第8話 アウステルリッツの氷華、狂気の子守唄
一八〇五年、十二月。
モラヴィアの凍てつく平原、アウステルリッツ。
肌を刺すような絶対的な冷気が、大地をカチカチに凍らせ、吐く息さえも空中で白く凍りつくような極寒の朝だった。
(……チチチ、カサコソ、ガリッ、ガリッ……)
皇帝の天幕の奥深く。
分厚い毛皮の絨毯の上に正座したマリーの脳髄には、外の静寂とは裏腹に、けたたましくも統制の取れた「小動物たちの作業音」が、オーケストラのように心地よく鳴り響いていた。
彼女の意識の半分は、天幕の中に留まっていない。
数キロ先の暗闇の中、ロシア・オーストリア連合軍の巨大な野営地。
その足元を這い回る、何万匹という漆黒のドブネズミや野犬、そして越冬のために土に潜っていたはずの無数の虫たちの群れと、完全にリンクしていた。
(あっちの小麦粉の袋、底の縫い目から食い破って。……そう、上手ね。次は、弾薬庫の火薬樽。樽の隙間から入り込んで、湿った泥と糞をこすりつけて頂戴)
マリーのオリーブ色の瞳が、うっとりと細められる。
彼女の指先が微かに動くたび、遠く離れた敵陣では、凄まじい規模の「静かなる兵站の破壊」が進行していた。
ネズミの鋭い歯が、兵士たちが明日口にするはずだった貴重な黒パンを齧り、腐敗菌を撒き散らす。
野犬たちが輜重の馬を怯えさせて逃亡させ、無数の虫たちが井戸の水に身を投げて致命的な汚染を引き起こす。
腹を空かせ、寒さに凍え、病に倒れていく数万のロシア兵たち。
その凄惨な地獄絵図を俯瞰しながら、マリーの心に浮かんでいたのは、敵兵への憐憫でも、残酷な戦術への罪悪感でもなかった。
(よかった。これで、彼をいじめようとする悪い兵士たちは、みんなお腹を空かせて、まともに銃も構えられなくなるわ)
それは、愛する我が子が遊ぶ庭から、転んで怪我をしそうな石ころをあらかじめ拾い集めておくような、無垢で純粋な「母親の庭掃除」と全く同じ感情だった。
かつては、ただ情報を集めるだけだったマリーの特異な異能。
しかし、彼女が「外界への不快感(殺意)」を明確に抱いたノートルダムの戴冠式以降、その力は『能動的な破壊工作』へと、明確に、そして凶悪に進化を遂げていた。
(この戦いは、絶対に『彼の指示』だけで勝たなければならない。……あの傲慢な将軍たちに、少しの手柄も、口出しする隙も与えてはならないのだわ)
マリーは、皇帝の軍服を着て怯えるナポレオンの周囲に群がる、有能な元帥たちの顔を思い浮かべ、冷たい殺意を滲ませた。
彼らが戦場で機転を利かせ、自分たちの力で勝利をもぎ取ってしまえば、彼らは「皇帝を支える実力者」として権力を持ち、ナポレオンに意見するようになる。
それは、マリーが丹精込めて作り上げた「彼と私だけの絶対の箱庭」を脅かす、最も不純で危険なノイズだ。
だからこそ、マリーは敵を徹底的に弱らせた。
将軍たちのいかなる戦術も必要ないほどに。
ただ、ナポレオンがマリーから教えられた通りのタイミングで、教えられた通りの数字(指示)を口にするだけで、面白いように敵が自滅していく『完璧すぎる盤面』を、あらかじめ用意したのだ。
そうすれば、すべての栄光は「皇帝個人の神算鬼謀」として歴史に刻まれ、将軍たちはただの手足に成り下がる。
彼は、誰にも脅かされない孤高の頂で、永遠にマリーだけのものになる。
(さあ、私の神様。私がすべてを整えました。あとは、あの愚かな羽虫たちを、あなたの声で払い落とすだけですよ)
やがて、アウステルリッツの平原に、分厚い冬の霧を切り裂くように、血のように赤い太陽――後に『アウステルリッツの太陽』と称される奇跡の光が昇り始めた。
プラッツェン高地の頂上。
何十人もの元帥や幕僚たちを背後に従え、白馬に跨る皇帝ナポレオン・ボナパルト。
その威風堂々たるシルエットは、朝日に照らされてまさに「戦神」そのものだった。連合軍の動きを見下ろし、ピタリと動かないその後ろ姿に、フランス軍の全将兵が畏怖と狂信の眼差しを向けている。
しかし、その分厚い軍服の内側で。
ナポレオンの肉体は、極度の恐怖とプレッシャーによって、白馬の鞍から転げ落ちそうなほどガタガタと激しく震え続けていた。
(……吐きそうだ。胃が……胃の裏側が、焼け焦げそうだ……っ)
胃袋は数日前から固形物を一切受け付けず、胃液ばかりを吐き続けているせいで、喉の奥から常に血の味がした。
彼の眼下では、ロシア・オーストリアの九万人近い大軍が、地鳴りのような足音を立てて進軍してきている。
自分がここで、口を開き、号令を下す。
そのたった一言で、何万人もの人間が肉片となって吹き飛び、歴史が変わる。
その天文学的な命の重圧が、凡人の器しかない彼の精神を、ミシリ、ミシリと音を立ててすり潰していた。
「……陛下。敵の左翼が手薄になりました! 今こそスルト元帥の軍団を突撃させるべきでは!?」
焦った幕僚が声を上げる。
しかし、ナポレオンは一切振り返らず、氷のように冷え切った指先で手綱を握りしめたまま、ひたすらに「ある感覚」だけを待ち続けていた。
ナポレオンの後方には、何十門もの大砲がずらりと並び、砲兵たちが今か今かと「戦神の号令」を待ちわびている。
彼らもまた、極寒の気温と極度の緊張によって、神経の糸が弾け飛ぶ寸前まで張り詰めていた。
「陛下はなぜ動かれない」
「いつ撃てばいいのだ」
数万の兵士の無言の重圧が、物理的な棘となってナポレオンの背中に突き刺さる。
本当なら今すぐ両耳を塞いで、馬から飛び降りて逃げ出したかった。
(違う。まだだ。……マリーは、まだだと言っている)
彼の右手の軍手の中。
小指の先に、マリーが潜り込ませた一匹のクモが張り付いている。
遠く離れた天幕にいるマリーが、上空の猛禽類の目を通して戦場を完璧に俯瞰し、敵の疲労度、火薬の湿り気、そして最も致命的な一撃を与えられる「その瞬間」を計算し尽くしている。
何万の敵兵を前にして、フランスの皇帝がすがりついているのは、己の知略でも将軍の進言でもない。
ただ一人の少女が操る、虫の微かな蠢きだけだった。
(怖い……っ。俺が間違えたら、俺が少しでも指示を噛んだら、俺は……俺は……っ!!)
極限の恐怖で呼吸が止まりかけた、その瞬間。
チクリ、と。
軍手の中のクモが、ナポレオンの小指を強く噛んだ。
「――ひっ!? 痛っ……!!」
ナポレオンの口から漏れたのは、勇ましい号令などではなかった。
突如指先に走った鋭い痛みに、極限まで張り詰めていた凡人の神経が暴発し、裏返ったような情けない悲鳴が漏れ出たのだ。
ビクンッ、と彼の体が大きく跳ね上がり、驚きのあまり、腰に提げていた指揮剣の柄から手が滑り落ちる。
それは、どこからどう見ても、ただ虫に噛まれて驚いただけの、みっともない青年の姿だった。
しかし。
その「皇帝の予期せぬ大きな動き」を、後方で極度の緊張状態にあった一人の若い砲兵が、血走った目で捉えてしまった。
「……っ! 陛下が動かれた! 撃ての合図だ!!」
パニックに近い錯乱状態にあった砲兵は、ナポレオンの悲鳴を「全軍への攻撃命令」だと完全に誤読し、反射的に手元の導火線に火を放ってしまったのだ。
ドゴォォォンッ!!
「なっ……馬鹿野郎、まだ仰角の調整が終わってないぞ!!」
中隊長の怒声も虚しく、一門の大砲がフライングで火を噴いた。
慌てて放たれた黒い鉄球は、当然のごとく狙いを大きく外し、前進してくるロシア軍の頭上を越えて――彼らの後方、退却路として広がっていた『サッチャンの氷湖』のど真ん中へと、虚しく着弾した。
パラパラと氷の欠片が舞い散る。
敵兵を一人も殺せなかった、完全に無意味な誤射。
ナポレオンは恐怖に顔を引き攣らせ、「俺は何も言ってないぞ!?」と叫ぼうと振り返りかけた。
だが、その瞬間。
砲撃の轟音とともに双眼鏡で氷湖を見ていたスルト元帥が、信じられないものを見たかのように、ハッと息を呑んだ。
「……まさか……! 敵の重装歩兵が、あの氷の上に密集している……!?」
「……っ! そうか!! 陛下はあの砲兵にだけ密かに指示を出し、『氷の強度』を測るための威嚇射撃を命じられたのだ!!」
「なんという神算鬼謀……! 敵をあえて氷上に誘い込み、足元から水底へ沈めるおつもりか!!」
幕僚たちの間で、恐るべき「天才的戦術の誤読」が、まるで乾いた薪に火が燃え広がるような速度で連鎖し始めた。
「陛下の御意志に応えよ!! 大砲の仰角を下げろ!! 狙うは敵兵ではない、足元のサッチャンの氷湖だ! 撃てェェェッ!!」
元帥の号令のもと、残る数十門の大砲が一斉に火を噴いた。
マリーの計算通りの完璧なタイミングで、しかも皇帝の意志とは全く無関係な「ただの偶然の連鎖」によって放たれた鉄球の群れは、恐ろしいほどの精度で氷の湖へと叩きつけられていく。
メキッ……ピシィィィィィッ!!
分厚い氷盤に、致命的な亀裂が走る破砕音。
それが、何万人もの命の終わりを告げる、絶望の鐘の音だった。
「なっ……!?」
「氷が……氷が割れるぞ!!」
マリーの工作によって食料を絶たれ、体力を限界まで削られていたロシア兵たちに、足元の崩落から逃れる機動力など残されてはいなかった。
轟音と共に、巨大な氷の床が完全に崩壊する。
「ぎゃあああああっ!!」
「助け……冷たっ、ひぃぃぃぃっ!!」
阿鼻叫喚の悲鳴が、氷の割れる音にかき消されていく。
重い軍服と装備を身につけた数万の兵士、そして馬たちが、マイナス数十度の凍てつく黒い水の中へと、次々に雪崩を打って引きずり込まれていった。
もがき苦しみ、仲間の頭を踏み台にして浮き上がろうとする者たちも、すぐさま容赦ないフランス軍の追撃の砲火を浴びて、血飛沫を上げながら暗い水底へと沈んでいく。
純白だった氷の湖が、瞬く間に赤黒い血と泥の色に染まり、やがて無数の死体が浮かぶ巨大な墓標へと姿を変えた。
「おおおおおっ!!」
「見たか! 皇帝陛下の神算鬼謀を! 敵は一網打尽だ!!」
「我らが皇帝陛下、万歳! ボナパルト陛下、万歳!!」
味方の兵士たちが狂喜乱舞し、プラッツェン高地に地鳴りのような歓声が響き渡る。
元帥たちでさえ、己の想像を絶するこの冷酷で完璧な勝利を前に、ナポレオンの背中に底知れぬ恐怖と畏敬の念を抱き、完全にひれ伏していた。
しかし。
その歓声の中心で、白馬に乗ったナポレオンの耳には、味方の称賛など一切届いていなかった。
彼の視界を埋め尽くしているのは、自分の意志など微塵も介在していない、単なる偶然の誤射と勘違いのせいで、数万の人間が冷たい水の中でもがき苦しみ、無惨に死んでいったという、取り返しのつかない殺戮の光景だけ。
(違う。俺じゃない。俺は何も命令していない。ただ、虫に噛まれて驚いただけだ……っ!)
ナポレオンは心の中で、血の涙を流しながら叫んでいた。
今すぐ「あれは事故だ」と否定しなければ。
だが、周囲から突き刺さる数万の狂信的な眼差しが、見えない鎖となって彼の喉を物理的に締め上げる。
己が何もコントロールしていない単なる「間違い」が、世界最高の「英雄の決断」として歴史に刻まれ、その大量殺戮の十字架だけが、凡人の両肩にずしりと重くのしかかっていく。
ガタガタ、ガタガタと。
ナポレオンの全身を、冬の寒さとは全く別の、魂の底からの震えが支配していく。
今すぐ馬から転げ落ち、頭を抱えて泣き狂いたかった。
だが、周囲には数万の「皇帝を崇拝する目」が彼を監視している。
彼は血を吐くような思いで、その冷酷な「戦神」の仮面を顔面に縫い付けたまま、限界を迎えた自らの精神がミシリと崩壊していく音を、ただただ絶望の中で聞いていた。
――同時刻。皇帝の天幕。
(……ええ。とても、とても美しい絵画です。陛下)
遥か上空を旋回する鷹の瞳を通して、氷の湖に沈む数万の死体と、それを見下ろして白馬に跨るナポレオンの姿を俯瞰していたマリーは、ほう、とうっとりとした熱い吐息を漏らした。
彼女の瞳に映る凄惨な地獄絵図は、純度100%の無垢な愛情によって、完璧に補正されている。
氷の湖は、彼を飾るための美しい宝石箱。
死んでいく敵兵の悲鳴は、皇帝の威光を讃える賛美歌。
そして、彼を畏怖の目で見上げる将軍たちの姿は、もはや彼に逆らうことのできない「ただの手足」が完成した証明。
「これで、誰もあなたの手柄を奪えません。あなたは世界でただ一人、完全に孤立した、誰も逆らえない絶対の玉座を手に入れたのです」
マリーは、誰の血も浴びていない真っ白な自分の両手を胸の前でそっと組み、聖母のように優しく、そして背筋が凍るほど無邪気な微笑みを浮かべた。
誰も彼を脅かさない。
誰も彼に追いつけない。
だからこそ、彼はその途方もない重圧と孤独に耐えきれず、私の元へと逃げ帰ってくるしかないのだ。
「早く帰ってきてくださいね。私の神様。……私が、うんと甘やかして、休ませてあげますから」
暗い天幕の中。
外界の凄惨な勝利と、愛する男の精神の崩壊を完全にコントロールした泥生まれの少女は、彼が泣きながらすがりついてくる「その時」を待ちわびて、狂気に満ちた甘い子守唄を、喉の奥で静かに口ずさみ始めていた。
皇帝の天幕の分厚い布が、乱暴に跳ね上げられた。
「――っ、おぇっ、げ、あ……ッ!!」
外の氷点下の冷気と、数万の将兵による狂乱の祝砲の音を断ち切るように。
天幕に転がり込んできたナポレオンは、入口の絨毯に四つん這いになるや否や、胃袋の底から黄色い胃液と血の混じった不純物を激しく吐き戻した。
「ナポレオン」
奥の暗がりで待っていたマリーが、静かに滑るような足取りで近づく。
彼女の視界に映る彼は、もはや「ヨーロッパの覇者」でも「戦神」でもなかった。
豪奢な真紅の軍服は雪と泥にまみれ、肩の金モールは無惨に引きちぎれかけている。帽子をかなぐり捨て、泥水に顔を突っ込むようにしてえずくその後ろ姿は、路地裏で石を投げられ、恐怖に震えていたあのコルシカの少年から、何一つ成長していなかった。
「……違うんだ、マリー……俺じゃない、俺は……っ」
ナポレオンは、吐瀉物で汚れた口元を拭うことすら忘れ、血走った目でマリーの粗末なスカートの裾にすがりついた。
ガチガチと鳴る歯の根が、彼の魂が完全に砕け散る寸前であることを告げている。
「俺は、何一つ命令なんてしていない……! ただ虫に噛まれて、痛くて声を上げただけなんだ! それなのに……俺のただの悲鳴のせいで、大砲が火を噴いて、氷が割れて……何万人も、何万人もの人間が、冷たい水の中で顔を引き攣らせて死んでいった……っ!」
悲鳴のような、懺悔の絶叫。
彼の手のひらが、自分の頭を掻きむしる。
「外の奴らは、俺を神だと讃える! 俺がすべてを見通して、氷を割ったのだと! 違う、俺はただ怯えていただけの空っぽの偽物なのに……! 何万人もの命を偶然で踏み潰した俺を、誰もが万歳と叫んで褒め称えるんだ! 狂ってる……世界も、俺も、全部狂ってる!!」
極限のストレスと、自己の意志が介在しないまま肥大化していく「大量殺戮者としての英雄像」。
その決定的な矛盾が、凡人である彼の精神のキャパシティを物理的に引き裂き、完全に発狂の淵へと追い詰めていた。
(……ああ。可哀想に。私の愛しい神様)
しかし。
彼がどれほど凄惨な事実を告白し、血の涙を流して絶望しようとも。
マリーのオリーブ色の瞳の奥には、さざ波一つの動揺も起きてはいなかった。
偶然の誤射?
将軍たちの勘違い?
それがなんだというのだろう。
マリーにとって、外界で何万人がどのように死のうが、誰がどのような経緯で勘違いをしようが、そんな「経過」は路傍の石ころほどの価値もないのだ。
結果として、彼は誰にも手柄を奪われず、誰にも逆らわれない「絶対の玉座」に完全に孤立した。
そして今、私の前でだけ、こうして泣き叫び、私にすがりついている。
(彼を苦しめるのは、いつだってあの『外の世界』だ。彼の弱さを許さず、勝手に重たい王冠を被せ、無理やり立たせようとする冷酷な世界)
マリーは、冷たい床に膝をついた。
そして、吐瀉物の匂いと冷や汗にまみれたナポレオンの頭を、自らの細い胸に、祈るようにぎゅっと抱き寄せた。
「大丈夫ですよ。ナポレオン」
「ひっ、ああああっ、マリー……! 怖い、助けてくれ……俺の頭の中で、ずっと氷が割れる音がするんだ……人が、人が沈んでいく音が……!」
「もう、見なくていいんです。何も、聞かなくていいんですよ」
マリーは懐から清潔な布を取り出し、彼の汚れた口元を、赤ん坊の涎を拭うように優しく、丁寧に拭き取っていく。
「眠れないんだ……っ。薬を……あのアヘンの睡眠薬をくれ……っ。気絶でもしないと、俺は自分の脳髄を撃ち抜いてしまいそうだ……っ」
ナポレオンが震える手で、野戦机の上に置かれていた小瓶に手を伸ばそうとする。
最近の彼は、この強力な睡眠薬を致死量すれすれまで呷らなければ、一時間の眠りにつくことすらできなくなっていた。
だが。
マリーの白く細い手が、彼の腕をそっと、しかし絶対的な力で押し留めた。
「……マリー?」
「薬なんて、いりません。そんな苦いものを飲まなくても、私があなたを、一番深く、安全な場所へ連れて行ってあげますから」
マリーの声は、冬の夜風よりも静かで、そして甘い毒のように鼓膜の奥へと染み込んでいく。
彼女は、ナポレオンの泥だらけの軍服のボタンを、一つ、また一つと外し始めた。
分厚く重たい、彼を縛り付ける『皇帝の殻』を剥がしていくように。
そして彼女自身も、擦り切れた粗末なドレスの肩紐を、一切の羞恥もなく、静かに床へと滑らせた。
「……っ、マリー……お前……」
薄暗いランプの灯りに照らされた、傷一つない、どこまでも白く無垢な少女の肌。
しかし、そこに情欲や卑猥な匂いは微塵も存在しなかった。
マリーのオリーブ色の瞳に宿っているのは、女としての熱情ではなく、極限まで張り詰めた赤子を自らの胎内へと回帰させようとする、底知れぬほど深く、狂気的な『母性』の極致だった。
「寒かったですよね。痛かったですよね。……もう、頑張らなくていいんですよ」
マリーの華奢な腕が、極寒の戦場で氷のように冷え切っていたナポレオンの裸の背中を包み込む。
その瞬間。
ナポレオンの喉から、ヒュッと、糸が切れたような小さな吐息が漏れた。
(……温かい)
自分の体温を奪い、精神を削り取っていた外界のすべてが、彼女の柔らかい肉体の熱に触れた瞬間、嘘のように遠のいていく。
氷が割れる音も。
死にゆく兵士たちの悲鳴も。
「皇帝万歳」という、呪いのような狂乱の歓声も。
マリーが自らの体を開き、彼をその奥深くへと受け入れた時。
それは、男女の交わりというよりも、傷ついた小動物が、世界で一番安全で、絶対に誰も手出しできない『肉の揺りかご(子宮)』へと逃げ込むための、原始的な退行の儀式だった。
「あ……ああ……っ、マリー……っ」
ナポレオンは、彼女の細い肩に顔を埋め、声にならない嗚咽を漏らしながら、その温もりの奥へ奥へと、すがるように身を沈めていった。
自分の輪郭が溶けていく。
数百万の命を背負う三十代の皇帝という虚像が剥がれ落ち、ただ泥の路地裏で震えていたあの頃の、無力で空っぽな少年の魂へと完全に退行していく。
彼女の体温の中だけが、この冷酷で狂った世界で、彼が唯一『呼吸』を許される、たった一つの絶対的な聖域だった。
「ええ……いい子です。私の、愛しい神様……」
彼が涙を流してすがりついてくるたび。
マリーの胸の奥で、甘くどろりとした至福の蜜が、とめどなく溢れ出し、彼女の精神を完璧な歓喜で満たしていく。
(この人は、もう二度と、私なしでは生きていけない。私の腕の中で、私の熱をもらわなければ、眠ることも、息をすることもできないのだわ)
マリーは、自分の胎内にすがりついてひきつけを起こすように震える彼の背中を、愛おしくてたまらないというように、ゆっくりと、永遠のリズムで撫で続けた。
「私が、すべてを終わらせてあげます。外の冷たい風も、あなたをいじめる大人たちも、全部私がシャットアウトしてあげますから」
やがて。
あれほど致死量の睡眠薬を欲し、狂乱していたナポレオンの呼吸が。
マリーの圧倒的な体温と、甘い子守唄に完全に包み込まれたことで、嘘のように深く、規則的な泥のような眠りへと落ちていった。
彼の寝顔は、もはや覇者のそれではない。
ただ疲れ果て、すべてを放棄して母親の腕の中で眠る、無垢な赤子の顔そのものだった。
その、自らの腕の中で完全に意識を手放した「空っぽの神様」を見下ろしながら。
マリーのオリーブ色の瞳が、ランプの微かな光を反射して、ぞっとするほど冷たく、そして美しく輝いた。
(これで、完璧。)
彼女の視線は、天幕の分厚い布の向こう側――彼を傷つけ、虚像を押し付け、彼から安らぎを奪おうとする、愚かで不純な『世界』すべてへと向けられていた。
(私の神様は、もう誰にも渡さない。この美しい箱庭の中で、永遠に、永遠に私だけが彼を甘やかしてあげる。……そのためなら、私は、この外の世界のすべてを、彼の手の届かない場所まで完全に焦土にして差し上げますわ)
アウステルリッツの凍てつく夜。
外の世界では、フランス帝国がヨーロッパの頂点に君臨した歴史的瞬間として、数万の将兵が勝利の美酒に酔いしれていた。
しかし、その絶対的な権力の中心である皇帝の天幕の底では。
一人の泥生まれの少女による、皇帝の魂の「完全な所有」と、外界すべてを敵と見なす、恐るべき『狂気の檻』が、音もなく、しかし決して破れない強固さで完成したのだった。




