでもくれない!! そいつが、全部奪ったんだ!!」
ルコウの気迫はすさまじいものだった。だが、気迫だけで相手を斃せる道理はない。明らかに、圧しているのはコノハ。でも……どういうことだ、ぼくのからだから、どんどん力が抜けてゆく。肌寒い風が寒椿を揺らしているのに、ぼくの額から汗が流れた。目の前が揺れる。コノハの眦がぼくを捉える。俄かに眉をひそめる。ぼくは今、どんな顔をしているのだろうか。
ルコウの左前足がコノハを襲う。コノハは目を尖らせて、つばぜり合いを演じていた右前足の爪を受け止めていた脇差でもって切り飛ばした。と同時に脇差を捨て、小太刀を引き抜き左の爪も容赦なく切り飛ばした。
ルコウの唖然とした顔が見えた。コノハの顔も背中越しに少しだけ見えた。
その黒曜石のような瞳は、背筋が凍るほど冷たく、吸い込まれるほど綺麗で、見惚れるほどに残忍だった。
小太刀がルコウへ迫る。その切っ先が、首元すれすれで止まる。コノハの口が開かれる。
「――去りなさい。あなたがニギに危害を加えようとする限り、指一本触れさせません。今後、ニギに迫り来る厄災は、すべてわたしが退けます。――わたしが、ニギを守ります」
とくん。――心臓がぎゅっと締めつけられる。ぐっと息も詰まる。サボっていた筋肉が気付いたように起きて、全身を固まらせる。
ルコウはギッと歯を噛みしめて、後方へ跳躍。枯れ木立に舞い降りた。
「駄目だ……人でも……ただの鬼でも……『紫鬼』の相手は、『紫鬼』じゃなきゃ……」
うなされているように呟いて、逃げていった。
逆立ったままの尻尾を見送って、また会うことになるだろう、と直感した。
かちゃり。小太刀を鞘へ仕舞う音。帯へと鞘を差し、てくてくと歩いて、脇差を拾い上げ、懐から取り出した手拭いで泥を取り、鞘へ戻した。そして、
「お怪我は、ありませんでした?」
と微笑んだ。……その微笑みは、あんまりにも悲しげで、見ていられず、つい顔を逸らしてしまった。そのすぐ後に「大丈夫かーッ!!」と武装した幾人かの男が来て、ぼくらの姿を見、面喰った様子で突っ立っていた。遠くでツグミがどこ吹く風と、ちぃちぃと忙しげに鳴いていた。
――幾日かが過ぎた。
「これで一旦、生地を、一時間寝かせる」
「ほう、成程」
さてさて、始まりました、《ニギとフヨウのクッキー作り》。
バターに塩を加え練りまくり卵入れたり薄力粉混ぜたりなんやかんやを二つ作り、片方にはココアを入れちゃったりして最終的には某有名ネズミキャラやら世界一有名な排水工だなんだを作っちゃいます☆
「何故!?」
ぼくは危うく生地を天井に叩きつけそうになった。……万が一そんなことしたならば、後ろでぼくを監視(?)しているサクラに何されるか分からないから、自制したけど。
そのサクラが椅子に腰かけ、マフラーらしきものを編みながら、
「いいじゃない、別に。暇なんでしょ? 付き合ってあげなさいな。な~んにもやってないくせにおいしーご飯が食べられちゃってさ、まー、いいご身分だこと。『居るだけでいい』なんて美人秘書じゃあるまいし、持って生まれた何かがなきゃ言われる台詞じゃないわよね。世の中随分不公平だこと」
するとフヨウがサクラに近寄って、
「……大丈夫。サクラも、居てくれるだけで、それだけでぼくは幸せだから」
と言って額に軽いキスをして、眠そうな瞳のままで微笑んだ。された方はさっと頬を紅色に染め、ごにょごにょと「他人が見てる所で」とか「わたしは別にあんたがいなくても」とか「いやそんなんじゃなくて……」とか言いわけがましいことを呟いて、そっぽを向いてしまった。
「……あの、二人って双子の姉弟、なんだよね……?」
そう聞いた。だから目の前の光景を見て改めて確認した。
サクラはただでさえ尖った瞳をさらに尖らせて、
「そうよ、だからなにか!? 悪いかしら!?」
と噛みつかんばかりにぼくを睨みつけた。
サクラが何かとぼくに突っかかってきたのって……うん、深くは入り込まないことにしよう。
キィッと扉の蝶つがいが擦れる音。ひとりと獣一匹の姿。
「おー、クッキーのいい匂いがするねー」
「焼いてもいねえ!!」
ぼくの突っ込みを受けたのは、白蛇の男だ。名は《クコ》というらしい。
そしてもう一匹の方は、説教臭い白い狼のグミ。入って来るなり苛立たしげに、
「おい、ニギ、お前はまだツバキに礼を言っていないらしいな」
という風に口やかましい。あんまりうるさいものだから慣れてしまった。ふん、と無視。
「まったく、むふふ、最近の若者というやつは、むふふ、礼がなっとらん、むふふ、それに普通は、むふふ、年上というものは、むふふ、敬うもので、むふふ、むふふふふふふふ、って、止めんかフヨウ!!」
寝そべったグミ腹部を、フヨウが器用に撫でていた。グミは壺に入る度に目を細め嬉しそうに、気持ちの悪い声を口端から漏らしていた。
「こうすると、喜ぶよ?」
「ふざけるな!! 喜んでなどいない!!」
「……あんたね、むちゃくちゃ尻尾振ってるじゃないの」
サクラは突っ込みだ、とのカヤノによる評価はあながち間違えていない。グミはからだを一生懸命左右に揺さぶりフヨウの許から逃げ出して、はあはあと荒い息を吐きながら、
「まったく、酷い目に遭った。……それよりな、ニギ!! お前はどうやらコノハにも助けられておきながら、礼の一つも言っていないのだろう!?」
「……んな!?」
「あー、コノハが君を助けたことは監視カメラに映っているからね」とクコが割り込む。「なーんか最近コノハの元気がなくって、いろいろ聞いてみたら『わたしはお節介なのでしょうか』とか『わたしに説教する資格なんてありませんよね』とかネガいことばかり言うものだから、グミが勝手にそう判断したの」
「ふん、あらかた間違っておらんだろう。……そういう顔をしておる」
ぎろり、とグミがぼくを睨む。ぼくは目を逸らす。それが、答えだった。沈黙。
グミは忌々しげに、「あのコノハがあんなに落ち込むなど、それほど――」
というのをクコが遮って、「あー、それじゃあ、コノハとツバキに、お礼ってことでそのクッキーあげちゃえばいいんじゃないのかな? かな?」
「あ、でも二人分はない」とフヨウ。
「いいじゃない、まずはどっちかで」とサクラ。
するとグミはからだを起こし、「なに? じゃあニギ、まずコノハだ。ツバキなんかはほっとけばいい。あいつはケロッとしてるし。そうだ、コノハを優先しろ、絶対にだ」
クコは呆れたように、「まったくお前ときたら、調子がいいというかなんというか……」
「……ん? あ? え? ちょっと待って、それ確定なの?」というぼくの疑問に一同、
「「「「うん」」」」
ぼくとコノハは外のベンチ両端に二人で腰かけている。二人とも、無言……のまま早五分。
どどどどどどうしよう!? 気不味いなんてもんじゃない! にっちもさっちもいかない!
ちらり。眦でコノハの様子を確認。いつもの堂々とした雰囲気とは一転、もじもじと居心地が悪そうに、ぎゅっと太腿辺りの服を握りしめながら、困った風に眉をひそめ、あちらこちらに視線を動かしている。へえ、こんな顔もするんだ。じゃなくて!! うーん、どうしよ。
まったく、年長者なんだから、そっちから何か話題を振ってくれてもいいのに……。
いやいやいや。ぼくからしたら確かに「連れて来られた」だけど、コノハはきっと「ニギが呼んだ」って伝わっていることだろう。これはどうしても、ぼくが切り出さないといけない。覚悟を決めろ! なんて思っていると、目と目が合う。慌てて逸らす。――そして、沈黙。
ッてェ駄目だこんなんじゃ!! しっかりしろ、なんとかしろニギィ!!
「……ねえ、ニギ、ひとつ聞いていいですか?」
そうこう考えていると、コノハが口を開いた。よし! これを使わない手はない。ちょっと情けないけど、便乗しよう。さあ、来いコノハ!!
「……あなたはやっぱり、わたしを恨んでいるのですか?」
また、沈黙。――すぐには答えられなかった。考える必要があった。だから、コノハを待たせてでも考えた。
ぼくは、コノハを恨む理由なんてあるのか。
結論から言うと、無い。……ある筈がないんだ。だってそうだろう。ぼくは、今まで最低な所にいた。それが、腑に落ちない所は沢山あるものの、こうやって平穏無事な場所に来ることが出来たのだから。……そうだ、ぼくは闇の中から救い出されたんだ、コノハに。
――今頃気づいたのか、ぼくは。ここに来て何日経っていると思ってんだ。
救い出されて、守られて、それなのに意地張って、喧嘩腰になって、情けない。
もっと素直になればいい。……じゃあ、素直になったら、コノハにお礼が言えるのか?
素直になっても……言えそうにない。意地とかじゃなくって、どうしても。言える気持ちになんかなれない。
どうして? きっとコノハに非はない。ある筈ない。
ぼくはコノハに、「迷惑だ」と言った、「お節介だ」と言った。何故? だってぼくは、死んでもいいと思ったから。死んだ方がましだと思ったから。生きていたってどうしようもないと思ったから。
「ねえ、ニギ。わたしは、あなたを助けたこと、あなたをここに連れて来たことを、間違っているとは思いません」
コノハが沈黙を破る。ぼくの思考も中断される。
「こんな考えはきっと身勝手だとお思いでしょう。でも、願わずにはいられないのです。あなたにはもっと、好きなことをやって欲しいのです。やりたいことをやって欲しいのです。きっとあなたは、ずっとつらい思いをしてきたのでしょうから。……ごめんなさい、勝手にこんなこと推察して。でも、分かるんですよ、分かっちゃうんですよ、痛いほど」
ぼくはもう、何も考えられない。頭が真っ白。コノハは続ける。
「でも、考えれば考えるほど思うんです、わたしというものは、そんなことを願える存在か、他人の人生を捻じ曲げていいほど大層な存在か、……本当はもっといいやり方があったんじゃないか、あなたの人生を狂わせているのは、わたしじゃないのか、って。やはり、これはわたしのただの身勝手じゃないのか、って……」
コノハの声は、段々と尻すぼみに、か細くなっていく。
……違う、コノハは何も悪くない。これはあくまで、ぼくの問題なんだ。コノハが思い詰める必要なんてないのに……。唇を噛んで、きゅっと拳を握る。
こういう時、どうすればいい。なんて言えばいい。なんも分かんない。糞! 今まで山ほど本を読んで来たのに、肝心な時になにも思い浮かばない。こんなんじゃ意味ないよ!!
木枯らしが吹いて枯れ葉をさらう。十一月の冷たい空気が、無防備な顔の肌に容赦なく針を刺す。
もう一度、ちらりとコノハを見ると――はっと息を飲む。コノハの唇が青くなって、縮こまってからだを小刻みにがたがたと震わせている。
「コノハ……?」
「す……すみません……寒いのは本当に苦手で……思い出しちゃうんです、昔のこと……マフラー巻いてると少しは安らぐんですけど……ちょっと忘れちゃって……」
コノハは笑った。青ざめた顔のままで。その笑みは見る人を悲しくさせるものだった。
戸惑った。どうしよう。考えた。
コノハの頬を一筋涙が伝う。危うく、手を伸ばしそうになった。馬鹿かッ!!
今ほど女の人に触れられないことを恨んだことはない。小動物のように泣いて震えるコノハを前に、何も出来ない。今ほど自分の無力さを感じたことはない。
……馬鹿かッ!! 考えてる場合かッ!! 目の前で泣いてる人がいて、ただ黙って突っ立ってるだけなのか!? やれることがあるだろうがッ!!
ぼくは上着を脱いで、立ち上がりコノハの肩にかけた。コノハは驚いたように顔を上げた。
「ニギ……あの……」
ぼくは寒いのが苦手だ。死んだおじいさんを思い出してしまうから。どうしようもなく悲しくなってしまうから。
だからどうした。今我慢しないで、いつするんだ。
ぼくのからだもコノハ同様がたがたと震える。ぐっと胸を締め付けられる感覚にも襲われる。次第に足許から力が抜ける。立っているのもつらくなる。
だからどうした。歯を食いしばって全身に力を無理にみなぎらせる。息を止めて腹にぐっと力を入れる。痩せ我慢だ。だけど今痩せ我慢しないで、いつするんだ。
「あ、あのニギ、駄目ですよ」
心配したコノハが立ち上がって上着を脱ぎかけた所に、
「いいから!!」
と大声でそれを止める。かなり驚いたのか、びくんとからだが小さく跳ねる。そりゃあそうだろう、コノハからすれば意味が分からない。でもごめん、ぼくとしてはこれが精一杯なんだ。
立ち上がる直前の中途半端な姿勢のまま戸惑い固まってしまったコノハ。そして何かに気付く。
「……あれ、ポケットになんか入ってますけど、あの…………やっぱり返しま――」
「貰って」
「…………え? あの、その……」
じっとコノハの瞳を見つめ続けていた。コノハは戸惑いながらも、ポケットに入っているものを取り出した。
「え? これ……こんな、綺麗にラッピングして……誰かにあげるつもりだったんじゃ?」
「コノハにあげるために、作った」
言った途端に、かあっと顔が熱くなる。
「………………え?」
コノハの反応を確かめることなく、ぼくは逃げた。
♪
陽は疾うに落ちた。ぼくは暗い室内の布団の中に頭まで隠していた。
からだは温まって震えは治まったけれど、その代わりに自分に対する嫌悪感が全身を走っている。震えるコノハを前にして、何も出来なかった。散々お世話になり続けるコノハに対して、「ありがとう」のひと言も出て来なかった。情けない。
思えば、誰かに何かをあげるなんて初めての経験だったのだけれど。……そう言えば、おじいさんにも何もお返しを出来ていないんだな、ぼくは。お礼のひと言も言った憶えがない。
本当に、駄目だ。
がらっ。障子が開く音。女の気配。……コノハ!? ばっと布団を飛ばして顔を上げる。でもそこにいたのは、褐色の肌の勝気な瞳の女の子、サクラだった。片手には、ぼくがコノハに貸した上着を持っている。サクラはぼくを見て呆れ気味に、
「あーあ、ズボンが皺くちゃになっちゃうじゃないの、それに寝るにはちょっと早いわよ。せめて夕飯食べてからにしなさいよ」
上着をハンガーにかけて適当な所に吊るした。
「……コノハは?」
「……死ぬほど気持ち悪かったわ。あの後ずぅっとにやにや笑っていて、ときどき『ぶふっ』って含み笑いするわ、口数も無駄に多くなるわで、正視するのに耐えかねたわ。よ~っぽど嬉しかったのね。……そうそう、『ありがとうございます、とってもおいしかったです』だってさ」
「……礼を言われるようなこと、してない」
「知ったこっちゃないわよ。言いたいから言ったんじゃないの?」
「ぼくは何も言えてない」
「知ったこっちゃないわよ!! ぐじぐじぐじぐじいちいちいちいちめんどくさい!! 言いたかったら言えばいいし言いたくなけりゃ言わなきゃいいのよ、そんなもん!! 前に行ったけど別にアイツはあんたに礼を言って欲しくって助けたんじゃないんだから!!」
「でも――」
「ああああもう!!」
ひゅん、という空気を切り突き進む音。自分を目掛けて飛ばされた四本のナイフ。跳び起きて受け止める。
「って、何すんの!?」
怒鳴る。出し抜けにナイフを投げつけられたものだから、多少なりとも狼狽している。しかしサクラは苛立たしげにキッと目を尖らせて、
「死ぬほどめんどくさい!! あんたね、うじうじしてりゃ誰かが餌持ってやって来るとでも思ってんの!? ぴーぴー鳴いて口開けてるだけの小鳥じゃないのまったく!! 流石に甘え過ぎじゃないかしら!?」
「そんなんじゃ――」
「布団にこもってめそめそして、誰かが来たと思ったら跳ね起きて、何が違うのかしらね!? わたしだと気付いたら露骨に残念そうな顔しちゃってさ、コノハが来てくれるとでも思ったの? 残念でした、あいつは日長一日ぼーっとしてるあんたと違って忙しいのよ!!」
「うっ……」――気付かれていた。恥ずかしさに顔に熱がこもる。
「まったく」と言って大きな溜息をつく。「これが地上最強と謳われる『紫鬼』なんてね、呆れるわ。他のみんなはもっとしっかりしてんのに。なんであいつは……。まあ、いいわ。そんなアンタのプレゼントでも、コノハはしっかり喜んじゃってんだから、いいじゃない。別に変に難しく考えなくっても、さ」
「でも、あんなのじゃ、駄目だよ。あんなつまらないもんじゃ――」
殺気。――ぞっと背筋が凍りつく。俯けた顔を上げ、その張本人、サクラを見た。ナイフを両手に合わせて八本握り、冷たくどす黒い怒気をほとばしらせ、ぼくの眉間を穿つほどに凝視している。障子は開け放ったままで、月明かりをその背に受けたその姿は、凛とした表情と、ふりふりのスカートと妙に調和して、一種の神秘性さえ感じさせる。
「あんまりわたしを怒らせないでくれるかしら」可愛らしい声はそのままに、しかし活発な調子は完全に抜けている。「つまらないもの、ですって? ふざけないで。そのつまらないものに大袈裟なほど喜んじゃってるコノハは、……一体なんなの?」
八本のナイフを、同時に投擲。
ぼくは瞬時に先程投げつけられた四本のナイフのうち二本を拾い上げ、両手に持つ。ナイフを振ろうとした瞬間、左腕に激痛。ナイフを落とす。残った右腕だけで八本のナイフを防ぐが……予想以上に速い。銃の弾丸の比じゃない。その上距離も近い。一本が、ぼくの左肩に命中。
痛みを感じる暇もなく、サクラはナイフを取り出して接近、斬りつけ。右腕一本でそれを防ぐ。つばぜり合い。鉄同士が擦れ、紅の火花が散る。
――くっ!! 人間相手に後れを取るとは! こんなにもからだが鈍っているなんて!!
「ねえ……教えなさいよ。つまらないものを渡されて大喜びしちゃってるコノハは、あなたの目にはどんなに馬鹿げて見えているのでしょうね!!」
「そんなんじゃ!!」
サクラのナイフを飛ばす。すぐさま別の角度からナイフが飛んで来る。それの繰り返し。じりじりと下がりながらの防戦一方。
「何が違うってのよこの糞餓鬼がッ!! コノハは、つまらないものでも尻尾振って反応しちゃうような、そんなつまらなくて卑しいやつだって思ってんでしょう!?」
「ち、ちが――」
「違わないわ!! アンタが言いたいのはそういうことでしょう!? 馬鹿で、愚鈍で、凡愚で、世間知らずだって、せせら笑っているのでしょう!?」
「――ふざけるな!!」
かっと頭に血が上った。叫んだら、全身に力がみなぎった。向かって来るナイフを、避けずに受け止めて、前に出る。驚いたサクラが、一歩引き下がる。その瞬間に隙が出来る。ぼくはもう二歩前に出る。吐息のかかるほど、触れるほど近くまで接近し、――ナイフをサクラの首許に置いた。
「それ以上言ったら、たとえ冗談でも、斬る」
ぼくは肩で息をしていた。不思議なくらい疲れていた。ぼくとサクラの視線が絡まる。サクラの瞳は、柘榴石のように赤茶で、複雑に光り輝いていた。しばらく見つめ合っていると……サクラは根負けしたように、はたまた呆れたように目を瞑り、やれやれと肩をすくめ首を振って大きく溜息をついた。
「ふん、いっちょ前に怒れるじゃない。出来ればいつもそれくらいすっきりして欲しいものね」
と言って、首許のナイフを我関せずというように、ごく普通に振り返り、縁側へと出た。
「あんたはもっと自信を持ちなさいな。少なくとも、コノハには必要とされているわ。理由も何も知ったこっちゃないけどね。……他人に必要とされている。それだけでどんだけ幸せか、あんたにだって分かるでしょう? それなのに……まためんどくさいこと言ったら、殺されてでもやり続けるから、覚悟なさい」
ぴしゃり、と障子を閉め、とたとたと軽い音を立てて去って行った。
……ぼくはと言えば、半ば放心状態。ぺたんと畳の上にへたり込む。なんだか無性に疲れた、とにかく疲れた。大きく嘆息。
なんなんだよ、ここは、本当に。説教好きで勝手な人ばかりじゃないか。それにもっとまともなやり方もあるだろうに、もう嫌だ、時期が来れば、すぐにでも出て行ってやる。
ただ……どういうことだろう。自分の手の平をじっと見ると、力が少しずつ戻ってきているのが分かる。ちょっとだけだけれど、すっきりした感じがある。
同時に、今まで悩んでいたのが馬鹿らしくなる。で、恥ずかしくなる。赤い顔を隠すために布団を頭からかぶる。誰に見られているわけじゃないのに。
――少しでもいいから、前に進めたらいいな。
布団の中で目を瞑ると完全な闇。
遠く梟の不遜な鳴き声だけが、夜の澄んだ空の中に響いていた。




