サンドウィッチ・ストーリー
実家に僕の部屋が残っていて本当に良かったと思う。なぜなら家族と顔を合わす必要がないからだ。
一日経っても何も症状が出なかったので無事に退院することができた。病室はあまり好きではないのでさっさと退院できて嬉しい。本当に。
僕はうちに帰るまでにあの図書館に寄ろうと考えていた。病院からうちまではバスで帰るがそれを少し乗り過ごせば図書館なのだ。運が良ければミヒロを見つけられるかもしれない。本当は歩いて行きたかったがまた事故に遭うのは面倒なのでやめた。考え事がしたいのだ。
そもそも僕はあまり一つのことにこだわる人間ではない。人一人について考えすぎて事故を起こすような人間ではないのだ。あそこまで考え込んでしまうのには昔の、失った記憶が関係しているのだろうか。
バスの窓から図書館が見えてきた。すかさず『降ります』のボタンを押す。乗客は僕と運転手の真後ろに座っているお婆さんだけだった。
バスが止まり僕は降りた。お婆さんは降りなかった。たぶん図書館より向こう側に用事があるんだろう。確か一つ先が駅で、その次が終点だった気がする。その辺りはうろ覚えだが、その事から思考を遠ざけて図書館の方を向いた。前にもバスで来たことがあったような気がした。
いつの事だ? 僕にはその事を思い出すための手がかりがあるはずだ。何か……昔の話を思い出さなくてはいけない。
僕はバス停で止まったまま、数分間、もしかしたら数十分間図書館を見つめていた。しかしそんなことをして思い出せるはずもない。とりあえず中に入ることにした。
中にはいると昨日の司書が気の毒そうに話しかけてきた。
「この先で事故に遭われたんですよね。もう大丈夫なんですか?」
これだから田舎は嫌いなのだ。どうでもいいことでもすぐに伝わる。他人にまで知られているのだから知人――この町にはほとんどいないが――が知らないわけがない。
「ちょっとかすっただけですよ」
と言って僕はそそくさ立ち去った。
行き着いた先は文庫本の棚だった。そこで前回読んだのとは別の本を手に取った。別にどんな本でも良かった。ただ考え事をしたいだけなのだ。
何かを思い出すことは酷く唐突に訪れる。人によってそれは寝る前かもしれないしトイレに入ったときかもしれない。僕にとってはそれが見知らぬ本を手に取った時だった。あるいは、それは見知らぬ本ではなかったのかもしれないし、かつてその位置にあった本が僕に何らかの作用をもたらしただけかもしれなかった。とにかく僕は思い出した。
ここに来たのは彼女と、ミヒロと出会ったときだ。間違いない。ただそれがどうというわけではないが。
当時高校生だった僕は夏休みの課題を終わらせるため図書館を利用しようと決めた。家にいると家族と顔を合わせるし、なるべく離れていた方が楽なのだ。それは今も変わらない。
でも思ったように勉強ははかどらなくて、いつもこの棚の前の机で伏せて寝ていた。
たまに何か本を読もうとしてフロアを彷徨いたけど、やっぱりめんどくさくなってあの机に戻っていた。
彼女と出会ったのはそんな日が三日ほど続いていた頃だった。
僕は昼食もとらずに図書館に居たのであまり時計を見ることがなかった。もうその辺りからやる気のなさがにじみ出ているが、とにかく時計を見ることがなかった。
その日も昼を跨いで寝ていた。たぶんそれが彼女の目には可哀想に見えたのだろう。僕が気付くことはなかったが、彼女は朝から図書館にいて僕を観察していたらしかった。
そしてお昼を過ぎた頃、僕を起こしてこう言った。
「お昼どうしたの? 無いなら私のあげよっか?」
僕は腹が減っていたわけでもないから断ろうと思ったが、寝起きに見た彼女があまりに魅力的だったため思わず頷いてしまった。この時からミヒロは可愛かった。つまり昨日見たのは本物だ。たぶん。
それから話はとんとん拍子に進んでいって……そこからは思い出せないが、恐らく昨日アキが言った通りになったのだろう。そしてミヒロは死んで今に至る。
僕は一通り思考が済んだので帰ろうと思ったがまだ時刻は十一時、帰るには少し早いような気がした。お昼まで待っても罰は当たるまい。それに家に帰れば家族と顔を合わすことになる。父はたぶんいないと思うが母は確実にいる。
僕は昔の様に机に伏せて羊を数えた。そう言えば、いつから僕は本を読みながら考え事をするようになったのだろう。前は寝てたのに。
そうしているうちに徐々に睡魔が襲ってきて、そして眠りに落ちた。
「お昼どうしたの? 無いなら私のあげよっか?」
僕の耳元でささやく声がした。聞き覚えの無い声なのにどこか懐かしくて、このまま伏せて聞き続けていたかった。しかし、意志に反して僕はその上体をすばやく起こす。
そして頷いた。
僕に声を掛けた人には、視覚的にはとらえられないもやもやが掛かっていて視線を向けることができなかった。なので仕方なくその足下を見る形となった。
「じゃあついてきて」
声の主は僕の手を握って図書館から出た。右手か左手かわからないが、握れられた方の手は手汗で湿っていた。
いくらか歩いて、見覚えのある公園へやってきた。小学校の頃は公園で遊ぶのも楽しかったなあ、と思った。
「座って」と言われて僕は座る。
気がつくと公園のベンチまで誘導されていた。ふと思ったのだが、図書館でいつも寝ていた高校の頃の僕はさぞ邪魔だったことだろう。
僕の手にサンドウィッチが手渡された。僕は受け取る気が無かったが、自然に手は動いて受け取っていた。
「私が作ったのよ。おいしそうでしょう?」
最近おかしな事ばかり起こるが今回は特別だと思う。だって、さっきから体が自由に動かない。辛うじて眼球だけは自由だがそれ以外は全く制御できない。誰か別の人に体の支配権を渡してしまったかのようだ。もちろん今までに渡した事はない。
僕はそのサンドウィッチを食べる。
「おいしい」とは言いたくないが口は動く。
そもそも味なんてしない。この子には悪いが才能無いと思う。逆に味をなくす選手権なんてものがあれば優勝できそうだけど。
「名前なんて言うの?」と訊かれた。
お前なんかに教えてやるものか。
「タツヤ」と僕は答える。
「お前は?」と訊く。
「ミヒロ」と答える。
僕は知ってる。ただ認めたくないだけ。死んだんだ。ミヒロは。その記憶と一緒に。だから僕を困らせないで欲しい。
「はじめまして」
二人はそう言って笑い合った。たぶんあれは僕じゃない誰かだ。そして僕には彼らがどうなったって関係ない。
そうしてだんだんとミヒロの顔が近づいてくる。たぶん僕はこのもやもやの先を何度も見ていたのだろう。覚えてはいないがそれくらいは想像できる。
顔と顔の感覚が二十センチほどに縮まってきた。頼む、これ以上はやめてくれ。あんたは死んだんだ。もう何も思い出したくない。
「お客さんって言おうか? いや、なんか違うな。利用者さんって言おうか? なんか余所余所しいか……。よし、お兄さんにしよう。お兄さん! 寝るんならホテルとか他ん所でお願いしますよ。うちは図書館ですから!」
肩を揺すられ起こされた。もう少し前から起きていたから、彼の葛藤は聞こえていたが聞かなかったことにした。
「すいません」と言って、あたかも今目覚めたかのように振る舞った。
このように相手の思い通りに動いてやるのは人間関係を円滑にするのに必要だ。
僕はそのまま立ち上がり図書館を去った。
たぶん僕の深層心理はミヒロの死を肯定しているのだと思う。そして、それを思い出したくないのだろう。しかし……。
心の深い場所だけが全てではない。僕はミヒロについて何でもいいから知りたい。それには何か手がかりが必要だ。僕の休日も残り少ない。今のうちに動き出すべきだろう。
空は夕暮れだった。今日はもう何もできないだろう。素直に家に帰って寝るのが一番だ。
帰りは徒歩にした。バスを待つのは面倒だしいつになるかわからない。一時間後かもしれない。
家に帰ると母がいると思ったが書き置きがしてあり、今夜は帰らないと書いてあった。まあ大方、父以外の男とでも会っているのだろう。もうこんな事には慣れた。
僕は部屋に帰るとミヒロについて考えた。この二日間、そのことしか考えていないような気がする。
まず情報を整理してみよう。
僕とミヒロは昔付き合っていて箱根で事故にあった。原因は不明。僕の過失かもしれない。
サトルはミヒロが好きで、僕を恨んでいる。アキはやたらと焦っている。僕は――。
僕は本当に、ミヒロについて知りたいのだろうか。確かに自分だけ何も知らないのは気持ちが悪いし腹立たしい。しかし、それを知ったところで何になる? 知るための手段は有るのか? 今、この問題を無かったことにして明日を迎えて、さらに時間が経てばいつかはこんなこと忘れるだろう。逆に知ってしまって何か困ることがあるかもしれない。
それに昼間見た夢。あの中で僕はミヒロとの関わりを拒んだ。あれはそうすべきということではなかったのか。
何も知らない方が幸せなのではないか。全て忘れて眠った方が、正解なのかもしれない。その証拠に僕には当てがない。何かを調べようにも僕には友達がいない。サトルからは嫌われている。アキの情報はほぼ得た。僕にできるのは自分で思い出すことだけなのだ。だがそれもできそうにない。あの図書館以外に何か無いものか。
駄目だ。あまり考えすぎては。
僕は気分転換にベランダに出た。空が綺麗だった。夕日は良いものだ。それを見るだけで一日の終わりを感じ取ることができる。それに比べて夜空は駄目だ。終わり何だか始まり何だかわからない。曖昧なものは嫌いだ。
夕飯の支度をしなければならない。
僕はその事を思い出してリビングに降りた。今日は誰もいないはずなので憂鬱ではなかった。
夕飯は卵かけご飯を食べることにした。簡単だし栄養価も高い。それに洗い物が少なくて済むのも最高だ。
茶碗にご飯をよそい、生卵を冷蔵庫から取り出した。そして、卵を茶碗に叩き付けた。
卵の割れる気持ちのいい音がして、中から生卵が出てきた。それをご飯の上に乗せ、卵の殻を捨ててからリビングのテーブルに置いた。
箸を持とうとして気づいた。手がニュルニュルしている。僕はティッシュを探したがどうやら切れているようだ。仕方なくタンスの中からティッシュを探すことにした。うちではそこがティッシュの収納場所だった。
しかしどこを探してもそれが見つかることは無かった。
そして最後の棚になる。そこは僕も見るのが初めての引き出しだった。絶対にそこに無いことはわかっていたが仕方なく開けることにした。
そこに在ったのは僕の減点された免許証だった。間違いない。僕の写真が貼ってある。
それを見つけたとき僕は決めた。思えば一番最初になぜそれを思いつかなかったのか不思議だった。
「それからあなたたちは箱根まで車で旅行に出た。その年の盆過ぎだったわ。そこで事故に遭った。あなたたちが発見されたときには二人とも血だらけでミヒロの方は意識がなかった」と、アキは言った。
箱根へ行くことが全てを知るための、一番の近道だったのだ。
ありがとうございました