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検体D  作者: あれっくす
プロローグ
2/5

置いてきた幸せ

 道路の上でうつぶせで、寝ころんでいた。視線は僕にぶつかってきた軽自動車の方を向いているが、左頬はまだアスファルトに接していた。顎の辺りがまだひりひりと痛い。

「警察と救急車は呼んだから。もう少しの辛抱だよ」と聞こえた。中年の男の声だった。

 どうやら軽自動車の主は僕を起こす気はないらしい。僕は起きようと思えば起きられたが、腹が立っていたのでうつぶせのまま救急車を待った。この際全面的に僕が悪いと言うことは考慮しないでおこう。

 程なくしてけたたましいサイレンと共に救急車がやってきた。もし僕が重病人ならトドメを刺されかねないような音量だった。幸い重病人ではないし怪我もたいしたことないので死ぬことはなかった。

 救急隊員に担がれ担架に乗せられた。生まれて初めて乗る救急車に、まさか自分が怪我をして乗るとは思いもしなかった。普通初めては、親や祖父、祖母の死に際に乗るものだと思う。生憎、両親よりも上の世代で生存者はいないため二十一の歳まで乗る機会がなかったわけなのだが。

 車に乗せられる前の最後の光景は、軽自動車の主であろう男性が警察と話し合っている場面だった。おそらく僕の怪我は数日で治るかそもそも治療が必要な怪我ではないため、彼が引かれる点数は二点だろう。

 しかし、なぜ僕に免許証の点数計算が出来たのだろうか。僕はまだ普通免許を所得していなかった。


 僕はもともと実家に帰ってきても友人に会うつもりはなかった。だから久しぶりの再会を懐かしむ言葉も用意していなかったし、ましてや見舞いに来てくれる友人にかける言葉なんて用意できているはずもなかった。

 救急車に乗せられた僕はまず簡単な診察を受けた。しかしその頃にはもう事故にあったのが嘘のように回復――もともとたいした怪我ではないが――していたため大げさな治療を施されるようなことはなかった。

 病院に着いてからも特に大きな治療をされるということはなかったが、脳への影響が懸念されるため一時入院する事となった。入院は病院の策略かと推測してみたが、田舎の病院の需要は凄まじい。だから、そんな策略を練るような余裕は無いように思えた。現に僕が誘導された六人部屋のベッドの周りは老人たちで埋まっており、たいそう繁盛している様子が窺える。恐らくあと数年もすれば葬式屋が繁盛することだろう。


 いの一番に見舞いに来たのは母だった。最近はほとんど口を聞くことがなかったので、やはり今日もほぼ無言で着替えを届けてくれた。こんな状態になってから何年も経つが一向に変わる気配がない。

 僕を実家に呼んだのも母ではなく父だった。七月の半ば、僕の携帯電話の液晶に、およそ二年半ぶりに父の名前が浮かんだのだ。初めは誰かわからなかったが、通話ボタンを押す頃にやっと父とわかった。受話器の声は僕が電話に出るなり確認もせず「今年の盆は家に帰ってこい」と告げた。しかしそれは純粋な気持ちからではなく、単純に母の相手を務めさせるためだったのだ、と今さら思う。

 父も母も家ではお互いに無関心といった感じで、僕が家にいた頃から二人が仲良く話をしている様子は見られなかった。事務的な会話は見られたがそれも家庭を存続させるための最小限のみで、やはり積極的ではなかった。

 僕と両親間の会話もいつからかはわからないがほとんどなく、父から連絡を受けるまで家庭は精神的に崩壊したものと思っていた。もちろん戸籍的にはちゃんと親子だし学費も出して貰っているから少しは親子なのかもしれないが、僕にはそれがぼんやりとした物に見えて家庭という実感はなかった。


 母が帰ると同時に来たのは、サトルとアキだった。なぜ二人同時に来るんだ、と疑問に思ったが、アキはこの辺りで就職して実家暮らしのはずだし、サトルは両親との仲が良かったから当然のように思えた。申し合わせて二人で来てくれた方が対応が楽でいい。今、長い会話はしたくない。

「よくそんなんで今まで生きてこられたな」とサトルは言った。

 僕は「久しぶりだな」とか「大丈夫か?」を期待していたため拍子抜けしてしまったが、定型文でない分、応答は楽だった。久しぶりとかだと、そのあとの会話について気を揉まなければならず面倒だからだ。

「ちょっとサトル、何言ってんのよ。タツヤ、大丈夫だった?」

「ああ、うん。全然平気。明日には退院出来そう」

「そう……よかった。私、心配してたの。タツヤも死んじゃうんじゃないかって」

 僕も、とはどういう事だ。身内に不幸でも有ったんだろうか。

「何かあったの?」と僕は訊ねた。

 彼女は「いや、別に」と答えたあと近くにあったパイプ椅子を出してきてサトルと一緒に座った。目線が近くなるのでこの方が話しやすい。

「みんな今、何してるの? サトルは大学に進学したって聞いたけど、アキは仕事してるんだよね?」

「今はね。去年までは美容師の専門学校に通ってて、今は美容師してる。田舎だからそんなにお客さん多くはないんだけどね。でも楽しいよ。顔覚えてくれるお客さんとかいて、道であったら挨拶とかしてくれるんだ」

 ここで僕はミヒロのことを思い出した。なぜ最初に、サトルとアキが来てすぐ思い出さなかったんだろう。彼らに聞けばすぐにわかるというのに。

「そうなんだ。ところでミヒロって覚えてる?」

 と、僕が言った辺りでサトルの顔が険しくなった。もともと険しい顔ではあるが、何か不満を持っているような、そんな顔に変わった。アキの顔も少し暗くなり、僕は申し訳ない気分になった。しかし僕の好奇心は満たされないのでもう少し話をしてみることにした。

 彼らは絶対に何かを知っている。

「今日の朝、道で出会ったんだけどさ、声掛けられるまでわからなかったよ。高校時代どんなだったっけ?」

「いい加減にしろよ! お前、自分が何言ってんのか、わかってんのか? ふざけてるんなら訂正しろ! 今すぐにだ! 大体、お前がぼーっとしてなきゃミヒロは死なずに済んだのに。お前がミヒロを殺したんだよ。あの時も、お前一人助かって。何でお前なんだよ。お前さえいなきゃミヒロは……。やっぱりさ……お前が死ねば良かったん」「もういいでしょ!」

 部屋に平手打ちの音が響いた。正確には響いたわけではなく、周りを静まりかえらせただけでそれが響いたように聞こえさせた。隣のベッドとの間はカーテンで区切られているが、音声の観点から言えば仕切りなどほとんどないに等しい。だから僕の周りにいる五人の老人達はおそらくかなり驚いているだろう。僕だってそうやって驚いていたいが、残念ながら当事者に近いのでそうはいかない。何しろ発端は僕なのだから。

「先、帰るわ」と言ってサトルが去った。去っていく姿は予想していたより無様で、悲しげだった。アキの行動に圧倒されていた僕は別れの挨拶を言い損ねた。結局サトルとは会話できなかった。特に残念と言うほどでもないが、良かったとも言えなかった。何よりこの何とも言えない微妙な空気を残していってくれたのが少しだけ憎かった。空気だけ吸っていってくれたら良かったのに。

「ごめん、タツヤ。何のことだかわからなかったでしょう?」

「説明して欲しいな」僕は言った。

「どこから説明すればいいかわからないけど。タツヤが中学高校と、その……変わったことしてた時期は覚えてる?」

「ああ、なんとなくは。思い出したくないけどね」

「じゃあそれを辞めた時期は?」「いや、覚えてない。大体はわかるけど」

「じゃあそこからね。あなたはね、ミヒロと恋したの。確か高校二年の中頃よ。夏休みの事ね。あなたが詳しく話してくれなかったから私はあまり知らないけど、夏休みに何処かで出会って、それで付き合い始めたようね。

 それから一年経ってあなたは大学進学が決まり、ミヒロも専門学校進学が決まったわ。確か夏の初め頃だった。そしてあなたは夏休みを利用して旅行の資金を貯め始めたの。あと、車の免許を取りに行ったりもしたわね。私たちに内緒で」「ちょっと待って」僕は話を止めた。

 今の話が本当だと僕が車の免許を持っていることになる。記憶を無くしても物がなくなるはずはない。僕は免許を持っていないのだ。

「僕、免許持ってないよ」

「そうなの? まあでも最後まで話を聞いて」

 僕は頷いた。

「それからあなたたちは箱根まで車で旅行に出た。その年の盆過ぎだったわ。そこで事故に遭った。あなたたちが発見されたときには二人とも血だらけでミヒロの方は意識がなかった」

「発見って?」

「山で事故にあったの。近くの道のガードレールが壊れてて、それを見つけた人が通報したんだって。でもあなたが乗ってた車はまだ見つかってない。ガードレールの下は崖だったんだけど下にはなかったそうよ。草の上に何か重い物が乗っていた痕跡はあったみたいなんだけど。変な話でしょう。それでミヒロは死んでてあなたは生き残って話は終わり。あなたが退院したときにはもう事件の記憶は残っていなかった。だからみんな、あなたが事件を思い出さないようにそっとしておいたの」

「ごめん。それじゃあ、僕がミヒロを殺したって意味がわからないんだけど。僕の記憶はないのに過失って思われてるの? それにサトルってあんなに怒りっぽかったっけ? 最後に会ったときはもっと静かだった気がするんだけど。あと中学時代はもっと賑やかだったし」

「それは……サトルがミヒロのこと好きだったからよ。たぶん今も。この前、寝言でミヒロのこと呼んでた。そのあと訊いたらまだ好きって」

「寝言?」と、僕は訊ねた。いつ寝言を聞くような機会があったのだろうか。

「そうよ。寝言」

 そこでアキは何かを思い出したような顔つきになった。嫌なことであったのかもしれない。

「私たち結婚することにしたの。報告が遅れてごめんね。本当は今日一番に言おうと思ったんだけど」

「あ、おめでとう。でもそれおかしくない? サトルはミヒロの事が好きなんじゃないの?」

 アキは静かに頷いた。

「もう私たち二十一なの。大人なの。昔の事にこだわってはいられないの。こんな田舎にいたらいつまで経っても結婚なんか出来ないわ。だからサトルに決めたの。向こうも承諾してくれたわ」

 一瞬、父と母の様子がフラッシュバックした。

「でもそれっておかしいよ。サトルだってまだまだ遊べる年頃だし大学だって卒業してない。アキだって今から都会の美容室にだって就職できるし転職だって何だって出来る。何だって今から人生を固めようとするのさ」

 僕が正しいとは思わない。しかし僕にはサトルとアキが上手くいくようには見えなかった。サトルはミヒロの事を忘れられなくて、アキは妥協して、そんな結婚しなくちゃいけないのか。

「あなたの気分ではまだ若いのかもしれない。でもね。人生の四分の一はもう終わってるの。ミヒロは事故で死んだ。短い命だった。あと三十年もすれば、ミヒロだけじゃなくて私たちも当たり前の様に死んじゃうの。事故とかじゃなくて、そうあるべき死に方で」

 そうあるべき死に方で。

 僕は周りを見渡してみた。今まで老人とばかり思っていたベッドの住人は、確かに五十代くらいの人も多いように思えた。

 しかし……どうしてこんな場所でこんな発言するのだろうか。

「でもまだ三十年ある」「いいえ」

 今日の僕は圧倒されっぱなしだった。元来気の強い方ではないが、ここまで無力になることが有るだろうか。

「あなたはわかってないわ。一瞬なの。人生が終わるのなんて。あなたならこの気持ちわかると思ってた。二度も死にかけたあなたなら」

「二度目はそうでもないよ」

 僕にも皮肉を言う余裕くらいある。それにこのまま圧倒されっぱなしはどうもおもしろくなかった。

「まあいいわ。私はもう帰ることにする。お大事に」

 そう言ってアキはさっさと帰ってしまった。やれやれだ。

 アキが帰った途端、急に笑いがこみ上げてきて、我慢できずに声を上げて笑ってしまった。

 ミヒロはもう死んでいて僕は記憶喪失。挙げ句、今までそれに気付いていなくて、なくした記憶は高三の夏のもの。笑うしかない。

 おまけにサトルとアキが婚約していて、二人して僕に説教たれてきた。あの平手打ちも実は演技かもしれない。

 それにアキは僕のことを若いと言ったが、向こうの方が充分若い。僕には焦って婚約を決めるエネルギーもないし、怒って人を平手打ちする憤怒もない。そんな気力があったら僕は昼間から図書館には行かないし、盆に帰省したりなんかしない。

 しかし、今朝見たミヒロは誰だったんだろう。全くの別人がそう名乗ったから脳が錯覚したのかもしれない。自分の大事な人や記憶を簡単に忘れてしまう脳なのだ。そうであっても不思議ではない。

 記憶なんて曖昧なものだ。自分は記憶していると思いこんでいるだけで、事実は全く別の所に有るのかもしれない。さっき会ったサトルとアキだって本物かどうかわからない。医者が僕を検査している最中に記憶を改ざんして適当な看護師――看護師は患者の前で死んだなんて単語は使わないと思うが――を送り込んだのかもしれないし、もっと別の誰かがもっと昔に僕の脳をいじくり回したのかもしれない。

 結局本当の事なんて何もわからないのだ。

 でも、ミヒロとドライブしていた過去の自分は幸せだったんだろうな。

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