道化と記憶と
一昨日から続いている大火災のニュースで朝のワイドショーは持ちきりだった。東京の郊外での山火事が原因らしいが、自宅が近いわけでも無く、親戚がその近くに居るわけでもないので我が家の食卓は整然としていた。そもそも、今家に居るのは帰省中の僕と暇を持て余した母親だけなので騒ぐなんてことはほとんどない。例えばこの近くで強盗事件が起こるようなことがあってもほぼ無反応なはずだ。あるいはこの家に強盗が乗り込んでくるようなことでもあれば……。
「ごちそうさま」
母は洗い物をしていたので聞こえはしないだろうと思ったが、わざと台所を向いて言ってみた。案の定返事はない。僕はいつもそうしているように簡単な支度だけをして家を出ようとした。図書館へ向かうのだ。
図書館を利用する習慣が付いたのは確か高校の頃だった気がする。よくは覚えていないが何か調べ物があって、それで利用したのが始まりだ。それ以来毎日のように通った。今でもこうして暇があると無意識的に向かっている。貧乏ゆすりをするような感覚に近いと思う。
「行ってきます」
別に返事を求めて言ったわけではない。ただ形式的に言っただけだ。溜め息を付くのと同じでこの動作にはほとんど意味がない。そうとわかっていても自然に発してしまうのはやはり溜め息と同じだった。
玄関を出て右側には両親の車があった。綺麗にワックスがけされていた。まだ三年しか経っていないのでほとんど型落ちした新品だ。正確な車種名はわからないがバンと言われる形だったと思う。
この車は不思議なもので気がついたら我が家のガレージに収まっていた。だから僕は購入の瞬間を知らない。なぜなら当時の僕はそんなことには全く興味がなかったからだ。
図書館へ向かう道は中学校の通学路とほぼ重なっている。大学に入って一人暮らしを始めてからは通ることが無くなっていたので、ここを通るのは三年ぶりだ。三年も経てば景色はかなり変わっているものだろうと思っていたが案外変化はなく、ほとんど人通りもなくて、思い出したくない過去を思い出すこととなった。
中学の頃、何に影響されたのかは覚えていないが、自分はヒーローだと信じ込んでいた。いつか世界を救う勇者に成れると本気で信じていた。自分には異能力が備わっていてピンチになったとき開花すると。
自分は怪しい男たちに追われていて、それをかく乱するために学校にいることにしていた。友達も最初は驚いた様な振りをしていてはやし立ててくれていた。しかしそんなバカな事は長くは続かず、次第に僕の周りから人は離れていった。教員から変な奴と思われ、親からも相手をされなくなった。
まともな人に戻りたかったが突然やめるのは不審な気がして、結局惰性で三年間続けてしまった。あの頃はバカだったなあ、と思う。
その頃の友達と言えば、最後まで僕に付き合ってくれていたサトルと昔から仲が良かったアキだけだった。その二人でさえ学校ではほとんど口をきかなかった。友達の呼ぶのは適当でなかったのかもしれない。
しかし、高校に入れば何かが変わると思っていた。周りは自分のことを知らない人間なのだから普通に戻れると思っていた。あの頃の浅はかな自分を呪いたい。
高校なんて中学の延長だ、と悟ったのは入学してすぐ、入学式の放課後だった。
クラスの名簿には見慣れた名前しか載っていなかった。半分は同じ中学校の生徒だった。公立高校に決めたのが失敗だった。入学式の間はそんなことを考えながら過ごしていた。
そして式が終わり、それぞれの教室に入り、軽い連絡があったあと放課になった。
たぶんどんな学校にもいるとは思うが、誰かを人前でからかうのが生き甲斐の人間がこの世には存在する。僕のいた学校ではタケダという男がそれだった。
放課になったあとすぐにタケダは教壇の前に躍り出て、
「おい、タツヤ! お前まだ組織に追われてんのか? 新たな能力はいつ使えるようになるんだ? ん?」
と叫んだ。
僕は死にたくなった。冗談や比喩ではなく本当に。あの日ほど自分の行いを恥じた日はなかった。
僕は真新しい鞄を抱えると脇目もふらず教室を出た。僕が廊下を歩いている間も教室からは笑い声が聞こえていた。
翌日学校へ行くと黒板に大きく『タツヤ氏ね』と書かれていた。おそらく前日の談話でそう言う流れになってしまったんだろうと思う。氏ねと書かなければいけない流れについては理解に苦しむが。
イジメの原因は本人にあるとよく言うが僕のは本当にそれで、極めて希なケースであったと思う。このように冷静に分析出来るのは、もうこの問題が解決されているからで、高校二年の時には僕をバカにする人間はほとんどいなくなっていた。だがそれに比例して僕はどんどん暗くなっていった。
イジメがあった時は常に明るく振る舞えていた。何をされても笑っていられたし、物理的な意味で孤独にはならなかった。僕の周りには嘲笑の為の輪ができていたし、行動の一つ一つを笑いの種にされた。
それはまるで道化のようだった。
それからあとの記憶はあまりない。人は忘れるように出来ているのだから機能的には正常だと思う。
中学校が見えてきた。図書館は中学校よりも少しだけ遠くにある。だから学校が見えてきたらもう到着するということだ。
この辺りは田舎なので人通りは少ない。知っている人間とすれ違えばすぐわかるのは長所だが、出会いたくない人間と鉢合わせになるのは短所だ。もう一つメリットをあげるとすればこっちが忘れている人間でも話しかけてくれることだろう。これで挨拶のし忘れが無くなる。
「タツヤ……だよね?」
後ろから声を掛けられた。
「すいません。誰ですか?」僕は振り返って顔を確認したあと答えた。そこには見るからに清楚な女性が立っていた。全く見覚えが無かったが好感の持てそうな女性だった。僕が企業の面接官だったら一発で採用だ。こういう喩えが出てくるのがいかにも就活を控えた学生っぽくて嫌になる。
「私のこと忘れたんだ」
一生懸命思い出そうとしたが皆目見当も付かない。高校の同級生か誰かだろうか。しかし高校では友人はほとんどできなかったはずだ。友人と言えばサトルとアキと――。
「ミヒロって言えば思い出すかな?」
そうだ、ミヒロだ。どうして忘れていたんだろう。そう思うと同時に例えようのない懐かしさが沸いてきた。
「あ! ミヒロだったんだ。全然変わってないね」
「嘘だ。気付かなかったくせに……」
少しすねたみたいだ。間近で見るととても可愛いと思う。
でも彼女は……、どういう人だった? 全然思い出せない。何か引っ掛かっているんだが。
「ミヒロも帰ってきてるんだね」
「お盆だからね」
すっかり忘れていた。今日はお盆だ。図書館は開いていないかもしれない。
「忘れてたよ。それより、ミヒロはどこ行くの? これから」「ちょっとお墓にね。タツヤは?」
「図書館に。用事は無いけど。暇つぶしにね」
ミヒロをお茶に誘おうと思ったがやめた。今あまり手持ちがないのだ。恐らく財布には五千円も入っていないだろう。お茶くらいなら千円でたりるが。
「よく図書館行ってたもんね。じゃあばいばい。またね」
「じゃ」
あっけなく別れてしまった。魅力的だっただけに少し残念だったがすぐに図書館へ向かう気になった。切り替えは早いほうなのだ。
図書館に居たのは数人の受付と司書だけだった。客は全くいないので暇をしていたに違いない。心の中でご苦労様と言いながら、無言で目当ての棚まで向かった。
文庫本の棚は正面入り口から向かって右手にある。昔はほとんど毎日と言っていいくらい通っていたので、そこはしっかりと覚えている。しかしそこにあったのは古ぼけた百科事典の棚だった。
もしかしたら記憶違いをしていると思い、その周辺を探してみたが文庫本の棚が見つかることはなかった。
このままでは時間を無駄にしてしまうと思い――もちろんただの暇つぶしだが――司書に位置を聞いてみた。受付に聞いても良かったが、やはりこういうことは司書に聞くのが一番だと思った。
「奥に移動になったんです」
そう言って司書の彼は僕を奥に案内してくれた。
僕が案内された場所はかつて百科事典がおかれていた場所だった。初めてここを訪れた時の情景が思い出された。どこにどの事典が置かれていたかまではっきりわかる。しかし情景が思い出されても何を調べていたかまでは思い出せなかった。
その時僕は何か違和感があることに気付いた。
「少なくなってません?」
僕がそう言うと司書は丁寧に答えてくれた。
「もう少ししたらここ、つぶれるんです。それで隣町の大きい図書館と合併するんで、ダブっていない本は向こうに移しました。ここにあるのはダブりだけなんです」
それを聞いて少しわびしい気持ちになった。
景色だけを見て昔とは変わっていないと思っていたが、もっと内側から本質的にこの町は変わりつつある。この図書館の片隅ではそんな変化がひっそりと芽吹いていた。
そうは言っても僕が読む本などマニアックなものでは無いので、ダブりの中からでも簡単に見つけ出すことができた。
司書に礼を言って帰らせた後、数分ほど本を読んですぐに考え事を始めた。他のことをしながら考え事をするのは僕の癖だ。いつから付いたのかはわからないが今ではそれが普通になっていて、時々僕を困らせる。バイト中や人と会っているときにこれが起こると大変なのだ。この前なんかはレジのバーコード読み取りを十回も連続してやっていた。おかげで会計が恐ろしいことになっていてお客さんに白い目で見られた。
その点、読書中は安全なのでよろしい。特にこれと言って被害は出さないで済むし、何より見かけも整合性がとれている。本を読みながらうんうん唸る様はやはり見ていて趣深いし、違和感を感じることは全くない。
そんな考え方も相まって、今日の考え事はスムーズに終わりを告げようとしていた。
そして最後の主題に移行する。
ミヒロ。
彼女はどんな性格だっただろうか。どんな声だっただろうか。どんな見た目だっただろうか。
さっき出会ったミヒロはとても魅力的で素敵な女性だった。しかし僕の記憶にはそんな人間と関わったような出来事はない。それについて何度も何度も考えてみた。もしかしたら、向こうがこちらを一方的に見ていただけかもしれない。直接関わった事はないが間接的には関わっていたかもしれない。
しかしどんな仮説を立てようにもしっくり来る回答は得られなかった。それにはミヒロの名を聞いたときの、デジャブにも似た懐かしさが影響しているように思われた。
僕は心の赴くままに、本を机に置いたまま図書館を出た。外に出れば何か思い出せるような気がした。
だがそんなことをしても考え事が頭を離れるはずもなく、解決するわけでもなかった。
ただ一つ、何か変わった事があるとすれば、僕の体が宙を舞って、固いアスファルトに打ち付けられるという非日常への扉が開かれた事だけだった。
つまり僕は今、死の危機に瀕しているということだ。
ありがとうございました。