三度申し上げました。誰も聞きませんでした
「お姉様。わたし、ラインハルト様と結婚いたします」
夕食の席だった。エミーリアが皿から顔を上げて、まっすぐにそう言った。十六歳の頬が上気している。
テレーゼはスプーンを置いた。
「そう」
「……怒らないの?」
「怒る理由がないもの」
嘘ではなかった。
テレーゼ・アルンハイムは十七歳で、ラインハルト・フェルディン伯爵令息とは三年前から婚約している。その婚約者を義妹が奪うと言い出したのだから、普通なら怒るところだろう。
けれどテレーゼは、三つのことを知っていた。
一つ。フェルディン伯爵家には金がない。使用人に半年も給金が払われていない。
二つ。ラインハルトには二歳になる子がいる。その子の母親は、今はテレーゼの救貧院で働いている。
三つ。フェルディン家の小切手を、もうどこの銀行も受け取らない。口座に金がないからではない。あの家の名前そのものが、金を貸す者たちのあいだで通用しなくなっているからだ。
だから怒る理由がなかった。エミーリアが奪おうとしているものが何なのか、テレーゼは正確に知っていたからだ。
救貧院というのは、行き場のない者を泊めて食べさせる場所だ。孤児院ではない。次の働き口が見つかるまで置いて、見つかれば送り出す。それだけだ。
建てたのはテレーゼの母だ。アルンハイム男爵家のものではない。母個人のものだった。
「まあ、エミーリア。本当なの」
継母のヘートヴィヒが身を乗り出した。
「本当よ、お母様。ラインハルト様が、わたしにって」
「伯爵家よ。あなたが伯爵家の奥様になるのよ」
継母の声が震えていた。
無理もない、とテレーゼは思った。
アルンハイム家は男爵家だ。領地は小さく、屋敷は古く、使用人は六人しかいない。その家から伯爵夫人が出る。それは三年前から決まっていたことだった。
ただし、出るのは先妻の娘だった。
継母はそれを黙って見ていた。
それが今、自分の娘に替わったのだ。
父は何も言わなかった。ただ一度だけ、テレーゼの方を見た。
「テレーゼ。お前は」
「わたくしは構いません」
「……そうか」
父はそれきり黙って、皿に向き直った。
三年前にフェルディン伯爵家からこの家に縁談が来たとき、社交界は口を揃えて同じことを言った。伯爵家がわざわざ男爵家に。なんと寛大な。なんと立派な。
テレーゼは、そのときすでに知っていた。
寛大でも立派でもない。フェルディン家がこの家に求めたものは、家格でも血筋でもなかった。
テレーゼが十八歳の誕生日に受け取る、母の遺産だった。
翌朝、テレーゼはエミーリアの部屋を訪ねた。
三月十四日だった。窓の外はまだ寒く、庭の木は裸のままだった。
「エミーリア。座って聞いてほしいの」
「なあに、お姉様」
エミーリアは鏡台の前にいた。新しい髪飾りを合わせている最中だった。
「三つ、伝えたいことがあるの」
「三つも?」
「ええ。一つずつ言うわ」
テレーゼは椅子を引いて、腰を下ろした。
「一つめ。フェルディン家には、お金がありません」
エミーリアの手が止まった。
「うちの救貧院に、去年から七人が泊まっています。もとはフェルディン家で働いていた人たちよ。庭師のヴィム、料理番のハンス、洗い場のイルマ。辞めた理由は七人とも同じ。給金が半年出なかったからよ」
「……そんなの」
「屋敷勤めの人は住み込みでしょう。辞めれば寝るところもなくなるの。だから、うちに来たのよ」
「……」
「二つめ。ラインハルト様には、お子様がいらっしゃるわ」
エミーリアが振り返った。
「二歳の男の子。名前はトビアス。母親はマルタといって、もとはフェルディン家の下働きよ。身重になって屋敷を追い出されて、去年うちに来たの。今は洗い場で働いています。会いたければ、いつでも会わせるわ」
「お姉様——」
「三つめ。フェルディン家の小切手は、もうどこの銀行も受け取りません」
「……小切手?」
「去年、あの家からうちの救貧院にお金をくださるという話が三度あったの。三度とも紙が来て、三度とも銀行で断られたわ。一度目と二度目は、口座にお金がなかったからよ。三度目は違うの。銀行が、フェルディン家という名前そのものを断ったのよ」
テレーゼは一度言葉を切った。
「お金がないだけの家なら、まだ立て直せるわ。でも、金を貸す人たちに名前を断られた家は無理よ。もう誰も貸してくれないもの」
部屋が静かになった。
エミーリアは髪飾りを鏡台に置いた。それから、ゆっくりとテレーゼを見た。
妹が何を選ぶのかを、目で見ておきたかった。
「……お姉様。わたし、分かってるの」
「何を」
「お姉様が悔しいのは、分かるの。三年も婚約してたんだもの。でもね」
エミーリアは微笑んだ。優しい顔だった。
「そういうことを言うのは、みっともないと思う」
テレーゼは頷いた。
「分かったわ」
「怒ってないよね?」
「怒っていないわ」
テレーゼは立ち上がった。扉のところで振り返って、こう言った。
「お幸せに」
エミーリアは笑って、手を振った。
次に、継母の部屋へ行った。同じ三つを、同じ順で話した。
継母は最後まで聞かなかった。二つめの途中で立ち上がった。
「あなた、妹の幸せを壊す気なの」
「壊れる前にお伝えしています、お義母様」
「出ていって」
最後に、父の書斎へ行った。同じ三つを、同じ順で話した。
父は最後まで聞いた。聞いてから、こう言った。
「女同士のことだ」
「お父様。これはお金の話です」
「テレーゼ」
父は書類に目を落とした。
「もう行きなさい」
その夜、テレーゼは机に手帳を開いた。
いつも持ち歩いている小さな手帳だった。四年前から使っている。誰が何を言ったか、いつ何があったか、気になったことを片端から書き留める癖がある。四年で十一冊になった。
この日のことを書いた。三月十四日。エミーリアに三点を伝えた。エミーリアはこれを受け入れなかった。継母に伝えた。二つめの途中で退室を命じられた。父に伝えた。女同士のことだと言われた。
書き終えてから、便箋を出した。
同じ内容を三通に清書した。一通ずつ、伝えた相手の名前を上に書いた。日付を入れて、署名した。三通とも二部ずつ作った。
一部は引き出しにしまった。もう一部は翌日、街の公証人のところへ持っていった。
「これは、何の書面ですか」
公証人が訊いた。
「わたくしが誰に何を伝えたかという記録です。預かっていただきたいのです」
「……争いになるのですか」
「なりません」
テレーゼは答えた。
「わたくしが言わなかったことにされるだけです」
「中身が本当かどうかは、わたくしには分かりませんが」
「それで構いません」
テレーゼは言った。
「この紙が今日ここにあったと、それだけ分かれば足ります」
なぜこんなことをするのか。
救貧院に来る人間の言葉を、誰も信じないからだ。あそこの者の言うことなど、と貴族は言う。四年間、テレーゼはそれを見てきた。給金を払われなかった者が訴えても、雇い主が払ったと言えばそれで終わる。書いたものがないからだ。
だから書く。日付を入れて、名前を入れて、他人に預ける。
書かなければ、なかったことになる。
婚約は四月に整った。
早かった。テレーゼとの婚約を解消する話とエミーリアとの婚約を結ぶ話が、同じ一通の手紙で来たからだ。
テレーゼは何も言わなかった。父も何も言わなかった。継母は泣いて喜んだ。
祝いの支度が始まった。
エミーリアのドレスが三着仕立てられた。首飾りが二つ。耳飾りが一つ。靴が四足。仕立て屋が来て、宝石商が来た。
支払いはすべてアルンハイム家が持った。
フェルディン家からは、祝いの品が一つも来なかった。手紙も来なかった。
テレーゼは一度だけ、継母に訊いた。
「お義母様。あちらからは、何も来ないのですか」
「当たり前でしょう」
継母は嬉しそうだった。
「向こうは伯爵家なのよ。こちらが尽くすものなの。伯爵家に嫁がせていただくのだから」
テレーゼは頷いた。
自室で手帳に書いた。四月九日。支度の費用はすべて当家が持つと継母が述べた。理由は、伯爵家に嫁がせていただくため。
救貧院は屋敷から歩いて二十分の、街外れの古い建物だった。
母のゾフィーは生家と縁を切って父に嫁いだ人だった。捨てた側でもあり、捨てられた側でもあった。だからこういう場所を作ったのだと、テレーゼは思っている。
母は四年前に死んだ。テレーゼは十四歳で救貧院を継いだ。誰も引き継いでくれなかったからだ。
運営の金は寄付でまかなっている。だから毎年、冬が近づくたびに金が足りなくなる。
朝、テレーゼはまず名簿を開く。昨日来た者の名前を書いて、出ていった者に線を引く。五分で終わる。
その朝、名簿を閉じたところでヨナスが来た。
「テレーゼさん。今年の冬の薪ですが、足りません」
「どれくらい」
「ひと月分です。寄付が去年の六割ですから」
「分かったわ。考える」
ヨナス・ブラントは二十五歳の医者で、週に三日ここに来る。給金は出していない。出せないからだ。
テレーゼは手帳を開いた。
三日前に来た男のところで、手が止まる。グレゴール。四十二歳。もとフェルディン家の馬丁。書いてあるのはそれだけだった。
書けなかったのは、この男が何も話さないからだ。
食事は取る。寝床も使う。だが口をきかない。他の者は気味悪がって近寄らない。
テレーゼはその朝、グレゴールの隣に座った。
何も訊かなかった。膝の上に手帳を開いて、昨日聞いた話を書いていた。四半刻ほどして立ち上がった。
次の日も座った。その次の日も座った。
四日目の朝、グレゴールが口を開いた。
「……お嬢さん」
「はい」
「なぜ、毎日来なさる」
「話したくなったときに誰もいないと、困るでしょう」
グレゴールは長いこと黙っていた。それから話し始めた。
話は二時間続いた。
テレーゼは全部書いた。書きながら、一度も遮らなかった。
その中に一つだけ、ほかの七人が言わなかったことがあった。
「今年、フェルディン領には麦がありません」
「……作らなかったということ?」
「作れませんでした。種を買う金がなかったのです。旦那様は去年の秋に、種蒔きを止めさせました。畑は今、草だけです」
テレーゼは手帳に書いた。
三月十八日。グレゴール証言。フェルディン領は今年、麦を作付けしていない。理由は種を買う金がなかったため。
昼過ぎ、洗い場に寄った。
マルタが桶に屈んでいた。二十歳。足元では二歳のトビアスが、木の切れ端を並べて遊んでいる。マルタの息子だ。
「テレーゼ様」
「今日はどう」
「手が空いたので、シーツを先にやっています」
マルタは指示を待たない。言われる前に見つけて始めている。テレーゼはそれを知っていて、それでも毎日訊く。
トビアスが顔を上げた。テレーゼを見て、笑った。
「あの」
マルタが手を止めた。
「妹様のこと、聞きました」
「そう」
「……あの方は、悪い人ではないんです」
テレーゼは黙っていた。
「わたしが屋敷を追い出されたことを、あの方はご存じないんです。追い出したのはお母上様で、あの方じゃありません。この子が生まれたことも、たぶんご存じないと思います」
テレーゼは頷いた。
「分かったわ」
否定しなかった。マルタが信じたいものを取り上げる理由がない。
部屋に戻ってから、手帳に書いた。
三月十九日。マルタ証言。トビアスの父はラインハルト・フェルディン。追放を指示したのは伯爵夫人。本人の関与は不明。
五月、ラインハルトが屋敷に来た。
三年間の婚約でテレーゼが会ったのは九度だった。エミーリアはこの二ヶ月で十四度会っている。
テレーゼは呼ばれていない。婚約を解消された姉が同席する場ではない。
二階の自室で手帳を書いていると、階下から人が上がってきた。
「テレーゼ様。奥様がお呼びです」
「わたくしを?」
「ラインハルト様が、テレーゼ様にご挨拶をなさりたいと」
客間に入ると、エミーリアが顔を上げた。
笑っていた。ただ、笑うまでに少しだけ間があった。
ラインハルトが立ち上がった。
背が高く、声が低く、物腰が完璧だった。
「テレーゼ嬢。ご無沙汰しています」
「ご無沙汰しております」
「このたびは……その、なんと申し上げてよいか」
「お気になさらないでください」
「あなたにそう言っていただけると、救われます」
継母が満足そうに頷いた。エミーリアも頷いた。
茶が出た。ラインハルトは話が上手だった。王都の劇場の話、狩りの話、去年の舞踏会の話。継母は何度も笑った。
三十分ほどして、彼はこう言った。
「そういえばテレーゼ嬢。ご学友のクレーマー嬢が、秋に十八になられるとか」
「ええ」
「あなたも同じ年でしたね。お誕生日はいつでした」
「九月です」
「九月」
彼は繰り返した。
「そうか。九月ですか」
それだけだった。彼はすぐ別の話に移った。継母はまた笑った。エミーリアも笑った。
テレーゼは、この三十秒のために自分が呼ばれたのだと分かった。
茶が空になったころ、テレーゼは口を開いた。
「ラインハルト様。フェルディン領の今年の麦は、いかがでした」
部屋が止まった。
ラインハルトはカップを置いた。それから微笑んだ。
「……よく実ったと聞いている」
「そうですか」
テレーゼはそれだけ言った。
継母が話題を戻した。ラインハルトも戻った。誰も気にしなかった。
気にする理由がないからだ。この部屋にいる四人のうち、フェルディン領に麦がないことを知っているのはテレーゼだけだった。
ラインハルト本人も、知らなかった。
馬車が出ていったあと、エミーリアが玄関で手を振りながら言った。
「お姉様にも、ちゃんと気を遣ってくださるのね」
「そうね」
「わざわざ呼んでくださって。お優しい方でしょう」
「そうね」
テレーゼは部屋に戻って、手帳に書いた。
五月三日。ラインハルト様来訪。わたくしを客間へ呼ばせ、誕生日を確かめて帰った。麦の作柄を問うたところ、よく実ったと聞いていると回答。
六月、フェルディン家から手紙が来た。
式の支度を早めたいので持参金を先に頂きたい、という内容だった。
継母はその場で返事を書いた。用意いたします、と書いた。
テレーゼは父の書斎へ行った。
「お父様。持参金は、どこから出るのですか」
父は書類から目を上げなかった。
「お前の母の遺したものからだ」
「いくらですか」
「全部だ」
テレーゼは黙った。
母の遺産がどこから来たものなのか、テレーゼは知っている。
母のゾフィーは生家と縁を切って父に嫁いだ。生家からは一銭も出ていない。ただ一人、母方の祖母だけが最後まで縁切りに反対していた。その祖母が死ぬとき、自分の持ち物からゾフィー個人へ遺したものがある。
母はそれに一度も手をつけなかった。救貧院も自分の暮らしも、寄付と父の家計でまかなった。
そして遺言書を残した。この財産は、テレーゼが十八になった日にテレーゼ個人へ渡る。
「あれはわたくしのものです」
「まだ嫁いでおらん。家のものだ」
「違います」
テレーゼは一歩前に出た。
「母の遺言書には、わたくしが十八になった日にわたくし個人へ渡ると書いてあります。九月です。あと三ヶ月です。それまでは誰のものでもありません。家のものでもありません。法でそうなっています」
父の手が止まった。
「……口を慎め」
「お父様」
「もう行きなさい」
廊下で継母に会った。継母は上機嫌だった。
「テレーゼ。あなたも喜びなさいな」
「はい」
「持参金さえ揃えば、あちらは何もおっしゃらないのよ。本当に、寛大な方たちだわ」
テレーゼは頷いた。
継母は自分が今何を言ったのか、気づいていなかった。
持参金さえ揃えば、何もおっしゃらない。それは、持参金以外に何も見ていないということだ。花嫁が誰であるかすら、見ていない。
自室で手帳に書いた。
六月二日。フェルディン家より持参金の前倒しを要求。継母がこれを承諾。原資は母の遺産の全額。父はこれを家の財産と主張。
書いてから、街の公証人を訪ねた。
「母の遺言書のことでまいりました」
「ああ、ゾフィー様の。原本はこちらでお預かりしています」
「父が、書いてあることと違うことをしようとしています」
「できませんよ」
公証人は言った。
「原本がここにある限り、どなたにもできません」
テレーゼは礼を言って帰った。
六月のうちに、継母は用意すると書いた返事を取り消した。取り消すよりほかになかった。公証人が動かない以上、その金はどこからも出てこない。
七月の初め、フェルディン伯爵家に差し押さえが入った。
持参金は届かなかった。ただ、届いていても足りなかった。
あとで分かったことだが、フェルディン家の借金はその四倍あった。入っていても、潰れるのが半年遅くなるだけだ。フェルディン家はその半年に、家の全部を賭けていた。
債権者が屋敷に入り、家財の目録を作った。
三日後の昼、ヨナスが紙束を抱えて救貧院に入ってきた。
「テレーゼさん。街で写しが回っています」
「何の写しですか」
「フェルディン家の目録です」
テレーゼは手を止めた。
貴族の家が潰れるときはいつもそうなる。誰もが人の家の目録を読みたがる。写しは一晩で街じゅうに出回り、写しの写しがまた出回る。
二人で机に広げた。
家具。銀器。馬。絵。一つずつ数がついて、値がついている。ヨナスが指で追い、テレーゼが数字を読んだ。
三枚目の下のほうに、帳面が一冊あった。
「これ、なんでしょう」
ヨナスが指した。
「『乳母への手当』……二年分と書いてありますね」
テレーゼは、その行から目を離さなかった。
「ヨナス先生」
「はい」
「フェルディン家に、乳飲み子はおりません」
ヨナスが顔を上げた。
「では、誰への手当ですか」
「書いてあります。渡した相手の名前が」
テレーゼは指で示した。
ヨナスがそれを読んだ。読んでから、黙っていた。
「……二年前に、あの屋敷から消えた娘の名前です」
それで足りた。
三日で知れ渡った。フェルディン伯爵令息には子がいる。母親は追い出されて、今はアルンハイム男爵家の救貧院にいる。
その日の夕方、テレーゼは洗い場へ行った。
マルタは桶の前にいた。トビアスは足元で眠っていた。
「マルタ」
「はい」
テレーゼは紙を見せた。
「これは、あなた?」
マルタは紙を見た。それから、桶に手を戻した。
答えなかった。
テレーゼは待った。
しばらくして、マルタが言った。
「……お母上様が、毎月くださいました。誰にも言うなと」
「二年」
「はい」
「言えなかったのね」
「言ったら、止まると思いました」
マルタは手を動かしていた。
「この子のためのお金です。わたしのではありません」
「分かったわ」
それだけ言って、洗い場を出た。
責める理由がなかった。話さない理由なら、いくらでも思いつく。
同じ週のことだった。
テレーゼが救貧院から屋敷へ戻ると、玄関に見知らぬ男が二人立っていた。外套も脱がずにいる。客ではない。
継母が廊下の隅にいた。顔が白かった。
「お義母様。あの方たちは」
「知りません」
継母はそれだけ言って、部屋へ入ってしまった。
テレーゼは書斎へ行った。
父は机に座って、一枚の紙を持っていた。ずっと同じ姿勢でいたらしく、ランプに火が入っていなかった。
「お父様」
父は顔を上げなかった。
「それは、何ですか」
長い間があった。
「……保証だ」
「何の」
「フェルディン家の借入の」
テレーゼは机に寄った。
紙には父の名前があった。日付があった。三年前の春だった。
「これは、婚約が整った日ですね」
「そうだ」
「同じ日に、これへ署名なさったのですか」
「先方に頼まれた」
父は紙を置いた。
「伯爵家に頼まれて、男爵家が断れると思うか」
テレーゼは答えなかった。
答えられることが、何もなかった。
「お義母様は、ご存じでしたか」
「知らん」
「エミーリアは」
「誰も知らん」
父はそこで初めて顔を上げた。
「お前も、知らなかっただろう」
「はい」
知らなかった。四年間、テレーゼは救貧院で人の話を聞いてきた。屋敷の使用人は屋敷のことを話す。馬丁は馬のことを話す。
書斎で主人が一人きりで署名した紙のことは、誰も見ていない。
だから、来なかった。
七月の終わり、エミーリアがテレーゼの部屋に来た。
ノックもしなかった。
「お姉様、助けて」
エミーリアは泣いていた。二ヶ月前より痩せていた。
「座って」
テレーゼは椅子を出した。エミーリアは座らなかった。
「あの方が……ラインハルト様が、変わったの」
「どんなふうに」
「会ってくださらないの。手紙も来ないの。この前やっと来てくださったと思ったら、持参金はまだですかって。それだけなの。それしか言わないの」
エミーリアは両手で顔を覆った。
「わたし、何かしたのかしら」
「していないわ」
「じゃあどうして」
テレーゼは立ち上がって、引き出しを開けた。
三通の書面を出した。
「エミーリア。順に説明するわ。長くなるけれど、最後まで聞いて」
「……うん」
「あの方が欲しかったのはお金です。三年前からそうでした。フェルディン家がうちに縁談を持ってきたのは、わたくしが十八になった日に母の遺産を受け取るからです。家格ではありません。血筋でもありません。わたくし個人でもありません。お金です」
「でも……じゃあ、わたしは」
「お義母様が、持参金はこちらで用意すると仰ったの。原資は母の遺産で、しかも全額よ。あの方から見れば、お金の出どころは何も変わらないの。変わったのは花嫁だけ」
エミーリアの手が下りた。
「……え」
「あなたが選ばれたのではないの。お金が選ばれたのよ。花嫁は、わたくしでもあなたでもよかった」
「そんな」
「そして九月にわたくしが十八になれば、遺産はわたくし個人のものになるわ。お義母様にもお父様にも動かせなくなるの。あの方はそれを知ったのよ」
「……いつ」
「五月にうちへいらしたとき、わたくしの誕生日をお訊きになったでしょう。あれを確かめに来たの」
エミーリアの唇が震えた。
「だから持参金はまだですかとしか言わなくなったの。あなたが何かしたのではないわ。最初から、あなたを見ていなかっただけよ」
エミーリアは三通の書面を見た。
一通目の日付を読んだ。三月十四日。
「……これ」
「あなたに伝えた日よ。フェルディン家にお金がないこと。あの方にお子様がいること。あの家の小切手をどこの銀行も受け取らないこと。三つとも、その日に言いました」
「……」
「二通目はお義母様に伝えた記録。三通目はお父様に伝えた記録。同じ日よ。三月十四日」
「どうして、こんなものを」
「同じものをもう一部ずつ作って、翌日に公証人へ預けました」
エミーリアの顔が歪んだ。
「……お姉様。こうなるって、分かってたの」
「分かっていたわ」
「じゃあ、どうして」
「何が」
「どうして、もっと強く言ってくれなかったの!」
テレーゼはエミーリアを見た。
「三度、言いました」
「一度でしょう!」
「いいえ」
テレーゼは三通の書面を並べた。
「あなたに言いました。お義母様に申し上げました。お父様にも申し上げました。同じ日に、三度です」
「そんなの、わたしには一度きり——」
「ええ。あなたには一度きりです」
テレーゼは頷いた。
「でも三人のうち、どなたか一人が聞いてくださっていれば止まりました。三度とも、止まりませんでした」
「……」
「あなたでなくてもよかったのです。お義母様でも、お父様でも」
「そんなの、聞いてない」
「聞いていらしたわ」
テレーゼは静かに言った。
「聞こえていて、聞かなかっただけよ」
エミーリアは何も言わなかった。
しばらくして、小さな声で言った。
「……みっともないって、言ったわ。わたし」
「ええ」
「覚えてるの」
「書いてあるもの」
婚約は解消できなかった。
法で禁じられているわけではない。誰も止めはしない。ただ、解消したあとに何が起きるかが分かっていた。
債権者は待っている。フェルディン家に返す金がないことは知っている。それでも待つのは、アルンハイム家から持参金が入ると思っているからだ。婚約が続いているうちは、入る見込みがある。
婚約が消えれば、その見込みも消える。そのとき債権者は、連帯保証人であるアルンハイム男爵家に向かってくる。父が三年前に署名した紙のとおりに。
もう一つあった。
マルタと子の話が知れ渡ったあとで婚約を解消した娘に、次の縁談は来ない。破談の理由がどうであれ、社交界はそこまで丁寧に区別してくれない。
だからエミーリアは、フェルディン家に嫁ぐしかなかった。
金のない屋敷に。夫の子がいる家に。望んだとおりの伯爵家に。
九月、テレーゼは十八歳になった。
母の遺産は、遺言書のとおりテレーゼ個人のものになった。
その日の夕方、父が部屋に来た。父の方から来たのは四年ぶりだった。
「テレーゼ」
「はい」
「……家が潰れる」
「存じています」
父は立ったままだった。
「あの金があれば」
「足りません」
テレーゼは机の上の紙を、父の方へ向けた。
「お父様が保証しておられる額は、母の遺産の三倍です。全部お渡ししても、この家は潰れます。一年遅くなるだけです」
父は紙を見た。数字を見た。それから顔を上げなかった。
「では、どうしろというのだ」
「領地を切ってください」
テレーゼは別の紙を出した。
「北の三つの村を先に手放してください。次が東の林です。屋敷は最後です。この順で切れば、男爵家は残ります。北の村は今年の作付けが終わっているので、今なら買い手がつきます。東の林は来年から伐採できるので、来年になると値が上がります。屋敷を先に売ると家名が消えますから、最後です」
父は紙を受け取った。
「……これを、いつ作った」
「七月です」
差し押さえの話を聞いた日に作った、とは言わなかった。
父は紙を持ったまま、しばらく立っていた。
「テレーゼ」
「はい」
「三月に、お前が言ったことだが」
テレーゼは待った。
父は続きを言わなかった。
「……もういい」
そう言って、出ていった。
翌週、テレーゼは母の遺産を全額救貧院に移した。
公証人を立てて、救貧院を法人にした。理事は三人。テレーゼとヨナスと、街の司祭だ。金は法人のものになった。
だから誰にも動かせない。父にも、継母にも、フェルディン家にも、テレーゼ自身にも。
「よろしいのですか」
公証人が訊いた。
「母が遺したものです」
テレーゼは答えた。
「母が始めた場所に返しました」
その日から、救貧院は書類の上で名前を持った。ゾフィー・アルンハイムの家、という。
十月、エミーリアが嫁いだ。
式は小さかった。招いた客の半分が来なかった。
馬車に乗る前、エミーリアがテレーゼのところへ来た。
「お姉様」
「はい」
「あのとき、お幸せにって言ったでしょう」
「言いました」
「……あれ、皮肉だったの」
テレーゼは首を振った。
「いいえ。本当にそう願っておりました」
「……」
「三度目に断られたときに、願うのをやめただけです」
エミーリアは馬車に乗った。
窓は開かなかった。
十一月、テレーゼは街の商業組合の建物に呼ばれた。
フェルディン家の破産を片づけるための集まりだった。債権者は七軒。商人が四軒、金貸しが三軒。全員が男で、全員が平民だった。
行く前に、マルタに訊いた。
「あなたの話をすることになるわ。していいかしら」
マルタは考えて、それから頷いた。
「……お願いします。もう、隠していても仕方がありませんから」
テレーゼは手帳を十三冊と、書面を三通持っていった。
部屋に入ったとき、誰も立たなかった。令嬢が来たからといって立ち上がる習慣が、この人たちにはない。テレーゼはそれで構わなかった。
議長役の男が言った。
「アルンハイム嬢。あなたの救貧院に、フェルディン家の元使用人が八人いると伺いました」
「はい」
「その者たちの話を、聞かせていただきたい」
テレーゼは手帳を開いた。
「一人目は庭師のヴィムです。去年の三月から給金が出なくなりました。九月に辞めました。辞めるときに執事から口止めをされたと言っています」
「日付は」
「本人から聞いたのは去年の十月三日です。手帳のこの頁です」
男が身を乗り出して覗き込んだ。
「……続けてください」
テレーゼは続けた。
二人目を話した。三人目を話した。四人目のところで、金貸しの一人が口を挟んだ。
「待ってください。今のを、もう一度」
「馬丁のグレゴールです。去年の秋、フェルディン領で種蒔きが止められました。種を買う金がなかったからです。ですので今年、あの領地に麦はありません」
部屋が静かになった。
「彼がそう話したのは、今年の三月十八日です」
金貸しが立ち上がった。
「三月。我々があの家に金を貸したのは五月だ」
「はい」
「今年の収穫を担保にして貸した」
「収穫は、最初からありませんでした」
男は座らなかった。立ったまま、テレーゼの手帳を見ていた。
議長役の男が咳払いをした。
「もう一点、伺いたい。目録に出た『乳母への手当』の件です。あれは何ですか」
「フェルディン伯爵夫人が二年のあいだ、口止めのために払っていた金です。相手はマルタといって、うちの救貧院にいる娘です。ラインハルト様のお子を産んで屋敷を追い出されました」
「その金の出どころは」
「わたくしには分かりません」
テレーゼは正直に答えた。
「ただ二年前から今年まで、月ごとの額と日付が帳面に残っております。目録に載っていたあの帳面です。どこから出た金かは、皆様の方がお分かりになると思います」
男たちが顔を見合わせた。
一人が低い声で言った。
「返すべき金だ」
「あの家は、我々に返す金がないと言い続けていた」
「そのあいだ二年、毎月払っていたわけだ」
テレーゼは話し続けた。
五人目。六人目。七人目。八人目。
誰も途中で立たなかった。誰も遮らなかった。分からないところがあると訊き返し、訊き返してからまた続けてくださいと言った。
四時間かかった。
四年間、テレーゼはこれと逆のものを見てきた。
あそこの者の言うことなど、と貴族は言う。それで終わりだった。
この部屋には、それがなかった。
この人たちは金を貸して生きている。誰が何をいつ言ったかで損得が決まる。だから聞く。相手が誰であっても聞く。
四年ぶりに、テレーゼの話は最後まで聞かれた。
集まりが終わったあと、議長役の男が残った。
「アルンハイム嬢。あなたの手帳を写させていただきたい。もちろん代金は払います」
「構いません」
「それと」
男は少し言いよどんだ。
「うちは組合で、街の商いの記録を預かっています。人手が足りません。書ける人間がいないのです。書けるだけでなく、人の話を最後まで聞ける人間が」
「……」
「週に二日でいい。来ていただけませんか」
「救貧院の仕事があります」
「二日でも一日でも、あなたのご都合で結構です」
「では、二日」
男は頷いた。それから、少し迷ってから訊いた。
「一つ伺っても」
「はい」
「なぜ四年も、あんなものを書いてこられた。誰にも読ませないのに」
「書かなければ、なかったことになりますから」
男は長いこと黙っていた。
「……そうですな」
十二月、救貧院にラインハルトが来た。
外套の裾が擦り切れていた。馬車ではなく、歩いて来た。
フェルディン家は屋敷を失っていた。爵位だけが残っている。領地は債権者の手に渡り、エミーリアは街の借家に住んでいた。
彼は玄関に立ったまま、こう言った。
「返してもらいたいものがある」
「何をでしょう」
「母が二年のあいだ、あの娘に渡していた金だ」
テレーゼは彼の顔を見た。
「マルタからお取り立てになる、ということですか」
「言い方が悪い」
ラインハルトは目を逸らした。
「あの金は、本来なら債権者に返すべきものだったそうだ。組合がそう言っている。返せと言われている。だが、うちにはもう何もない」
「ですから、渡した相手から取り返すと」
「……そうだ」
テレーゼは彼を事務室に通した。それからマルタを呼んだ。代わりに答えるつもりはなかった。マルタの金の話だからだ。
マルタは前掛けで手を拭きながら来た。ラインハルトを見て、足を止めた。
「マルタ」
「……はい」
「母が渡していた金だ。返してもらいたい」
マルタは何も言わなかった。それから頷いて、奥へ戻った。
しばらくして、布の袋を持って戻ってきた。
机の上に置いた。重い音がした。
「これで全部です」
「……全部?」
「追い出されてからは、このお金で暮らしました。身重で、働けませんでしたので。去年こちらへ来てからは、給金をいただいております。ですから、それからは一銭も使っておりません」
「この子が大きくなったときに要ると思って、取ってありました。でも、お返しします」
マルタが袋を彼の方へ差し出した。
「お待ちなさい」
テレーゼが言ったのは、ラインハルトにではなかった。
マルタが手を止めた。
「その袋を、しまいなさい」
「……でも」
「いいから、しまいなさい」
マルタは袋を胸に抱えた。
テレーゼはラインハルトに向き直った。
「ラインハルト様。組合が返せと言っている相手は、フェルディン家です。マルタではありません」
ラインハルトが目を逸らした。
「……同じことだ」
「違います」
テレーゼは一歩も動かなかった。
「隠して払ったのはお母上様です。隠されたことを知らずに受け取った者に、返す義務はございません。マルタは、あの家が傾いていることを知りませんでした。知っていたら、受け取らなかったでしょう」
「……」
「それに、あのお金は隠されたものではありません。使われたのです。この子を育てるために。組合がお調べになれば、すぐ分かります」
ラインハルトは何も言わなかった。
「もう一つ申し上げます。仮に取り戻せるお金だとしても、あなた様のものにはなりません。そのまま組合へ行きます。あなた様のお手元には、一銭も残りません」
ラインハルトは黙っていた。
それから、声を落として言った。
「……返したという形が要るのだ。うちが返したという形が」
「形のために、この娘からお取りになるのですか」
「……」
「それでも取り立てるとおっしゃるなら、書面で申し立ててください」
「書面?」
「どなたがどなたに何のためにお渡しになったお金なのかを書かねばなりません。組合はそれを見ます。お書きになれますか」
「……書く」
「では、伺います」
テレーゼは紙とペンを出した。
「お渡しになったのは、フェルディン伯爵夫人。お受け取りになったのは、マルタ。ここまではよろしいですね」
「ああ」
「何のためのお金でしたか」
ラインハルトは黙った。
「乳母への手当、とお書きになりますか。フェルディン家に乳飲み子はおりません。組合はそれを知っております」
「……」
「本当のことをお書きになるなら、お子様の養育のためとなります。どなたのお子様かも書かねばなりません。お名前もです」
ラインハルトは紙を見ていた。
ペンを取らなかった。
「お名前を、ご存じですか」
彼は答えなかった。
マルタが言った。
「トビアスです。二年と八ヶ月になります」
ラインハルトが顔を上げた。
マルタは目を逸らさなかった。
「お母上様は、毎月お金をくださいました。名前は、一度も訊かれませんでした」
部屋が静かになった。
ラインハルトは紙を見ていた。それから、マルタの抱えた袋を見た。
どちらにも手を触れなかった。
「……失礼する」
彼は出ていった。
マルタは袋を抱えたまま、しばらく立っていた。
「テレーゼ様」
「はい」
「わたし、あの方がこの子に会いに来てくださったのだと思ってしまいました」
「……」
「ようやくこの子のことをお知りになったのだと。玄関に立っていらしたとき、一瞬だけそう思いました」
「……ええ」
「もう思いません」
テレーゼは頷いた。
「そのお金は、あなたのものです。この子のお金です」
「よろしいのでしょうか」
「よろしいのです」
テレーゼは手帳を開いた。
「代わりに、書いておきましょう。いつ、どなたから、いくら受け取ったのか。全部書いて、組合に届けを出します。あなたの名前で」
「……なぜですか」
「書いておけば、二度と取りに来られませんから」
「……なぜ、そうなるのでしょうか」
「取り立てるには、こちらの届けと違うことをお書きにならなければなりません」
テレーゼは手帳を閉じた。
「あの方は、それをお書きになれません」
マルタは袋を抱えて、頷いた。
トビアスは奥の部屋で寝ていた。父親が来たことを、この子は知らない。知らせる理由もない。
同じ月に、継母が来た。
救貧院に来たのは初めてだった。四年間、一度も来たことがなかった。
「テレーゼ。お願いがあるの」
「はい」
「エミーリアが困っているの。あの家には本当に何もないのよ。……あなた、お金があるでしょう」
「ありません」
「嘘をおっしゃい。お母様の遺したものを——」
「九月に、全額こちらへ移しました」
テレーゼは言った。
「救貧院を法人にして、そこへ入れたのです。理事は三人おります。わたくし一人では動かせません」
「動かすなら理事会を開いて、使い道を書面にいたします。控えは公証人に預けます」
「ですが、エミーリアに渡すという使い道は理事会を通りません」
「そんな……そんなことが、できるの」
「できます。そのためにいたしました」
「なぜ」
継母の声が裏返った。
「なぜ、そんなことをしたの!」
「三月十四日に申し上げました」
継母は口を開けたまま、何も言わなかった。
「あの日、お義母様は二つめの途中でお立ちになりました。ですから、わたくしは三つめを申し上げておりません」
「……」
「申し上げていたら、何か変わったでしょうか」
継母は答えなかった。
「お帰りください」
継母は帰った。
その冬、薪は足りた。
年が明けて、雪の降る夕方だった。
テレーゼは組合の仕事を終えて、救貧院に戻った。
トビアスが走ってきた。もうすぐ三歳になる。名前を呼ばれて、テレーゼは屈んで抱き上げた。マルタが洗い場から手を振った。
事務室に入ると、ヨナスが名簿を書いていた。
「テレーゼさん」
「はい」
「今日は、何かありましたか」
いつもの問いだった。四年間、この人は毎日それを訊く。四年間、テレーゼは特にありませんと答えてきた。
テレーゼは手帳を置いた。
「……長くなります」
「構いません」
ヨナスは椅子を引いて、座り直した。
テレーゼは話した。三月十四日のことから、全部話した。
ヨナスは一度も遮らなかった。
仕事の話ではなかった。記録の話でもなかった。テレーゼ自身の話を最後まで聞いてもらったのは、母が死んでから初めてだった。




