神田悠華という者は
神田悠華は、私立橙ノ木高校付属細江中学校に於いて所謂、才媛という立場を与えられている。
彼女の通う中学校は言わばエレベーター式の進学校で、卒業すれば本校に進学するタイプの女子中学校であった。とはいっても裕福な市民層出身が通うお嬢様学校なのだが。
中でも彼女は勤勉で成績は良好。日本全国での試験ではトップに先立っている。体育の授業に於いても身体能力は凄まじく、バレーボール、バスケット、テニス、ハンドボール、弓道・アーチェリー、卓球、バドミントン、ダンス―ありとあらゆるスポーツを全てを熟している、そんな超人的な体力の持ち主である。
品行方正で優秀で真面目。
また容貌も中学二年生にしては綺麗でまさに才色兼備といったところだ。
そうは言っても、あくまでも他人が流した噂でしかなく。お淑やかな少女でも嫋やかな少女でもなく、寧ろ思春期特有の気の強い活発な少女だったりするのだ。
休み時間となると次の授業に必要な教科書や参考文献やノートを取り出してさっさと勉強に臨む。移動教室や体育となると一番目に来ていることだってあったりする。
休み時間などでは慕われている先輩後輩を含んで昼食をしたり、同級生の勉強の予習復習に応じることもある。まさに絵に描いたような優等生で、教師からもその将来を期待されている。
しかし彼女を慕う人物がいても友達と呼べるような存在はほとんどいない。
一部を除いて。
優秀だというイメージ像が強いためか、近づきにくい雰囲気や壁が構築されてしまっているのだろう。彼女がそうしているわけでもないのに、自然と造りあがってしまったわけである。
コミュニティを形成しているようでそうでもない。
だからといって暗部で彼女を蔑んでいたり貶めたり疎んでいる女子学生がいるわけではなく、迫害されていたり苛めを受けるような醜悪な事態もない。ブッダや孔子や聖徳太子のような人格者揃いではないだろうが、学内では不当な暴力や苛めなどは一切起こっておらず、表面上では仲良く円満である。
――非現実的
そうとも言っていいほどの完成に近い美少女がまさか非現実に遭うとはまさか誰も自身も思ってなかっただろう。
がちゃり、と部屋のドアを開ける音が奥から聞こえた。
「ただいまー」
「おかえりー」
少女の帰宅を告げる声に、部屋にいたもう一人の少女が返事をした。
「はぁ~あ。今日も今日で沢山の先輩後輩に囲まれて緊張しっぱなしだったわよ。こうも囲まれているとそれだけでストレスになっちゃうっていうのに」
「仕方ないよ。才媛の悠華は全国トップに立てるくらいの優等生だもん。それくらい当然のことじゃない、我慢我慢だよ」
「私の体は一つなんだから引っ張りだこにしなくていいじゃない。あーあ、いないかなー私の分身。ドッペルゲンガーでもいいからさ私の代わりに同級生に教えてほしいものよねー」
「それ絶対悠華が消滅しちゃってるからね。間違ってでも遭ってはいけないものだから。それくらい努力と才能で何とかしてね」
「私はこの頃思うことがあるのよ。ドラえもんの秘密道具が手に入るとすれば、暗記パンを手に入れてみんなに配り渡したいわ。非常に効率的でいいじゃない」
「細江中学校の生徒にそのパンを渡せばいいってもんじゃないでしょ。大体、暗記パンがあったとしたら世界規模で全てのパンの需要が一気に増えちゃうからね。そうなったらオイルショックならぬトーストショックだよ。うまいこと言ったつもりじゃないけど」
そんな会話が続きながらも少女はスクールシューズを脱ぎ、学生カバンを重たそうに持って向かう。
この部屋は中学校の校舎内に建設されている学生寮である。中学校の全学生の三割ほどがこの学生寮に住んでおり、家具は一通りそろっていて、間取りも十二畳と余裕のある広さになっている。
寮費や共益費は安くないものの食費は朝夕二食で土日祝も提供しているので評判の高い学生寮だったりする。
しかし寮でのルールは厳しく、六時には起床して決められた時間に夕食を摂って浴場に入浴しなければならない。門限もあって、午後九時までに帰寮しなければ寒い外に締め出されることだってあり得る光景である。
なお、この部屋は十階もある学生寮のうち八階の隅っこにある。
セキュリティも万全でオートロックでカードキーが寮生に配布されているようだ。
「あ~あ、づがれだ~!」
おっさん臭い声を上げ、制服の所々に皺を寄せながらもベッドに身を任せる。
「悠華、仮にも全国トップクラスの優等生なんだからもうちょっとしゃきっとしてよね。あと、脚がだらしなく開いているからスカートの中見えちゃってるよ。ピンクの雲海がこちらを覗いてるし」
「下着見たぐらいで減るもんじゃないでしょ。下着見せられて別に損することもないし、私が何の下着履いたって個人の自由だっての」
「悠華はバカなの痴女なの? 女性としての観念とか嗜みとかが減っちゃうでしょ!? 損するのは悠華のイメージ像が壊れることよ! もう少し、いや少しじゃない! 大分、人格矯正が必要ね!」
まぁまぁ、と制する悠華は身を起こし、制服をハンガーにかけてワイシャツとスカートを一気に脱ぎ始めた。
上にはもう1枚シャツが身についているが、間もなく剥ぐように脱ぐ。
あとはもう女子特有の下着姿だけが残っていた。
そういえば遅れてしまったようだが、ルームメイトとして悠華とシェアしている女子中学生は、伊崎奏美という名の女子である。悠華と同級生で同じ部屋で別のクラスだがほとんど一緒。
時々特別授業や昼食などで合流することもあるが夕方に寮に戻るまで会えないことのほうが多い。
性格は落ちている雰囲気ではあるが時には怒って相手を黙らせる激情の持ち主でもある。成績は悠華よりかは優秀というわけでもないが、悠華「よりかは」なので平均的に高い方向である。
しかし悠華は「勉強しなくても理解できる」のに比べて奏美は勉強しなければ成績は悪くなるので日頃は予習復習に勤しんでいる。
部活はややスポーツに特化したオールラウンダーな悠華に対して、奏美は吹奏楽部や合唱部といった文化系の部活動に参加している。
悠華はなぜか文化系の部活には入部していないので奏美の得意分野となっていた。
「奏美、私の洗濯物を畳んでくれた? それとブルーレイレコーダーに早朝放送していた特撮映画ちゃんと録画してる?」
「はいはい。悠華の下着も畳んでるし、頼んでおいた怪獣映画の『キングコング対ゴジラ』もちゃんとHDDで録画しているからすぐに視聴できるよ」
ちなみにブルーレイレコーダーの置かれている棚の中には東宝と大映の怪獣映画を何本か録画したディスクが収められている。奏美が時に涙を流す恋愛映画のディスクも何枚か収められてはいるが、圧倒的に悠華の趣味の特撮映画が多い。
「やったー! これでレンタル屋に行くことなく自宅で視聴できるー!」
「人の趣味にとやかく介入するつもりはないけどさ、年頃の女子が特撮映画好き、それも古い映画を見るのは変というか有りえない状況だよ。昭和時代の人じゃないんだから」
「別にどうでもいいってー。私は全然に気にしていないし。人の趣味は人それぞれで十人十色とは言うし、全世界の人口で言えば五十億人五十億色くらいはあると思うけどな」
今のところ五十億ではなく七十億くらい突破しているが。
だとしても、と言おうとする奏美ではあるが途中で言い出すのをやめた。
若干、悠華の言っている事の方が正しいと思ったからである。
天才であろうが才媛であろうが、そんなものは他人から押し付けられた理想が顕現されたものでしかない。
だから悠華が特撮映画を見ていようが個人の勝手であり、周囲の同級生から「御機嫌よう」と挨拶されて、漫画のお嬢様みたいな優雅な生活をしているのではないのだ。
中学に進学した時、奏美が初めて悠華とルームメイトになった時は心底驚いたものだった。
部屋では下着姿または全裸でいたり、特撮映画を見たり、服を脱ぎ散らかしたり、参考書じゃなくて漫画を読む事が多いなど色々と衝撃的だった。
まさか天才と呼ばれる少女の実態がだらしないとは夢に思わず、しばらくは動悸や息切れが続いていた時期があったりする。
けれど克服はできた、というかもう慣れてしまった。
生活は改める点があるだろうが、全ての少女がカタログを見たり、ショッピングモールに行ったり、コイバナをしたりするわけじゃないのだ。
勝手な憶測で人を固定観念で縛り、崩壊された時には勝手に失望する。それは人が他人に対してやってはいけない行為であると奏美は思うのだ。
とはいうもののやはり悠華も女子なので最低限の嗜みくらいは守っている。
カタログも見るしショッピングもに行く。
ただコイバナだけはしたことはない。気になる男子など一人もいないし、今までいなかったとは本人談である。
「さぁーてっと軽く見てから浴場に行くとしましょ」
「先にお風呂入りなさいよ。汗臭いのは嫌だからね!」
ピッ、とテレビの電源に音が一瞬鳴り、映像に一人のアナウンサーが映った。
「昨日未明――近くの川で――」
内容は悠華たちが住んでいる学生寮から十キロにも満たない範囲で、謎の殺人事件が起こっているというものだった。遺体は内臓を掻き出されて、バラバラにされていて顔もメチャクチャで誰なのか特定できず、猛獣の仕業の類ではないかと見解されているが未だにわかっていないらしい。
それと現場には遺体とは違う謎の血液が散乱しているという情報もある。
「最近、ここも物騒になっちゃったね。怖いからこれからは用心しないといけないね。でもここは学校内だから外に出なければいいし、セキュリティも万全だから大丈夫よね」
「…………」
無口で頷く悠華。
気分が青ざめてしまったのか、さっさと服を着て学生寮の浴場に行くことにした。