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偉人の翼~皇帝ナポレオンと名もなきマリー~  作者: トムさん


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第9話 羽虫の蠢きと、泥に沈む絶対回線

一八〇六年、初春。


テュイルリー宮殿、謁見の間。


アウステルリッツの歴史的な大勝から数ヶ月が過ぎてもなお、帝国の中心には、勝利の甘い蜜に群がる無数の「羽虫たち」の羽音が、不快なほどに充満していた。



(……チチチ、カサコソ。……ヒソヒソ、ボソボソ)



玉座の背後に設えられた、分厚い真紅のベルベットの幕の裏側。


その暗がりにひっそりと身を潜めるマリーの脳髄には、宮殿の屋根裏を這うネズミたちの足音や、バルコニーの彫刻に巣食う鳩たちのさえずりと同時に、謁見の間に居並ぶ人間たちの『醜悪な本音』が、途切れることのない生々しい喧騒として流れ込み続けていた。



『……陛下はなぜ、我々軍人に新たな領地をお与えにならないのだ。血を流したのは我々だぞ』



武官(将軍)たちの、血生臭い不満と野心の鼓動。


それに対し、宮殿の柱の陰で扇を弄ぶ文官(政治家や官僚)たちの、冷ややかで狡猾な囁き。



『軍靴を履いた豚どもが、これ以上権力を持てば厄介だ。陛下が奴らをどう扱うか……下手に爵位を乱発すれば、我々の立場が危うくなる』



マリーのオリーブ色の瞳が、幕の隙間から冷ややかに彼らを見下ろす。


軍人も、政治家も。彼らは皆、ナポレオンを「自分たちを太らせるための巨大な果実」としか見ていない。


ナポレオンがどれほど夜の天幕で吐き、震え、睡眠薬にすがりついて泣いているかなど、想像することすらしない傲慢な寄生虫たち。



(……浅ましい。どいつもこいつも、自分のことばかり。でも、絶対にあなたたちの思い通りにはさせないわ)



マリーは、玉座で威風堂々と(しかしその内側では、無数の視線に晒されて胃を痙攣させながら)座っているナポレオンの背中に向けて、細く、絶対的な『神の指示』を送り出す。



「――ナポレオン。彼らに爵位を与えてはいけません。……今回のすべての恩賞は、戦場で死んだ末端の兵士の遺族と、その孤児たちを養うための『年金』として国庫から分配すると、そう宣言するのです」



マリーの透き通った声が、背後からナポレオンの耳にだけ届く。


ナポレオンの肩が微かに揺れ、彼は咳払いを一つすると、マリーが与えたその完璧な『台詞』を、威厳に満ちた低い声で謁見の間に響かせた。



「……余は決定した。アウステルリッツの栄光は、血を流したすべてのフランス人民のものである。よって、将軍たちへの新たな叙爵は見送る。その代わり、国に命を捧げた兵士の未亡人と孤児たちに、帝国から手厚い恩給を生涯にわたって約束しよう」



その宣言が下された瞬間。


謁見の間の空気が、凍りつくような静寂ののち、火薬庫に火を放たれたような凄まじい怒号へと沸騰した。



「なっ……!? お言葉ですが陛下!! それはいかなる仕打ちでございますか!!」



先陣を切って氷の湖を血で染めた武官の一人が、顔を茹でダコのように真っ赤に紅潮させ、玉座の階段の真下まで猛然と歩み寄った。


その太い首には怒りで青筋がミミズのように浮かび上がり、腰に提げたサーベルの柄をギリギリと力任せに握りしめている。



「我々は泥をすすり、命を懸けて陛下の玉座を守り抜いたのですぞ! その血の対価が、死んだ名もなき歩兵の遺族への施しと同じだと仰るのか! これまでの慣例を破り、我々軍人の名誉を足蹴にするおつもりか!!」



一触即発。


皇帝に対する明らかな不敬であり、一歩間違えれば反乱にも繋がりかねない軍人たちのむき出しの殺気。


玉座に座るナポレオンは、そのあまりの剣幕に顔を青ざめさせ、軍服の下でガタガタと膝を震わせた。



しかし、その武官の激昂を見下ろしながら。


幕の裏のマリーは、ただひたすらに冷酷で透明な溜息を漏らしていた。



(怒鳴れば、自分の思い通りになると思っているの? 獣と同じね。……彼に意見する口なんて、一生開けないように縫い合わせてあげる)



「ナポレオン」マリーの静かな声が、再びナポレオンの背中を支える。



「……『余の兵士たちを、名もなき歩兵と侮辱する気か』と、冷たく睨み下ろすのです」



ナポレオンは震えを必死に噛み殺し、言われた通りの言葉を、氷のような眼差しと共に叩きつけた。



「……っ! い、いえ、そういう意味では……!」



「戦死者への慈悲」という絶対的な大義名分と皇帝の冷圧を前に、激昂していた武官は言葉に詰まり、屈辱に唇を噛み破りながら引き下がるしかなかった。



その軍人たちの無様な敗北を、柱の陰から見ていた文官たちの間には、ほっとしたような安堵と、皇帝の見事な政治的采配への感嘆のざわめきが広がった。



『素晴らしい……! 軍靴を履いた野蛮な豚どもを、あの一言で完璧に抑え込んだ!』



『これで軍部の増長は防げる。さすがは皇帝陛下。我々の憂いを、すべて見透かしておられる!』



文官たちの心臓の音が、歓喜と見下しで高鳴るのを、マリーは小鳥の聴覚を通して完璧に拾い上げていた。



(……ええ、そうよ。あなたたち小蝿は、そうやってお互いに牽制し合って、勝手に潰し合っていればいいの)



マリーの唇に、暗く、そして底なしに傲慢な微笑みが浮かぶ。


武官の力を削ぎ、文官を安心させ、民衆の狂信を集める。


これは単なる政治ではない。


ナポレオンに意見できる人間を一人残らず排除し、彼を「誰も触れることのできない高み」へと完全に隔離するための、マリーによる完璧な『箱庭の防衛戦』だった。


この広い宮殿の中で、彼の本当の弱さを知り、彼を操り、彼を抱きしめることができるのは、世界でただ一人、私だけ。


その絶対的な全能感が、マリーの精神を甘く満たしていた。



――しかし。


その完全に支配し尽くしていたはずの箱庭に、名状しがたい『泥』のような不調が混じり始めたのは、それから数週間後のことだった。



(……おかしいわ。頭が……すごく、重い)



春の陽射しが降り注ぐ、テュイルリー宮殿の長い廊下。


ナポレオンの少し後ろを影のように歩きながら、マリーは自身のこめかみを、ひんやりとした指先で強く押さえた。


数日前から、泥沼に首まで沈められたような、異常な倦怠感と気だるさが彼女の全身にまとわりついていた。


そして何より恐ろしいのは、彼女の特異な脳髄を埋め尽くしていた『動物たちのざわめき』に、明らかな狂いが生じ始めていることだった。



いつもなら、窓の外を飛ぶ雀の羽ばたきから、数十メートル先の部屋にいる人間の心拍数まで、硝子のように透明で鮮明な情景として把握できていた。


しかし今の彼女の耳には、それらがまるで『分厚い水底から響いてくるようなどぐもった雑音』にしか聞こえないのだ。


世界がぐにゃりと歪み、突然、強烈な眠気と眩暈が、刃物のように彼女の意識を刈り取りにくる。



(どうして……? 私の頭が、溶けていくみたい……。何万もの鳥やネズミの声を処理しすぎて、ついに脳が焼き切れてしまったの?)



マリーは、冷や汗の浮かんだ自分の震える両手を見つめ、強烈な恐怖と焦燥感に唇を噛み締めた。



(ダメ、しっかりしなさい……っ。私が休んだら、私の頭が壊れてしまったら、誰が彼をこの恐ろしい世界から守るの。……こんな泥の中で生まれた出来損ないの体が、一番大切な時に機能不全を起こすなんて……っ!)



その時だった。



「――陛下。少し、よろしいでしょうか」



執務室に向かおうとしていたナポレオンの前に、数人の高位の文官たちが、ひどく神妙な、そして重苦しい面持ちで立ち塞がった。


彼らのただならぬ空気に、ナポレオンの足がピタリと止まる。


マリーもまた、気力を振り絞って彼らの思考を読み取ろうと、壁の裏のネズミの聴覚に意識を繋ごうとした。



(読んで……っ。彼らが何を企んでいるか。彼に、何を突きつけようとしているのか……っ)



しかし、ダメだった。


ザァァァァッ、という激しい耳鳴りが脳内を駆け抜け、視界が白く明滅する。


強烈な吐き気が胃袋からせり上がり、マリーは思わずフラリとよろめき、壁に背中を預けて荒い息を吐いた。



「なんだ。急ぎの案件か?」



ナポレオンが、努めて威厳のある声を取り繕って尋ねる。


文官の一人が、深く一礼してから、ヨーロッパの歴史の根幹を揺るがす最も重く、残酷な『事実』を口にした。



「……恐れながら、陛下。アウステルリッツの勝利により、陛下の帝国は不動のものとなりました。しかし、その広大な帝国を盤石なものとするためには、ただ一つ、決定的に欠けているものがございます」



「欠けているもの……?」



「はい。……『正統なる血統』、すなわち、帝国を継ぐべき屈強なる『男児(世継ぎ)』でございます」



ドクン、と。


ナポレオンの心臓が、肋骨を叩き割るような異常な音を立てた。


文官の言葉は、氷のように冷徹に続く。



「現在の皇后ジョゼフィーヌ様との間に、いまだご子息は誕生しておられません。このままでは、万が一陛下に不測の事態が起きた際、国は再び内乱の火の海に沈みます。……陛下、国家の安寧のため、どうか、重大なる『ご決断』を」



それは、暗に「ジョゼフィーヌと離縁し、血筋の良い若い皇女と再婚して子供を作れ」という、国家からの絶対的な重圧(無言の命令)だった。


ナポレオンの顔面から、一瞬にして血の気が引き、蒼白な死人のような色に染まる。



(血統……? 世継ぎ……? 俺が……っ?)



ナポレオンの頭の中で、巨大な警鐘がガンガンと鳴り響き始めた。


アウステルリッツで何万人を殺しただけでも発狂寸前だったというのに、今度は「帝国の未来」という途方もない概念までもが、生殖という形で彼個人の肉体にのしかかってきたのだ。


胃の奥底から、あの焼け付くような嘔吐感が猛烈な勢いでせり上がってくる。


軍服の襟元が、一瞬にしてじっとりとした冷や汗で濡れた。



(どうすればいい。何を答えればいい。ジョゼフィーヌと別れる? 別の国の女を抱く? そんな政治的な大問題、俺の器で判断できるわけがない……っ!)



恐慌状態に陥ったナポレオンの自我は、完全に「退行した赤子」の状態へと叩き落とされた。


彼は、すがるような、血走った、助けを求める切実な目で。


自分のすぐ斜め後ろの暗がりに控えている、絶対的な『命綱』へと視線を向けた。



(マリー。マリー、助けてくれ。俺に答えを教えてくれ。お前が俺の口を動かしてくれ……っ!!)



声にならない絶叫。


彼がこれまでのすべての危機を乗り越えてきた、完璧で絶対的な共依存の回線。


彼が視線を送りさえすれば、マリーは必ず、最も正しく、彼を絶対に傷つけない完璧な答えを、その美しい唇で囁いてくれるはずだった。



しかし。


ナポレオンのその祈るような視線は、虚しく空を切り、どこにも届くことはなかった。



「…………っ、はぁ、はぁ……っ」



壁に背中を預けたマリーは、目をきつく閉じ、胸元を強く握りしめていた。


彼女の顔はひどく青ざめ、額には脂汗が浮いている。


猛烈な眠気と、立っているのもやっとの強烈な眩暈。


耳の奥で鳴り続ける濁った耳鳴りのせいで、彼女はナポレオンが今、極限の恐怖で自分を見つめていることに、全く、ただのの一ミリも気がつくことができなかったのだ。



(気持ち悪い……世界が、回っている……っ。ダメ、お願い、私の脳……もう一度働いて……っ。彼が私を必要としているのに……っ!)



自身の頭蓋が内側から腐っていくようなおぞましい不調が、彼女の意識を強制的に暗転させようと、容赦なく肉体を蝕んでいく。


マリーの瞼は鉛のように重く、彼女はただ、必死に自分の吐き気を堪えることだけで精一杯だった。



「……陛下? いかがなされましたか?」



沈黙を続けるナポレオンに、文官がいぶかしげに声をかける。



(マリー……っ!? マリー!! なぜだ、なぜ俺を見てくれない!!)



ナポレオンの心臓が、恐怖で完全に凍りついた。


彼の視線の先で、マリーはただ俯き、苦しそうに肩で息をしている。


彼女からの「答え」は、一秒待っても、十秒待っても、決して与えられることはなかった。


初めて、本当に初めて。


彼はこの恐ろしい帝国のド真ん中で、補助輪を外され、たった一人で「皇帝としての決断」という化け物と対峙させられてしまったのだ。



皇帝の孤独な玉座。


完璧だったはずの二人の不可視の繋がりが、無自覚な『肉体の決定的な綻び』という最も残酷な形で、音を立てて千切れ落ちた、致命的な瞬間だった。



テュイルリー宮殿の長い廊下に、とてつもない沈黙が降りていた。



「……陛下? いかがなされましたか?」



文官の声が、泥のように濁ったナポレオンの鼓膜を、遠く離れた異国の鐘の音のように叩く。



ナポレオンの目は、血走ったまま、斜め後ろの壁に背を預けて崩れかけ、目をきつく閉じているマリーの姿に釘付けになっていた。


いくら視線を送っても、どれほど心の中で絶叫しても、彼女からの『答え』は戻ってこない。


補助輪を外され、世界中から孤立した孤独な玉座に、たった一人で放り出されたという、底知れぬ恐怖。


その恐怖が極限に達した瞬間、ナポレオンの精神の中で、何かが音を立てて弾け飛んだ。



(マリーが……俺の、たった一つの呼吸器が、壊れてしまう……っ!)



国家の存続?


世継ぎ?


離縁?


そんな政治の高度な盤面など、今の彼の脳裏からは綺麗さっぱりと消え失せていた。


ただひたすらに、「彼女がいなければ、俺は明日、息をすることすらできない」という、原始的で、あまりにも矮小な凡人としての生存本能だけが、彼の肉体を突き動かした。



「……っ!!」



ナポレオンは、眼前に立ちはだかっていた高位の文官たちを、まるで邪魔な石ころのように乱暴に突き飛ばした。



「ひっ……! べ、陛下!?」



驚愕に目を見張る文官たちを無視し、彼は数歩でマリーの元へと駆け寄ると、壁からずり落ちかけていた彼女の華奢な体を、皇帝の軍服が汚れるのも厭わず、その腕で力任せに抱き上げた。



「マリー!! マリー、目を覚ませ! しっかりしろ!!」



それは、ヨーロッパの覇者が、たかが泥にまみれた小間使いに向けるものとしては、あまりにも異様で、あまりにも必死な、狂気を孕んだ叫びだった。


宮廷の厳格な階級社会において、皇帝自身が身分の低い使用人を介抱するなど、常識では絶対にあり得ないタブー(禁忌)である。


周囲の文官たちは、その信じられない光景を前に、まるで化け物を見るような畏怖と、名状しがたい嫌悪の色を浮かべて絶句した。



(重い……っ。彼女の体が、鉛のように重い……っ。壊れないでくれ、俺を置いていかないでくれ……!!)



ナポレオンは、ガタガタと全身を震わせながら、意識を失ってぐったりとするマリーを腕に抱き、最も近くにあった私室の扉へと、転がるように逃げ込んだ。



バタンッ、と。


重厚なマホガニーの扉が閉まり、外の文官たちの好奇と嫌悪の視線が遮断される。



しかし、逃げ込んだその部屋は、彼にとっての安息の地ではなかった。


そこは、他でもない――皇后ジョゼフィーヌの私室、その控えの間であったのだ。



「……あら、大仰な音を立てて。一体何事かしら、ナポレオーネ」



部屋の奥、豪奢な長椅子ソファに横たわっていたジョゼフィーヌが、退屈そうにページをめくっていた本を置き、不機嫌そうに顔を上げた。


薔薇の香油の甘い匂いが、部屋の空気にねっとりと充満している。



ジョゼフィーヌの冷ややかな視線が、青ざめた顔で寝着同然の侍女マリーを抱きかかえる夫の姿を捉えた、その瞬間。


彼女の美しい眉が、不快げにピクリと跳ねた。



「……まあ。まあ、なんてこと。皇帝ともあろうお方が、みすぼらしい小間使いの介抱に、これほどまでに必死になるなんて」



ジョゼフィーヌは、ソファからゆっくりと身を起こし、蔑みと、誇り高き貴婦人としての底なしの嫌悪を込めて、ナポレオンを冷酷に射抜いた。



「下品ね。本当に、下品な男。コルシカの田舎者は、どれほど飾り立てても、泥まみれの雌に発情する習性は変わらないのね。……私の部屋で、そんな汚らわしい真似をしないで頂戴」



彼女にとって、ナポレオンのこの異常な行動は、自分に対する侮辱以外の何物でもなかった。


たかが泥の中で生まれた気味の悪い女に、夫がこれほどまでに心を乱している……。その事実は、彼女の自尊心を深く傷つけ、冷徹な嫉妬の炎を燃え上がらせた。



(違う。離縁の話を……俺を、一人にしないでくれ……っ)



ジョゼフィーヌの冷たい蔑み。


外にいる文官たちからの、世継ぎ(離婚)への圧力。


そして、腕の中で冷たくなっていく、俺のすべてである少女。


あらゆる方向から押し寄せる重圧に、凡人であるナポレオンの精神は、完全にキャパシティオーバー(許容量超過)を起こし、音を立てて崩壊した。



彼は、その場に膝をつき、マリーを床の絨毯の上にそっと横たえると、ジョゼフィーヌの罵倒を否定するように、すがりつくような、そして泣きじゃくるような声で、決定的な失言を口にしてしまった。



「違う……っ、ジョゼフィーヌ、違うんだ!! 俺には……俺には、彼女が必要なんだ!! マリーがいなければ、俺は死んでしまうんだ!! マリー、目を覚ましてくれ……っ! 俺を見捨てないでくれ!!」



その瞬間。


ジョゼフィーヌの顔から、すべての表情が抜け落ち、蠟のように真っ白に凝固した。



「……今、なんて言ったの?」



彼女の声は、低く、身を裂くような殺意に満ちていた。



「彼女が必要? 私ではなく、この、泥にまみれた……マリーとかいう、薄汚い小間使いが? ……ナポレオーネ。あなた、今、この私の前で、別の女への愛を、誓ったというの?」



ジョゼフィーヌの美しい瞳が、嫉妬と怒りで真っ黒に濁る。


彼女の手が、震えながら、傍らにあったクリスタルの水差しを掴んだ。


それを夫の顔面に投げつけ、そのみすぼらしい侍女共々、この部屋から、この世界から排除してしまいたいという、狂気的なまでの衝動。



宮殿の奥深く、甘い薔薇の香りに包まれた密室で。


皇帝の決定的な不倫の告白(と、ジョゼフィーヌには聞こえた)が、決定的な修羅場の幕を上げようとしていた。



――その、破滅の一歩手前の瞬間。



「…………っ、あ……」



絨毯の上に横たわっていたマリーの喉から、掠れた、そしてひどく苦しげな、魂の底から絞り出したような呻き声が漏れた。


自身の頭蓋が内側から腐っていくようなおぞましい耳鳴りと眩暈。意識が強制的に暗転しようとする闇の中で。


彼女の知覚は、自身の不調よりも、愛する神様ナポレオンが今、極限の危機に瀕していること、そして自分という存在のせいで、彼の玉座が、彼の命が、最悪の危機に晒されていることを、水底から響いてくるような濁った音の中で咀嚼(把握)していた。



(……私の、せいで……。彼が……傷つく……っ)



嫉妬に狂うジョゼフィーヌ。パニックになり、子供のように泣きじゃくりながら自分を呼ぶナポレオン。


このままでは、彼は皇后への不貞と、皇帝としての威信を完全に失い、玉座から引きずり下ろされる。


それは、マリーが最も恐れていた「神様の死」と同義だった。



(ダメ……っ。私が……私が、なんとかしなさい、マリー……っ。こんな泥の体……今すぐ、死んでもいい……っ! 彼を、守りなさい……っ!!)



マリーは、自身の脳髄に張り付いたおぞましい倦怠感と眠気を、気力という名の冷たい炎で無理やり焼き切った。


彼女は、痺れる体を死に物狂いで動かし、床に這いつくばるようにして、ナポレオンとジョゼフィーヌの間に、その体を滑り込ませた。



「皇后陛下……っ! お許し……お許しください……っ!!」



マリーは、額を泥深い床の絨毯にこすりつけ、全身を激しく震わせながら、裂けた喉から血を吐くような思いで言葉を紡いだ。


それは、愛する彼を救うための、完璧で、そして致命的な『最悪の嘘』だった。



「皇帝陛下は……陛下は今、極度の重圧と、ご心労のあまり……錯乱しておられるのです……っ」



「錯乱? この小間使いが、何を……」



「文官様たちから……『正統なる血統』、すなわち……世継ぎを迫られ……離縁の二文字を突きつけられた陛下は……そのお苦しみのあまり、……かつてエジプトで……あなたへの愛を誓った……あの夜のように……」



マリーは、眩暈で世界が白く明滅する中、自身の最後の忠誠心として、ナポレオンがエジプトで(マリーが代筆して)ジョゼフィーヌに送った愛の言葉を、この絶体絶命の修羅場の『盾』として利用した。



「あなたを深く、あまりにも深く愛しておいでだからこそ……あなたを失うことの恐怖に、……そして、国家が求める『正しい世継ぎの母』としての……あの、オーストリアの皇女、……マリー・ルイズ様との政略結婚という……」



マリーの口から、決定的な言葉がこぼれ落ちた。


マリー・ルイズ。


全ヨーロッパが認める高貴なる血統、ハプスブルク家の皇女。



「その……あまりにも気高く、美しい皇女との結婚という……身を切るような重圧に、……陛下の心は、耐えきれず……。今、思わず、あなたを想って……『マリー(ルイズ)』様の名を、……ジョゼフィーヌ様、あなたへの愛と、国家への義務の狭間で、……錯乱して口走ってしまわれたのです……っ!!」



マリーは、額を床にこすりつけたまま、全身の血液を最後の一滴まで使い果たすような思いで、その嘘を叫び切った。



「私が……私が、不調のあまり、陛下に抱き抱えられたのも……すべては、陛下が錯乱しておいでだからです……っ! 私のような、泥の中の羽虫など……陛下は、欠片も、ご覧になってなどおりません……っ! 陛下が、愛しておいでなのは……必要としておいでなのは……ジョゼフィーヌ様、あなたただ一人……そして、国家が求める、あの高貴なる『マリー(ルイズ)』様の血統だけなのです……っ!!」



シーン……と。


薔薇の香る密室が、水を打ったように静まり返った。



「……マリー・ルイズ……? オーストリアの皇女……?」



ジョゼフィーヌの掴んでいた水差しが、その手から力なく滑り落ち、絨毯の上に鈍い音を立てて転がった。


マリーが吐いた、あまりにも具体的で、あまりにも政治的に完璧な、そして何より「ジョゼフィーヌの自尊心を最高に満たす」嘘。



「ナポレオンは、自分を失うことが怖くて錯乱した。そして、国家のために、自分よりも高貴な血統マリー・ルイズとの結婚という重圧に押し潰されそうになっている」。



その『完璧な翻訳』を聞いた瞬間。ジョゼフィーヌの胸を塞いでいた嫉妬の炎は、ふっと嘘のように消え去り、代わりに、自分こそがこの国の運命を握る皇帝ナポレオンの『唯一の最愛の妻』であるという、底なしの全能感と自尊心が、彼女の精神を甘く満たしていった。



(……ああ。そうなの。そうなのね。ナポレオーネ……あなたは、私を失うことが、それほどまでに怖かったのね)



ジョゼフィーヌの冷酷だった瞳に、初めて、勝利した女の甘美で妖艶な微笑みが宿った。


彼女は床に這いつくばるマリーには見向きもせず、膝をついて呆然としているナポレオンを見下ろし、その頬に、冷たい、けれどこの上なく優しい、完璧な『皇后の赦し』の手を差し伸べた。



「可哀想に、ナポレオーネ。……国家の重圧が、あなたをこれほどまでに苦しめていたなんて。……私が、私だけが、あなたのその苦しみを分かってあげられるわ」



ジョゼフィーヌの、甘く、そして決定的にナポレオンを支配する声。


彼女の手が、ナポレオンの震える頬を撫でる。



(……マリー? ……ルイズ……?)



ナポレオンは、ジョゼフィーヌの温もりを感じながらも、その視線は、自分の足元、床に額をこすりつけたまま、ピクリとも動かなくなったマリーの背中に、虚しく釘付けになっていた。



マリーが、俺を救うために、嘘を吐いた。


それは分かった。


だが、彼女が口にしたその嘘は、……あの「マリー・ルイズとの結婚」という言葉は。


それは、彼女自身が、俺の隣に立つことを諦め、俺を、あの見知らぬ高貴な皇女の元へと押しやる、決定的な『お別れの言葉』ではなかったのか。



俺は、お前が必要だと叫んだ。


お前は、俺に「あなたは、マリー・ルイズという高貴な女を愛している」と、完璧な皇帝としての『答え』を翻訳した。



「……陛下? いかがなされましたか?」



ジョゼフィーヌが、妖艶な笑みで首を傾げる。


文官たちからのプレッシャー(離婚)から逃れるために。彼が皇帝であり続けるために。


彼を守るために。


マリー自らの唇で吐き出された、世界で最も残酷で、最も完璧な、二人の決定的な「繋がり」を葬り去るための翻訳。



薔薇の香りの密室で、一切の理解が致命的にすれ違ったまま、二人の絶対的だった箱庭は、こうして、マリー自身の自己犠牲の炎によって、内側から完璧に、そして永遠に崩壊したのだった。


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