箱根の山
何度も家の戸締まりを確認した。窓の鍵もガスも電気も、全て大丈夫なのを確かめると僕は家の外へ出た。空にはうっすら雲がかかっており雨が降り出しそうだった。
僕は玄関の鍵を閉めたあと、右をポケットに入れてある車の鍵を握りしめた。
父も母も今家にはいない。今日しか実行のチャンスはないのだ。だから一刻も早く車を出さなければならなかった。
ドアの鍵を開け運転席に乗り込む。運転のしかたはまだ思い出せていないが、そのうち思い出すだろう。今までの経験からそう思うことができた。それに思い出せなくても今から思い出せばいいのだ。免許証はあるので即逮捕にはならない。
キーを回してエンジンを掛けた。たぶんこれで合っているはずだ。左のレバーを倒しドライブに変えた。オートマチックなのでこのままアクセルを踏めば進む。
ゆっくりとアクセルを踏み込むと少し前に進んだ。
そうだ! この感じだ! これならいける。
徐々に思い出してきたのでとりあえず箱根の方角を考えることにした。おそらく高速道路を使うのが一番早いだろう。しかしそれでも一時間ほどはかかる。
国道に出ると緊張感は一気に増した。車の台数が多いのだ。もしかしたらぶつけてしまうかもしれない、と思いながら走らせた。
高速道路に入る時、手持ちのお金が少ないことに気付いた。帰りは一般道を走るしかない。そう言えばさっきから雨が降っている。
箱根で高速を降りてしばらく走ると、山の方へと続く道と、町へ入っていく道に別れていた。
直感的に山の方を選んだ。僕は山で事故に遭ったのだ。手がかりがあるとすればそっちだろう。
箱根に行くと決めてから特にプランは立てなかった。僕の中には漠然とした箱根が在ってそこに行けば何かわかると思っていた。しかし箱根は広いのだ。そう簡単に見つかるわけもなかった。
夕暮れが近い。
適当に山を走っていても時間の感覚は狂うことなく存在した。それに窓から嫌でも外の景色が見えて時間を意識してしまう。
僕があのことを思い出したのは、そんな夕暮れの頃だった。
車を走らせていると一カ所だけ新しめのガードレイルがあることに気がついた。直感的に自分の事故現場だと理解した。ここから落ちたのなら充分死ねるだろう。
そんなことを思いながら車を降りた。道幅はそれほど狭くないし車の通りも少ないのでここに停めても平気だろう。
そこは緩やかなカーブだった。山の斜面に接しており右側を見上げると山があり、左に崖がある。僕はミヒロをこんな所で死なせてしまったのだろうか。よく見るとレイルが新しいところに花が置いてある。種類はよくわからないが小さな綺麗な花だった。
レイルに手を置き下を眺めてみた。下までは三十メートル程あり、自分が助かったことが不思議だった。
ふと、視界に白いものが入ってきた。
あれは何だ? 三十メートルも下に白い何かが見える。
ミヒロ!
僕は思わず地面を蹴って車に乗り込みエンジンを掛けようとした。
かからない。
それなら、走ればいい。どこか近くに階段か緩い斜面があるはずだ。
ないなら――、落ちればいい。
道を数メートル進んだところに階段を見つけた。さっきの場所からでは木の陰になって見えづらかったのだ。僕は急いで駆け下りた。またミヒロに会えるかもしれない。
階段を下りると、もうミヒロの姿はなかった。代わりに男が立っていた。黒いスーツに黒いハット、おまけに靴もネクタイも黒かった。このまま葬式に出ても差し支えはないだろう。俺は全てを思い出した。
「アンタか」
「お前さんか」
やっと会えた。そうだ。こいつが。
「元気だったか」
「アンタに言われる筋合いはない。アンタがミヒロを殺したのに」
「あれは悪かったと思っている。仕方なかったんだ。許しを請おうとは思わない」
「アンタがいきなり飛び出してこなけりゃ、こんなことにはならなかったのに! アンタは何者なんだ!? 今度は俺を殺しにでも来たのか」
「そうかもな。一つ忠告してやる。これからお前は組織に狙われる。具体的に名前を挙げることは出来ないが」
「意味がわからない」「黙って聞け!」
「俺はそこに所属している。お前を殺せと言われている。しかし、私はお前をも殺すにしのびない。だから……」男は懐から拳銃を取り出した。
「これで私を撃て。弾は五発残っている。どこでも好きなところを撃て。その代わり、一発だけ撃ったらすぐにここを去れ。見張りがいる。たぶん奴らは警察に通報するだろう。そしたら検問に引っ掛かる可能性が出てくる。見つかったらどうなるか、わかるよな? だから二度とこの辺りを彷徨くな。あの女のことは忘れろ。それだけだ」
俺は拳銃を受け取った。
なぜ、という気持ちより殺したいという願望が上回った。殺したい。
「忘れていた。これを渡しておく。私の連絡先だ。何かあったら」
パーン、と軽い音が鳴った。火薬の匂いがした。
俺は一目散に走り出した。車の所へ。何かおかしい。俺の人生こんなではなかったはずだ。何であの日、この道を通ったのだろうか。
良く晴れた日だった。
俺は慣れない車を運転しながら箱根までやってきていた。
助手席にミヒロ。最愛の恋人だった。性格も見た目も自分には申し訳ないくらい良くできた人だった。そして何より、俺を褒めてくれる唯一の人間だった。
俺は幼い頃からあまり褒められるような人ではなかった。中学からの奇行も相まって高校では暗い性格で通っていた。それとは逆にミヒロは性格も明るいし容姿もいいので人を良く集める、ある意味でアイドル的な人物だった。
そんな二人が出会うのはいつも図書館だった。
ミヒロから聞いた話によると俺のことは前から知っていたらしい。だからアプローチを掛けたんだそうだ。たぶん俺の腐った性格などは知らなかったのだろう。知っていたとしてもそれに何か他の意味でも感じていたのだろう。
理由はどうあれ、そんな彼女と出会い恋に落ちることが出来たのは恐らくこちらにとっては奇跡だったのだろう。
あの日の待ち合わせも図書館だった。僕は張り切って少し早めに着いたがそれよりさらに三十分も早く彼女は着いていた。
箱根に向かう道は二人でじゃれ合った。俺は運転があったが危険とも思わずじゃれ合っていた。それ自体は危険でも何でもなかった。
しばらく車を走らせた後、峠を越えるために山に入る道を進んだ。そしていくらか進みあのカーブへと差し掛かった。
制限速度を少し超えて走っていたが特に危険という認識はなかったし、トラブルさえなければ危険な道ではなかった。
左側の山から何か黒いものが移動してきた。スピードはなかったが車の車線に乗ったので避けようとした。
山の道は狭い。少しハンドルを切っただけでもガードレイルに当たりそうになるのに人を避けるのなんて出来るはずもなかった。ましてやドライバーは俺の様な新米だ。
真っ逆さまに谷底へ落ちた。落ちる前に確かに俺は見た。黒いスーツを着た中年の男を。ずっと忘れない。
一生懸命、潰れかけた車から這い出たとき彼女がまだ車内にいることに気づき、車内に戻った。一緒にケータイも助け出したかったが落下の衝撃で砕け散っていたので諦めた。
彼女はまだ息絶えてはいなかった。出血も酷かったが声は出せた。それを担ぎ車から這い出た。
街までどのくらい距離があるのか全くわからなかったが、数キロは歩いたと思う。その頃にはもう彼女は声を出す気力も失ってしまっていた。
彼女を担ぎ山の中を必死で歩いた。なぜかその辺りには道がなくて、家もなくて、同じ景色だけが続いていた。
ついに彼女が下ろしてと言いだした。終わりを予感したのだ。
俺は彼女を下ろし適当な木にもたれさせた。
ああ、なぜこんなことになってしまったのだろう。
俺が彼女と出逢わなければこんなことにはならなかった。箱根に行こうとしなければこんなことにはならなかった。俺があと少し、数分でも早く家を出ていればこうはならなかったのに。
理解不能な後悔が押し寄せてきて再び彼女を担ごうとした。
――降ろして。もう良いの。
そう聞こえたのは俺の空耳だったのだろうか。彼女の薄い声は現実の物とは思えないほど衰弱していた。もしかしたら心に話しかけてくれていたのかもしれない。
俺は彼女の意に反して歩き出した。
そこからは意識がもうろうとして歩くことだけを考えていた。
俺が助かったことを考えるとたぶん、何処かで人に出会って救助されたのだろう。
なくした記憶はこれだけだ。
道路に上がる階段を走っていた。右手には銃が握られている。手すりを掴むために左手に持ち替えた。
男の名刺にはスギヤマ、と書かれていた。それ以外は読めなかった。読む必要はなかった。もう過去の清算は済んだのだ。後は俺が平和に暮らしさえすればそれでおしまい。もう何も起こらない。
そのためには、この銃を処分しなければならない。
車が見えてきた。急いでエンジンを掛け発進させる。
検問がないことを祈るだけだった。もしあれば人生終わりだ。このまま豚箱行きで前科者の仲間入り。誰も口を聞いてくれなくなって……。
いや、もともと口を聞いてくれるような人間は周りにいない。両親も友人もいないのと変わりない。アキやサトルだって本当は俺なんかと関わりたくはないのだろう。
俺は一人なのだ。何も恐れるものはない。
そう思った瞬間後悔がこみ上げてきた。あの男を、スギヤマを殺しておけばよかった。どうせ終わったような人生なのだ。
あと四発残っている。
県境で検問に引っ掛かってしまった俺はベルトに差した拳銃に目をやりながら残弾を確認した。
スギヤマが言うにはそれだけ残っているはずだった。もちろん彼が嘘を言っていることも考えられるし本当に四発とは限らないのだが、目の前に警察がいる今、マガジンを取り出して数えることなど出来はしない。
窓をコンコンと叩かれた。警官は二人、一人に二発ずつ使える。一人目は不意打ちで一撃だろう。頭だって狙える。二人目はそうはいかない。逃げられるか、応援を呼ばれる。そうなったら最後、この日本には住めない。
銃を隠して逃げようかと思ったが恐らく無理だろう。あちらもそういうことは想定しているはずだ。
俺は車の窓を開け怪訝そうに「何ですか?」と言った。
警官の内、下っ端に見える方が「ここら辺で発砲事件があったみたいで、ちょっと車の中見せてくれませんか?」と言った。
「良いですけど」
そう言って俺はドアを開け外に出た。外には中年のちょっと偉そうな警官もいた。
「じゃあちょっと車調べますんで、質問に答えてください」
中年は俺に質問しようとしてきて、下っ端の方が車の中を物色し始めた。生憎、銃は俺の腰にあるので何も問題はないが、中年が俺自体を検査し始めるのは時間の問題だろう。それまでにどちらか一人を殺さなければならない。
初めは若い方を殺そうと思ったが、車に血がつくのは避けたいので、中年に決めた。
「名前は?」
「ミシマ……ケンゴ、です」
「三島さんね。こんな時間に何してたの?」
「ちょっと買い物を」
「ふうん。家は? 近いの?」
「そうですね。この山超えて五分ってとこです」
「ふうん。歳は?」
と言った具合に矢継ぎ早に質問をされた。もちろん答えは全て嘘であるがそれっぽく答えた。
チャンスは唐突に巡ってくるものである。
中年が話している途中にパトカーの無線機がなった。これはチャンスだと思った。
これで一人目を始末出来る。あと一人は車から引きはがすか、どうにかすればいいのだ。
中年がパトカーに向かったときに銃を取り出し頭めがけて引き金を引いた。
乾いた音が鳴り中年の頭から血が噴き出した。次に取りかからないといけない。
俺は車に戻りあっけにとられている下っ端を引きはがした。警察とは言っても所詮は人間なわけで、毅然さをなくしてしまえばただの一般人と変わらない。この下っ端は恐らく上司が殺されたことが信じられないのだろう。
たかが検問でまさか死者が出るなんて想像すら出来なかったはずだ。ましてやそれは自分の上司。指示を仰ぐことすら出来なくなった下っ端に何が出来ようか。
今度は頭はやめて、腹を撃ってみた。
警官の制服が赤く染まると思ったが、もともと濃い色の制服な為、対して赤くない、どちらかというと黒に近いような色に染まっていった。残弾数は二だ。
下っ端は俯せに倒れたがそれでもなお動きたいらしく、右手で腹を押さえながら左手で地を這っていた。
しかし彼らは幸福だ。ミヒロは苦しんだ末、息絶えたのに彼らは一瞬で死ねるのだから。だが、それは俺の裁量にゆだねられている。俺が殺したいと思えばこのままとどめを差すし、そう思わなければ救急車を呼んで助けを求めることも出来る。
今、まさに今、俺は命を掴んでいるのだ。俺一人の力では掴みきれなかったミヒロの命と同等の命を。
なぜか頬が緩んでくる。こんなに軽い命なのに、なぜ俺はミヒロを救えなかったのだろうか。俺にその気がなかったのだろうか。心の底では彼女を殺そうとしていたのではないか。
自分が恐ろしくなって、不意に引き金を引いてしまった。近くを這っていた下っ端の右足に当たった。下っ端は金切り声を上げた。そろそろ殺しておいた方がいいだろう。
死に際は静かな方が良いと思う。それは自分でも周りの人間でも、今出逢ったばかりの人間でも同じだ。
俺が引き金を引けばこの警官は殺せるが銃声がうるさい。首を絞めてやるのが良いだろう。
近づいて首に手をやった。激しく振り払われる。
どうして静かに死のうと思わないのか不思議だった。俺に身を委ねれば楽に死ねるのに。
腹が立ったので早く終わらせることにした。それに首を絞めると俺にも血がついて、困る。
銃口をゆっくりと下っ端の頭部に向けて、充分に狙いが定まったところで引き金を引いた。
ありがとうございました。