残された可能性
八月に入った。
基地の憂鬱な空気は夏の青空に吸い込まれずに、肌に絡まって、べとつく湿気のごとくまとわりついている。
敗戦の二文字を誰もが実感していた。
頻繁に米軍の爆撃機が本土に現れるからだ。
我が物顔で、国土を蹂躙するのを防ぐ手立てのない事実に沖津たちは苛立っていた。
しかし、苛立っても何の解決にもならない。
軍上層部は特別攻撃隊への依存度を高めていた。
それは戦闘機の残り数が少ないこと。
戦闘機一機で戦果を上げる方法が特攻しかないこと。
これらの理由からだ。
沖津の周りの航空兵たちは特攻で次々と散っていった。
だが、沖津には特攻命令はくだらなかった。
それは沖津が公爵家の出身だということを考慮しているからなのだろう。
八月に入って数日後、浅葱に特攻命令が下った。
沖縄付近に出没している『グラトニーファング』を倒すために友軍機五機と共に飛び立つ予定だという。
命令が下った夜。
沖津は愛機の整備をしていた。滑走路に出しても良いという許可をとって、夜空を眺めながら。
あれだけたくさんあった戦闘機の数は、もう数えるほどしかない。
隙間のなかった格納庫はがらがらだ。
時に騒いで、時に喧嘩している兵士たちの姿も日に日に少なくなっていった。
鈴虫の鳴き声がやけに大きく聞こえるのは、そのせいかもしれない。
訓練で汚れてしまった装甲に手を当てる。
耳をすませば、鼓動が大きくなっているのが分かる。どんな言葉をかければいいのか、彼は未だにわからない。
自分は自分で、決して自分以外の他人ではない。
彼らの気持ちを推し量ることは出来るけれど、それ以上のことは出来ない。
それは分かっているつもりだった。
左手に握っているスパナを放り投げて、沖津は寝転んだ。
いつか、遠くない将来、この戦争は終わるだろう。その時、自分は何をしているだろうか。
その時まで生きていられるだろうか。
その時にはどんな顔をしているだろうか。
生きることは決して簡単ではない。そんなことを考えながら、夜空を眺める。
「やっぱりここにいたんですね」
少年の声は少し低くなっていた。
顔には翳りが見えたけれど、声はいつも通りだ。きっと、堪えているのだろう。沖津はそう思った。
「風邪を引くぞ」
「風邪を引けるほど長い人生は残されていません。大丈夫です」
目の前の少年は成長した。最初は頼りなくて、優しくて。そんなところが美点だった少年だった。彼は少しずつ少しずつ大人になっていった。
強羅に鍛えられたのかもしれない。彼自身が努力したからでもあるだろう。
彼は色んな意味で強くなった。
「……明日、か」
「はい」
沈黙が降り立つ。舞い降りた静寂な時間は長く続いた。
一筋の流星が空を走る。
「沖津少尉」
「なんだ?」
「これを届けてください」
浅葱はズボンのポケットから一枚の封筒を出した。綺麗な字で、相手の名前と宛先がつづられている。
「分かった。必ず届ける」
沖津は書かれた名前を見てから、それを両手でそっと受け取った。
かける言葉は結局見つからない。
「あれから、結構考えたんです」
浅葱は大きく息を吸い込んだ。
「何故、僕は戦うのだろう、と。以前、沖津少尉が考えていた問いです」
息を吐いて、澄み切った目を空に向ける。彼は覚悟を決めている、と沖津は思った。
「僕はもう親もいません。兄弟もいません。故郷にだけは待ち人がいます。でも、僕は軍人だから、もう今、そこに帰ることは出来ません」
沖津は黙って、耳を傾けた。
「僕に出来るのは、可能性を残すことだけです。僕が行くことで今生きている人を少しでも守れるかもしれない。戦局を好転させることが出来るかもしれない。可能性と呼ぶにはあまりに頼りないかもしれないですけど。それでも、賭けてみたいんです。それしか、選べないから」
沖津は彼が喋り終えてから、頷いた。
「僕は賭けてみたいんです。沖津少尉が『グラトニーファング』を打ち破ることに。そして、この国を守ることに」
「お前も分かっているんだろう? もし、仮に私が彼を打ち破れたとしても、わが国は負けるということを」
「とんでもないことを仰るんですね、沖津少尉は。上官に聞かれたら軍法会議ものですよ?」
「事実さ。誰でも感じているだろう。きっと浅葱も」
「たとえ感じているとしても、僕はそれを否定しなければなりません。僕は負けるために、行くのではないのですから」
「すまない。悪かった」
浅葱からすれば、これしか選べない。彼は『グラトニーファング』とは戦えない。
だから、彼は考えた。沖津が『グラトニーファング』を倒すための布石になろうと考えた。
「すみません。明日早いのでそろそろ休みます」
一礼して、浅葱は沖津に背を向けた。
こんにちは、jokerです。
そろそろ春ですね。この話もそろそろ終盤です。多分。
描写、文章その他諸々不足している点しか見当たりませんが、最後まで書きますので、よろしくお願いします。