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ドラフトの日 〜無名の投手が名前を呼ばれるのを待つ一日を、母とスカウトと幼なじみが、それぞれ見ていた〜

作者: ペイン
掲載日:2026/10/23

① 母の視線


 十月二十三日。朝から、雨だった。


 遠野美佐子は、台所で味噌汁の火を止めて、時計を見た。午前六時。息子の颯太(そうた)は、もう家にいない。


 いつもの時間に、いつものように走りに出ていった。今日がどんな日でも、あの子はたぶん走る。


 ドラフト会議は、夕方の五時から。


 美佐子は、テレビの横に置いた写真立てを見た。小学二年生の颯太が、ぶかぶかのグローブをはめて笑っている。その隣に、夫が写っている。野球のルールも知らない人だった。グローブも、近所のおさがりだった。


 夫は、颯太が三年生のときに、病気で死んだ。見つかったときには、もう手おくれだった。


 それからの九年、美佐子は朝はスーパーで、夜は弁当屋で働いた。野球の道具は高い。スパイクは、すぐに小さくなる。遠征の費用。合宿の費用。


 一度だけ、颯太が言ったことがある。中学二年の冬だった。


「母さん。俺、野球やめようか」


 台所で、美佐子は皿を落としそうになった。


「なんで」


「金、かかるし」


 そう言った息子の顔を、美佐子は今でも覚えている。くちびるをかんで、目をそらしていた。本当は、やめたくないくせに。


「あんたがやめたら、母さんが働く意味がなくなるでしょ」


 そう言って、美佐子は背中を叩いた。颯太は、何も言わずに、外へ走りにいった。


 あれから、あの子は一度も「やめる」と言わなかった。


 玄関のドアが開いた。雨にぬれた颯太が、息を切らして立っていた。


「ただいま」


「おかえり。タオル」


 美佐子は、タオルを投げた。颯太はそれを受け取って、頭をごしごしふいた。


 背が、いつのまにか、夫より高くなっていた。


「……今日だね」


「うん」


「呼ばれなくても、母さんは平気だからね」


 颯太は、タオルの下から、ちらりと美佐子を見た。


「きっと呼ばれる」


 そう言って、颯太は風呂場へ消えた。


 美佐子は、閉まったドアを、しばらく見つめていた。


 それから、冷蔵庫を開けた。ひき肉と、玉ねぎ。昨日の帰りに、買っておいた。


 ハンバーグ。颯太が小さいころから、いちばん好きなもの。試合に勝った日も、負けた日も、美佐子はこれを焼いてきた。夏の決勝で負けた夜も、颯太は黙って二つ食べた。


 呼ばれても、呼ばれなくても、今夜はハンバーグにしよう。


 美佐子は、玉ねぎを刻み始めた。


 試合のたびに、美佐子はスタンドから、あの子を見てきた。


 勝ったか、負けたかは、あまり覚えていない。覚えているのは、あの子の顔だ。


 九回のマウンドで、肩で息をしている顔。汗が目に入っても、ぬぐうひまもなく投げている顔。夏の決勝で、サヨナラを打たれて、マウンドにひざをついたときの顔。


 苦しそうなあの子を見るのが、美佐子は、ずっとこわかった。


 スタンドで、隣のお父さんたちが「球速、何キロ出た?」と話している。美佐子は、一度も聞いたことがない。


 あの子が、プロになりたいなら、なってほしい。そのために、ずっと働いてきた。今日、名前が呼ばれたら、美佐子はきっと、誰よりも大きな声を出す。


 でも、それと同じくらい、こわい。


 プロになったら、あの子は、もっと苦しい顔で投げるんだろう。テレビの向こうで、何万人に見られながら。


 だから、いちばんの願いは、ひとつだけだ。


 どっちになっても、元気でいてくれれば、それでいい。


 今日が終わったら、あの子が、また笑ってくれればいい。


② スカウトの視線


 柏木誠一は、七十二歳だった。


 球団のスカウトになって、四十六年。白髪頭に、いつも同じ茶色の帽子。球場のスタンドでは「帽子のじいさん」と呼ばれている。今年のドラフトが、最後になる。


 朝、球団事務所の会議室で、スカウト部長が言った。


「柏木さん、最後の年です。誰か、推したい選手はいますか」


 会議室には、十人のスカウトがいた。みんな、柏木の孫くらいの年だ。机の上には、候補の選手のリストが並んでいる。甲子園で活躍した投手。大学の四番打者。社会人のエース。どの名前にも、赤い丸がついている。


 柏木は、リストの一番下を指でなぞった。


 赤い丸のない名前が、ひとつだけあった。


「県立北高の、遠野颯太」


 会議室が、少しざわついた。


「県大会の決勝で負けた投手ですよね。最後にサヨナラ打たれた」


「球速は、百四十二キロ。全国では、ふつうの数字です」


「甲子園にも出ていない」


 柏木は、うなずいた。全部、そのとおりだ。


「サヨナラを打たれたあと、あいつが何をしたか、見た人はいますか」


 誰も、答えなかった。


「マウンドにひざをついて、十秒だけ下を向いていた。それから立ち上がって、ベンチに戻る前に、打った相手の打者のところへ行った。何をしたと思いますか」


 柏木は、目を閉じた。あの夏の、焼けるようなグラウンドが浮かんだ。


「あいつは、相手に聞いたんですよ。『今の球、どこが甘かった?』って。泣きながら」


 会議室が、静かになった。


「四十六年、いろんな選手を見てきました。球が速い選手はたくさんいる。でも、負けたその場で、自分を打った相手に、頭を下げて聞ける十八歳は、ほとんどいない」


 柏木は、目を開けた。


「いい選手は、球を見ればわかる。伸びる選手は、負けたあとの顔を見ないとわからない」


 スカウト部長は、しばらく黙っていた。それから、リストに目を落としたまま言った。


「……育成の、最後のほうで。もしかしたら、というくらいですよ。約束はできません」


 柏木は、何も言わずに、頭を下げた。


 育成枠。支配下の選手ではない。背番号は三けた。給料も、ずっと安い。三年で結果が出なければ、終わり。


 それでも、プロの入り口だ。もし、そこまで枠が残っていれば。


 柏木は、手帳を開いた。遠野颯太のページは、三年分ある。一年の春の、まだ細かった体。二年の秋に、初めて百四十キロを出した日。そして、三年の夏の決勝。


 負けた次の日、柏木はもう一度、北高のグラウンドに行った。引退した三年生は、誰もいないはずだった。


 ひとりだけ、いた。


 遠野颯太が、雨のマウンドで、黙って投げこんでいた。


 会議が終わったあと、柏木は、ひとりで窓の外を見た。雨が、ガラスをつたっていた。


 遠野颯太が、プロで通用するかどうかは、わからない。四十六年やっても、それだけはわからない。


 ただ、柏木は、あの夏の、泣きながら頭を下げた顔を、もう一度見たかった。


 今度は、プロのマウンドで。


③ 幼なじみの視線


 白石真白(しらいしましろ)は、北高の野球部のマネージャーだった。


 颯太とは、家が三軒となりだ。幼稚園から、ずっと同じ。


 小学生のころ、颯太は、真白の家の塀に向かって、毎日ボールを投げていた。真白の部屋の窓の、すぐ下だった。


 ばしん。ばしん。ばしん。


 うるさいと文句を言いに出ていったのが、最初だった気がする。


「颯太、うるさい」


「ごめん。父さんと約束したんだ。毎日、投げるって」


 颯太のお父さんが病気で亡くなったのは、その半年前だった。野球のルールも知らない人だった、と真白は聞いている。病院のベッドで、「なんでもいいから、毎日続けてみろ。続けたら、きっと何かになる」と言ったらしい。颯太は、それを野球にした。


 真白は、それ以上、何も言えなくなって、部屋に戻った。ばしん、という音は、それから毎日、窓の下から聞こえてきた。


 それから九年。中学でも、高校でも、颯太は投げつづけた。真白は、高校で、野球部のマネージャーになった。


 正直に言うと、まじめな気持ちばかりじゃなかった。


 二年の秋に、颯太が百四十キロを出して、スカウトが見に来るようになった。そのころから、真白は、ちょっと浮かれていた。


 プロになったら、すごいな。


 テレビに出る颯太を見て、クラスの子に「あれ、私の幼なじみ」って言えたら、すごいな。サインを、一番にもらえたりして。



 家が三軒となりなのに、高校に入ってから、二人で一緒に帰ったことは、ほとんどない。颯太は、いつも最後までグラウンドに残っていたから。


 今年、一緒に帰ったのは、一回だけだ。


 夏の大会の、決勝で負けた日。


 バスを降りてから家までの十分、颯太は一言もしゃべらなかった。真白も、何も言えなかった。夕焼けの道に、二人分の影が長くのびていた。


 家の前で、颯太はやっと、ぽつりと言った。


「真白。俺、明日も投げるわ」


 引退したのに、と言いかけて、やめた。


「……うん」


 次の日の朝、颯太は、もうグラウンドにいた。誰もいないマウンドで、ひとりで投げていた。真白は、フェンスの外から、それを見ていた。


 ドラフトの日の放課後。


 颯太は、部室でひとりで見る、と言っていたらしい。おばさんから聞いた。家で、お母さんの前では見たくないんだと思う。


 真白は、帰らなかった。誰もいない教室で、スマホでドラフトの中継を開いた。


 画面の中で、一位指名の名前が、次々と呼ばれていった。


 二位。三位。四位。


 颯太の名前は、呼ばれない。


 教室の窓から、グラウンドの向こうの部室が見えた。小さな窓に、明かりがひとつ、ついていた。雨は、いつのまにかやんでいた。


 七位。八位。


 支配下の指名が、終わった。


「……育成の指名、始まります」


 アナウンサーの声がした。


 颯太の名前が呼ばれるところを、真白は何度も想像した。部室のドアを開けて、おめでとうって言う。颯太が、照れくさそうに笑う。


 そうなったら、すごいな。


 真白は、スマホをにぎったまま、画面と、部室の明かりを、かわりばんこに見ていた。


④ 俺の視線


 なんのために、野球をしているんだろう。


 最近、そんなことを考えるようになった。


 誰かに頼まれたわけじゃない。父さんは、野球のルールも知らなかった。病院のベッドで「なんでもいいから、毎日続けてみろ」と言っただけだ。それを野球にしたのは、俺だ。父さんはもういない。約束を守っているのか、やめるのが怖いだけなのか、自分でも分からなくなっていた。


 楽しいか、と聞かれたら。


 正直に言うと、そうでもない。


 小学生のころは、楽しかった。ボールが塀に当たる音が、気持ちよかった。今は、ちがう。投げるたびに、球速を気にする。誰かの目を気にする。負けたら、終わりだと思う。


 なんのために?


 その答えを、今日、ドラフトが出してくれる気がしていた。


 呼ばれたら、そのために野球をしてきたんだと思える。


   *


 ドラフトは、部室で、ひとりで見ることにした。母さんの前では、見たくなかった。


 せまい部室だ。壁ぞいに、さびたロッカーが並んでいる。すみには、バットの入ったかごと、ボールのケース。真ん中に、パイプいすがひとつ。


 俺は、パイプいすに座って、スマホの画面を見ていた。


 育成一位。育成二位。育成三位。


 知らない名前が、呼ばれていく。


「――以上で、本年度のドラフト会議を終了いたします」


 画面の中で、アナウンサーが頭を下げて、中継が終わった。


 部室が、しんとした。ロッカーの上の時計の音だけが、聞こえた。


 呼ばれなかった。


 そう思ったとたん、足もとの床が、なくなった気がした。


 ――俺、ここからどうなれるんだろう。


 来年。三年後。十年後。どんなに考えても、何も浮かばなかった。今まで、俺の前にはいつもマウンドがあった。次の試合があった。次の練習があった。


 その先が、真っ白だった。


 怖い、と思った。


 生まれて初めて、本気で、怖いと思った。


 手の中で、スマホがふるえた。監督からだった。


「遠野か。……残念だったな」


「はい」


「でもな、前に言ったとおり、大学なら推薦で入れる。向こうの監督とも話はついてる。四年で、もう一回プロを目指せばいい」


 胸の奥が、ぎゅっとなった。


 ――やりたくない。


 猛烈に、そう思った。


 また四年、誰かの目を気にして、球速を気にして、負けたら終わりだと思いながら投げる。なんのためかも分からないまま。


 それだけは、いやだった。


「監督。その話、断らせていただいてもいいですか」


「……え?」


 電話の向こうで、監督が、間のぬけた声を出した。


「野球を、やめるのか」


「分かりません」


 正直に、言った。


「なんのために投げてるのか、分からなくなりました。分からないまま、四年は投げられません。一回、全部やめて、考えたいです」


 長い沈黙があった。


 怒られると思った。せっかく取ってきてくれた推薦だ。監督が頭を下げて回ったことも、知っている。


「……そうか」


 監督の声は、思っていたより、ずっとやわらかかった。


「三年間、よく投げたな。休め、遠野。ちゃんと休んで、それでもまた投げたくなったら、そのときは俺に電話しろ」


 電話を切って、パイプいすの背にもたれた。天井の蛍光灯が、ちかちかしていた。


 何も、考えられなかった。


 こん、こん。


 部室のドアを、たたく音がした。


 ドアを開けると、真白が立っていた。制服のまま、通学かばんを肩にかけていた。


「真白。……お前も、学校に残ってたのか」


 壁の時計は、十九時をすぎていた。


「うん。……なんとなく」


 真白は、部室に入ってきて、ボールのケースの上に座った。パイプいすは、ひとつしかない。


 しばらく、二人とも、何も言わなかった。


「……大学の推薦、断った」


 真白は、少しだけ目を見開いた。それから、「そっか」とだけ言った。


 また、しばらく黙っていた。真白は、ひざの上で、指をいじっていた。


 真白は、ロッカーのほうを向いたまま言った。


「颯太が投げてるの、見てるのが好きだった。ばしん、っていう音も」


「だから、颯太が投げなくなっても、見てる」


 俺はその日、初めて、真白の前で泣いた。


   *


 部室の鍵をしめて、二人で校門まで歩いた。


 門の明かりの下に、人が立っていた。


 茶色の帽子。白髪頭。雨にぬれたコート。


 プロのスカウトの、柏木さんだった。


 一年の春から、どの試合にも来ていた、帽子のじいさん。試合のあと、何度か声をかけられたことがある。「ひじの使い方がいいな」「よく走ってるな」。いつも、ひとことだけだった。


「遠野くん」


 柏木さんは、帽子を取って、深く頭を下げた。


「すまん。俺の力が、足りなかった」


 顔を上げて、まっすぐ俺を見た。


「最後まで、お前を推した。だめだった」


 しわだらけの手が、俺の手を包んだ。かさかさで、あたたかかった。


「でもな」


「俺は見ていたぞ。お前の活躍を」


 一年の春の、ぼろぼろだった試合も。二年の秋の、初めての完封も。夏の決勝の、サヨナラも。


「負けた次の日の、雨の朝もな」


 柏木さんは、帽子をかぶり直して、ゆっくり夜の道を歩いていった。


 となりで、真白が、鼻をすすった。


   *


 家に帰ると、母さんがハンバーグを焼いていた。


 いつもと同じ味だった。俺は、黙って二つ食べた。夏の決勝の夜と、同じように。


 母さんは、何も聞かなかった。


「おかわり、あるよ」


 それだけ言って、少しだけ笑った。


   *


 春になった。


 俺は、地元の大学の、ふつうの学生になった。


 野球は、やっていない。グローブは、押し入れの奥にしまった。


 一限から、ちゃんと授業に出る。学食で、二百八十円のカレーを食べる。夕方は、駅前の本屋でバイトをする。給料の半分は、家に入れている。


 朝は、目覚ましをかけなくても、六時に目が覚める。今も、走りに出る。誰かに見せるためじゃない。走らないと、一日が始まらない気がするからだ。


 なんのために野球をしていたのか、答えはまだ出ていない。ただ、毎日続けることだけは、やめていない。


 なんでその大学にしたの、と母さんに聞かれたとき、「近いから」と答えた。


 母さんは、それ以上、何も聞かなかった。


 帰りの電車で、となりに真白が座っていた。


「颯太、最近、何してるの」


「授業と、バイトと、朝のランニング」


「楽しい?」


「……うん。わりと」


 真白は、ふうん、と言って、窓の外を見た。夕焼けが、川の上に広がっていた。河川敷のグラウンドで、子どもたちがキャッチボールをしていた。


 俺は、窓の外ではなく、となりを見ていた。


(了)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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 連載中の『臆病者はいらない』も、よろしくお願いします。

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