婚約破棄された私を甘やかす騎士様は、これでも「ただの親切」だと言い張る
「テレーゼ、君との婚約は破棄する。君と結婚したところで、楽しい家庭にはなりそうもない」
フロリアン様は、私の伯母が開いた夜会でそうおっしゃった。右腕には、ルイーゼ嬢の手が添えられている。
今夜は帰りも送るから、家の馬車は出さなくていい。迎えにいらした時は、確かにそう言っていたのに。私の帰り道より先に、彼の隣へ収まる方が決まっていたらしい。
「君はいつも、ええ、そうですね、と答えるばかりだろう。ルイーゼは違う。僕と対等に話ができるんだ」
広間のあちこちで会話が途切れ、私たちを見る人が増えていく。誰かに顔を覗かれるのが嫌で、扇を開こうとした。けれど手が震えて、うまくいかなかった。
婚約したばかりの頃は、私も話していた。面白かった本のこと、庭で見つけた鳥のこと。彼が興味を示さなかったから、次は彼の好きな狩りの話を覚えた。ところが意見を述べると、狩りをしない君には分からない、と笑われた。
何なら喜んでもらえるのかを二年も考えて、最後に残ったのが、ええ、そうですね、だったのだ。
「……私が話しても、お聞きになりませんでしたでしょう」
「そういうところだよ。今も僕を責めるより、自分を省みたらどうだ」
恥ずかしかった。こんな人の言葉を待って、自分に足りないものを探し続けたことが。
それでも、彼にもう選ばれないのだと分かると胸が痛んだ。好きになってもらおうとした二年を、つまらないの一言で返されるのは、やはりつらい。
「婚約破棄は承りました。残りのお話は、父を通してくださいませ」
扇を開くことは諦め、鞄へしまって頭を下げた。
まずは伯母に事情を伝えなければ。控室にいる侍女のラウラを呼んで、家へ馬車を出してもらえば帰れる。手順を数えていると、フロリアン様が私の背後を見て眉を動かした。
「テレーゼ。家へ帰りたいか」
振り返ると、オスカー様が立っていた。
兄の友人で、ローデン伯爵家の次男。王都で騎士を務める彼は、五年前から我が家へ出入りしている。今夜も招待客の一人として見かけたけれど、会釈をしただけだった。
いつも通り口数は少なく、慰めの言葉もない。ただ、帰りたいかと聞かれた途端、喉が詰まった。
「はい。帰りたいです」
声が震えた。取り繕おうとする前に、彼が頷いた。
「俺の馬車で送ろう。ラウラも一緒に乗れる。夫人には俺から事情を――」
「伯母様には、私からお話しします」
「分かった。そこまで、腕を貸してもいいか」
差し出された腕へ手を置く。彼は私が歩き出すまで待ち、それから足を進めた。
「テレーゼ、騎士の親切を勘違いするなよ」
フロリアン様の声に、私の指が強張った。
「その方は困っている女性に手を貸してくださるんだ。相手が君でなくてもね」
分かっています。そう答えようとした時、オスカー様が足を止めた。
「困っている人を放っておかないのは、誰にでもすることだ。それより、あなたはもう少し黙っていてくれないか」
声は荒くなかった。それなのに、フロリアン様はルイーゼ嬢の手を腕に載せたまま、何も言わなくなった。
私は下を向いていた。笑ってはいけないと思ったからだ。ついさっきまで泣きそうだったのに、ほんの少しだけ、胸のつかえが取れていた。
伯母は話を聞くと、私の手を両手で包んだ。
「すぐに止められなくてごめんなさいね。婚約のお話は、お父様へ私からも手紙を書きます。今夜はもう、お帰りなさい」
「ありがとうございます、伯母様」
広間から廊下へ出ると、肩が冷えた。気づかないうちに汗をかいていたらしい。
オスカー様は近くの従僕に馬車と侍女の手配を頼み、小客間で待たせてもらえるかを確かめた。こちらの支度を待たせることに気が引けていると、彼の上着が私の肩へかかった。
「寒いだろう。馬車が来るまで、座っていてくれ」
「でも、オスカー様が」
「俺は平気だ」
上着をかけてから言うのは、ずるい。
温もりに包まれたら、もうお返しするのが惜しくなってしまった。
* * *
小客間の扉は開けたままで、ラウラは私の膝へ薄い掛け物を広げた。彼女には心配そうに顔を覗かれたけれど、送っていただくと告げると、すぐ帰りの支度を整えてくれた。
オスカー様は私の向かいに座り、給仕が運んできた盆へ手を伸ばした。
「お茶は少し待った方がいい。まだ熱い」
私の前へ置いたカップからは、白い湯気が上がっている。
その隣に小皿が来た。淡い色の菓子に交じって、端がこんがり焼けた塩ビスケットが二枚載っている。私が大好きなものだった。
「こちらを、よく召し上がりますね」
給仕が言うと、オスカー様は頷いた。
「彼女はこちらが好きだから」
「いえ、先ほども広間で、ローデン様ご自身がこちらばかり選んでいらしたので」
彼の手が止まった。
私は小皿と彼の顔を見比べた。給仕は一礼して下がり、ラウラは窓の方を向いている。窓には何もない。今、私たちには見せられない顔をしているのだろう。
「オスカー様も、お好きなのですか?」
「……最近は」
「昔は、柔らかい焼き菓子の方を召し上がっていましたのに」
「君が、端の焦げたところがうまいと言っていたから」
覚えていてくださった。
母と兄もいた茶席で、私が何気なく言ったことだ。兄は焦げを食べたがるなんて変な奴だと笑い、私は焼き目と焦げは違うと抗議した。オスカー様は何も言わず、一枚取って食べていた。
まさか、その後も選んでくださっていたなんて。
「試してみたら、うまかった。それだけだ」
彼は自分の皿にも一枚取り、真面目な顔で食べた。剣の稽古に向かう時とあまり変わらない顔なのに、口に運んでいるのは小さなビスケットだ。
私も一口かじった。塩気と香ばしさが広がり、空っぽだったお腹が、急に食べ物を欲しがった。
「おいしいです。今夜は、もう何も食べられないと思っていました」
「もう一枚ある」
「本当ですね」
急いで勧められたのがおかしくて、笑ってしまった。
オスカー様は口を開きかけ、それから自分のカップを持ち上げた。けれど飲む前に私のカップを見て、まだ熱いかもしれない、と言う。
「私が熱いお茶を苦手なことも、ご存じなのですね」
「何度も一緒に飲んでいるからな」
彼は何でもないことのように言う。私はカップを持ち上げかけ、まだ熱いのでいったん戻した。
「兄も一緒に飲んでいますが、いつも熱いうちに勧めます」
「ユリウスは、熱いうちがうまいと思っているんだろう」
「では、オスカー様も熱い方がお好きなのですか?」
「君は、少し冷ましてから飲む方が好きだろう」
答えになっているような、なっていないような。
自分がおいしいと思う温度ではなく、私が好きな温度を気にしてくださっている。それが嬉しくて、カップの持ち手へ指を添えたまま、彼を見てしまった。
フロリアン様は何度も、紅茶を冷ますなど贅沢な茶葉が台無しだとおっしゃった。だからお茶の時間には、舌を火傷しないように気をつけながら、なるべく早く飲んでいたのだ。
「こうしていただくと、勘違いしてしまいそうです」
言ってから、心臓が跳ねた。もう言葉を戻せない。
オスカー様はカップを受け皿へ置いた。私を見る目が、いつになく真剣になる。
「君は今夜、ひどいことを言われた。温かいものを飲んで、無事に帰ってほしい。それは、誰にでも思うことだ」
そうだろう。彼は親切な人だ。
でも、誰にでも好きなお菓子を二枚取って、誰にでもお茶が冷めるのを待ってくださるのだろうか。
少し期待してしまう。いけないと思っても、嬉しかったことばかり数えてしまう。
「では、今夜は遠慮なく甘えます」
「そうしてくれ」
あまりにも早い返事だったので、今度は彼も気づいたらしい。咳払いをして、ゆっくり頷き直した。
頷き直したところで、もう遅いと思う。私はビスケットで口元を隠し、もう一度笑った。
笑った拍子に、目から涙が落ちた。
自分でも驚いて指を伸ばすより早く、白いハンカチが差し出される。受け取ろうとして、端に刺された花を見つけた。
白い花弁が一枚だけ大きくて、花全体が少し傾いている。
「……これ、まだお使いなのですか」
二年前、私の婚約が決まる少し前に、彼の誕生日祝いとして贈ったものだった。
刺繍を習い始めたばかりで、母のようには上手に刺せなかった。兄には花ではなく小さな風車に見えると言われたけれど、オスカー様はしばらく眺めてから、大切にすると言ってくださった。
社交辞令だと思っていた。伯爵家のご令息なら、もっと上等なものを何枚もお持ちだろうから。
「使っていいと、君が言っただろう」
「ええ。でも、もう二年も」
「穴は開いていない」
そういう問題ではない。
洗い重ねた布は、私が贈った時よりずっと柔らかかった。自分の手元から離れたものに、誰かと過ごした二年分の手触りがある。
涙を拭こうとしたのに、かえって目の前がぼやけた。
「すまない。何か、余計なことを言ったか」
オスカー様が椅子から腰を浮かせる。私は慌てて首を振った。
「違います。嬉しかったのです。私が選んだものを、こんなに長く使ってくださっていて」
「君が作ってくれたものだからな」
彼はそう言って、立ちかけた姿勢のまま黙った。
ラウラが小さく咳をした。彼が座り直すのを見届けて、私はハンカチを両手で握った。
「お返しが、遅くなってもよろしいですか。きちんと洗ってからお返ししたいので」
「いつでもいい。君が必要な間は」
低い声が優しくて、もう少し泣きたくなった。でも今度は、ちゃんと涙を拭けた。
私は昔から、この方が少し照れて困るところが好きだった。兄と剣の稽古をしている時にはあれほど堂々としているのに、母が手作りの菓子を褒めると、作った私に何と言えばいいのか迷ってしまう。
その間が、いつも嬉しかった。急いで話を終わらせずに、私へ言う言葉を探してくれる人だったから。
婚約してからは、そんなふうに彼を見る自分に気づくと、すぐ目を逸らしていた。
「オスカー様」
呼ぶと、彼は私を見た。
好きな人にこんなふうに優しくしてもらったら、どうしたって嬉しい。
自分の気持ちに、ようやく名前をつけられた気がした。
「馬車の準備が整いました」
戸口から従僕が告げた。
私は名残惜しく思いながら、ハンカチを小さな鞄へしまった。膝の掛け物を畳んでラウラに渡すと、オスカー様が立ち、今度も腕を差し出してくれる。
「もう、歩けそうか」
「はい。さっきより、ずっと」
彼の腕へ添えた指には、もう力を込めずに済んだ。
* * *
伯母は玄関まで見送りに来てくれた。私がオスカー様の上着を着ているのを見ると、何か言いたそうに口を開き、それから微笑むだけにした。
ラウラが玄関の外へ出て、御者に馬車の扉を開けてもらっている。私も伯母へ別れの挨拶をしたところで、後ろから名前を呼ばれた。
「テレーゼ。ずいぶん楽しそうだな」
フロリアン様だった。
ルイーゼ嬢は少し離れたところに立っている。彼が私へ近づくと、オスカー様が私と彼の間へ半歩出た。
「君は、破棄された婚約を何とも思わないのか。さっきまで泣きそうな顔をしていたくせに」
「悲しかったです。ひどいことを言われたと思っています」
「だったら、なぜ笑っている」
なぜだろう。彼は私を楽しくないと責めたのに、今は楽しそうだと怒っている。
以前の私なら、また正しい顔を探したはずだ。でも今は、肩にかかった上着が温かい。泣いた目を拭くものも、帰りの馬車もある。
彼の気に入る顔をして、隣に残る必要はなかった。
「笑えるようにしてくださった方が、いらしたからです」
フロリアン様はオスカー様を見た。
「なるほど。弱っているところに付け込んだのか。いくら騎士でも、他人が手放したものなら手に入れやすいと――」
「私を物のようにおっしゃらないでください」
声が大きくなった。伯母がこちらを見たのも、オスカー様が私へ顔を向けたのも分かった。
けれど、言い直す気にはならなかった。
「私は帰りたいと申し上げました。オスカー様はそれを聞いて、送ると言ってくださいました。どこに付け込まれたというのですか」
「君は分かっていない。男は好意もない女に、そこまで世話を焼かないんだ」
私は一度、隣を見上げた。
オスカー様はフロリアン様を見ていた。止めたいけれど、その一言だけは否定できないというような、とても複雑な顔で。
「……そうなのですか、オスカー様」
小さく尋ねると、彼は私へ向き直った。
「少なくとも、君の困っているところを利用しようとは思っていない。それは信じてほしい」
「はい。信じています」
そう言うと、彼の目から険しさが消えた。
私はその顔を見てから、フロリアン様へ向き直る。
「あなたは二年も私の婚約者でしたけれど、私がお茶をどう飲みたいか、ご存じなかったでしょう。話がつまらないと言う前に、最後まで聞いてくださったことも、ほとんどありません」
「今度は茶の飲み方か。そんな些細なことを」
「私には、その些細なことが嬉しいのです。大事にしてもらえたと思えるのです」
言い終えると、オスカー様の腕がわずかに動いた。私の指へ触れそうになって、止まる。
だから私は、自分から少しだけ深く腕を取った。
「今夜は、この方に送っていただきたいのです」
「……分かった。先ほどは、僕も感情的になっていた。君がそこまで思い詰めているなら、婚約については考え直してもいい」
信じられなくて、返事をする前に瞬きをした。
ルイーゼ嬢が、彼の背後で扇を閉じた。
「フロリアン様。私への求婚も、感情的になってなさったことですの?」
彼が振り返った。その間に、伯母が私の隣へ来た。
「お二人のお話なら、客間をお使いになって。テレーゼはもう帰ります」
「しかし、夫人。私たちはまだ――」
「私は、考え直しません」
今度は声を張らなくても言えた。
「婚約を破棄するとおっしゃったのは、あなたです。承りましたとお答えした気持ちも、帰りたい気持ちも、変わっておりません。おやすみなさいませ」
頭を下げ、オスカー様と一緒に玄関を出た。
背後で何か言う声がしたけれど、伯母が応じてくれた。私は振り返らずに歩いた。石段を降りる時には彼が手を貸してくれて、ラウラの待つ馬車に乗り込む。
席に腰を下ろしてから、まだ彼の手を握っていることに気がついた。
「あ、ごめんなさい」
「……いや」
謝ったのに、すぐには離れなかった。
彼も離したくなさそうに見えるのは、私の願望だけだろうか。見上げてみると、彼の口元がほんの少し緩んでいた。
あの広間へ迎えに来てくださってから、初めて見る笑顔だった。
手を離すのが、ますます惜しくなった。
オスカー様が向かいへ乗り込み、扉が閉じる。馬車が動き出しても、私は窓の外をしばらく見ていた。伯母の屋敷の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。
もう戻らなくていい。そのことを確かめるように、肩の上着を引き寄せた。
「先ほどは、俺のために怒ってくれたんだな」
向かいから言われ、私は頷いた。
「嫌だったのです。私を助けてくださった方を、あんなふうに言われるのが」
「ありがとう。嬉しかった」
彼の膝の上では、大きな手が重ねられている。
その手が誰かを助けるところは、私も見たことがあった。転んだ子供を起こしたり、重い箱を持つ老僕を手伝ったり。けれど先ほどのように、離れる直前まで手を握っていたところは、見たことがない。
「オスカー様は、いつも親切です。でも、私には少し、親切すぎませんか」
今度は目を逸らさずに聞いた。
彼は答えようとして、言葉を選び直した。
「君には婚約者がいた。俺が何か言えば、君を困らせると思っていた」
「……はい」
「それに、今夜だ。あんなことを言われた直後に、別の男まで返事を求めたら、君は休めないだろう」
否定されなかった。
好きなのかと直接聞くより先に、どうして言わなかったのかを教えてくださった。嬉しさがじわじわと広がって、膝に置いた手を落ち着かせるのに困った。
「だから今夜は、家まで送らせてほしい。その先は、君が落ち着いてからでいい」
私は上着の端を撫でた。
彼は、私が好きなものを勝手に決めなかった。温度も、菓子も、帰り道も。ならば、また会いたいというこの気持ちも、私から伝えていいはずだ。
「ハンカチを、洗ってお返ししたいので……来週、我が家でお茶を飲みませんか。その時にお返ししたいです」
「いつがいい」
あまりの早さに、ラウラが小さく吹き出した。
私が彼女を見ると、口元を押さえて頭を下げる。オスカー様は窓へ目を向けてしまったけれど、耳が赤い。
今日は、頷き直さなくていいです。そう言いたくなるのをこらえて、私は彼の横顔に話しかけた。
「ご都合のよい日を、明日教えてください。私が、オスカー様とお茶を飲みたいのです」
「……分かった。必ず連絡する」
彼がこちらを向いた。広間ではどんな顔をすればいいのか分からなかった私が、今は笑顔を隠せなくなっている。
夜の道を進む馬車の中が、こんなに明るく感じられたのは初めてだった。
* * *
翌週、婚約解消の書面を両家で交わしたと、父から手紙が届いた。
マルタ伯母様が詳しく知らせてくださったらしく、我慢しているならもっと早く相談してよかったのだ、とも書いてある。私は返事に、今はもう大丈夫ですと書いた。次は、困った時にもそう書いてしまわないようにしようと思った。
約束の日、オスカー様は時間通りに来てくださった。
上着は玄関でお返しし、庭の茶席へ案内する。テーブルの上には塩ビスケットと、柔らかい蜂蜜の焼き菓子を用意した。
彼の皿へ焼き菓子を置くと、少し意外そうな顔をされる。
「今日は、そちらを食べていただきたくて。兄と稽古をなさった後、いつもこれを楽しみにしていらしたでしょう」
「覚えていたのか」
「何度も一緒に食べましたから」
あの夜、彼が言ったのと同じ理由だった。
私は彼の好みを知っていた。彼が我が家へ来る日を楽しみにしていたし、兄が留守だと聞いて帰りかけると、母はおりますからと引き止めたこともあった。
自分の婚約が決まってからは、してはいけないことのように思って、やめてしまったけれど。
「私も、覚えていたのです」
畳んだハンカチを取り出して、彼へ返す。
きれいに洗っても、大きすぎる花弁は直らなかった。刺し直そうかと迷ったけれど、このまま二年も使ってくださったものへ、勝手に針を入れたくなかった。
「新しいものを作りましょうか。今なら、もう少し上手に刺せます」
「それは嬉しい。だが、これはこれで使わせてほしい」
ハンカチを受け取ると、彼はすぐ胸の内ポケットへしまった。
大事にしていただけると分かっているのに、実際に見ると、やっぱり嬉しい。
私は息を整え、彼を見た。
「オスカー様が好きです。助けていただいたからだけではなくて、もっと前から。母があなたをお茶に誘ってくれると、私はいつも嬉しかったのです」
途中で声が小さくなりそうになった。でも、彼は待っていてくださる。続きを急かすことも、私が言い終わる前に笑うこともない。
「また来てほしくて、好きなお菓子も覚えました。ですから、今日はお返事を聞かせてください。もう一週間、ゆっくり考えましたから」
最後だけ少し早口になってしまった。
オスカー様は、しばらく黙っていた。私が返事を待つ間に、彼の頬が赤くなっていく。片手で口元を押さえ、困ったように笑った。
「そういう返事まで、用意してきてはいなかった」
「迷惑でしたか」
「まさか。嬉しすぎて、何から言えばいいのか分からない」
押さえていた手が下がった。
いつも落ち着いた声で話す方なのに、私の名を呼ぶ声が、少し震えた。
「テレーゼ。俺も君が好きだ。ずっと、君に会える日を楽しみにしていた。あの夜、送る役を誰かに譲る気もなかった」
頬が熱くなった。
声を出して喜びたいのに、胸がいっぱいでうまくいかない。やっと嬉しいですと言うと、彼も同じ言葉を返してくださった。
「では、誰にでもする親切では、なかったのですね」
「あそこまで世話を焼くのは、君だけだ。……隠せていたとは、もう思っていない」
私は笑った。彼も、諦めたように笑う。
小さな好みを一つ知るたび、そっと差し出してくれた親切。それを受け取って嬉しかった私の気持ちにも、ようやく何の言い訳も要らなくなった。
「お付き合いを、申し込んでもいいだろうか。これからは、君に会いたいから会いに来たい」
「はい。私も、オスカー様に会いたいからお待ちします」
彼がテーブルの上へ手を差し出した。
私はそこへ、自分の手を重ねた。帰り際ではないから、今日はすぐに離さなくていい。
彼の指が私の指を包み、私が握り返すと、目の前の顔がまた嬉しそうに崩れた。
「お茶が冷めてしまうな」
「私は少し冷めた方が好きです」
「知っている」
オスカー様は、今度は得意そうに言った。
私も知っている。彼が今、手を離したくないことくらいは。




