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偉人の翼~皇帝ナポレオンと名もなきマリー~  作者: トムさん


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第5話 熱砂のエジプト、歴史の表裏

頭上から容赦なく照りつけるエジプトの太陽は、まるで物理的な質量を持った暴力のように、数万の兵士たちの軍服をじりじりと焦がしていた。


「兵士諸君! あのピラミッドの頂から、四千年の歴史が諸君を見下ろしている!」


熱砂を巻き上げる乾いた風に乗って、若き総司令官ナポレオン・ボナパルトの力強い声が響き渡った。

抜けるような青空を背に、飾り立てられた白馬に跨るその姿は、まさしく神話の中から抜け出してきた「無敗の英雄」そのものだった。

彼の背後にそびえ立つのは、悠久の時を刻む巨大なピラミッド。

そして彼の眼前に広がるのは、先ほどの戦闘で完膚なきまでに打ち破られ、ナイル川へと雪崩を打って逃げ惑うマムルーク兵(エジプトの騎兵)たちの無惨な屍の山である。


「うおおおおおっ!! ボナパルト将軍、万歳!!」


「我らの神! 勝利の天才!!」


熱狂。

三万人を超えるフランス共和国軍の兵士たちが一斉に武器を天に突き上げ、地鳴りのような歓声を上げる。

その凄まじい音圧は、分厚い熱気の層を震わせ、足元の砂を微かに波立たせるほどだった。


数万の崇拝と狂乱の渦の中心で、ナポレオンは彫像のように一切の表情を崩さず、威風堂々と片手を挙げて歓声に応えていた。

瞬きの回数、顎を引く角度、馬の手綱を握る指先の優雅さに至るまで。

それは、軍隊という巨大な獣を心酔させるために計算し尽くされた、完璧な「英雄のポーズ」だった。


(……ええ。とても、素晴らしいです。私の神様)


熱狂する陣形の最後尾。

強烈な日差しを避けるように、分厚い天幕の薄暗い影に身を潜めていたマリーは、胸の前で両手を組み、うっとりとその光景を見つめていた。

彼女の頭の中では、遥か上空の熱気流に乗って旋回する数羽のハヤブサの視界と、砂漠の地中を這い回る無数のサソリたちの振動感知が、リアルタイムで戦況の『完全な終結』を告げている。


マリーが計算し、ナポレオンに耳打ちした方陣戦術(歩兵を四角形に配置する陣形)は、エジプト騎兵の猛攻を紙切れのように粉砕した。

今回もまた、彼の口から発せられたマリーの数字が、何千という命を正確に刈り取り、彼を輝かしい勝利の玉座へと押し上げたのだ。

太陽の光を一身に浴びて輝くナポレオンの姿を見るたび、マリーの胸の奥は、甘くとろけるような至福で満たされていく。


(誰もがあなたを称賛している。あなたが一番偉くて、一番素晴らしい人だと、世界中がひれ伏している。……私が、そうしてあげられた)


熱風に煽られて彼女の質素な亜麻色の髪が揺れる。

そのオリーブ色の瞳には、何万という死体への憐れみも、自身が歴史を操っているという傲慢さも微塵もない。

ただ、泥にまみれていたコルシカの路地裏で自分を助けてくれた「たった一人の優しい少年」が、こうして誰にも馬鹿にされず、一番高い場所で笑ってくれていること。

それだけが、マリーという少女の命のすべてであり、純度100%の無垢な献身の証だった。


やがて、演説を終えたナポレオンが馬を降り、数人の将校を引き連れて野営地の天幕へと歩を進めてくる。


「将軍! 素晴らしい演説でした!」


「本国も将軍の武勲に狂喜乱舞するでしょう!」


口々に称賛を浴びせる将校たちに対し、ナポレオンは「ああ、苦労をかけるな」と、落ち着き払った鷹揚な笑みで頷いてみせる。


しかし、彼が総司令官専用の巨大な天幕の前に辿り着き、将校たちを外に留まらせて、一人で分厚い布の入り口をくぐった、その瞬間だった。


バサァッ、と。

外の強烈な光と、数万人の狂騒を遮断するように、天幕の重い布が下ろされた。


「……っ、がっ、あ……ッ!!」


薄暗い天幕の中に、空気を引き裂くような、ひどく醜い嗚咽が響いた。

先ほどまで威風堂々と胸を張っていたナポレオンの体が、まるで背骨を引き抜かれたように前傾姿勢になり、ドサリと鈍い音を立てて砂除けの絨毯の上に崩れ落ちたのだ。


「ナポレオン!」


天幕の奥で待っていたマリーが、弾かれたように駆け寄る。

ナポレオンは両手で自らの腹を――正確には、胃の腑のあたりを、爪が軍服を突き破らんばかりの力で掻きむしり、泥水に溺れた獣のように喘いでいた。


「はぁっ、ひゅっ、あ、ぐぅぅぅ……っ!! 胃が……胃が、焼ける……っ、痛い、痛いッ!!」


彼の顔からは、あの彫像のような英雄の仮面は完全に剥げ落ちていた。

蠟のように青ざめた肌からは、灼熱の砂漠にいるはずなのに、まるで氷水に浸かったかのような異常な量の冷や汗が噴き出している。

カチカチと歯の根が鳴り、美しい軍服に包まれた細い体は、極度の恐怖とストレスによって、見ていられないほど激しく痙攣していた。


(ああ……可哀想に。私の、可哀想で愛しい神様)


マリーは迷うことなく冷たい床に膝をつき、嘔吐感に咽び泣く彼の頭を、自らの胸にそっと抱き寄せた。

トゥーロンの戦いから数年。

「偽物の天才」として彼が背負わされた命の数は、数千から数万へと膨れ上がり、国家の命運そのものが彼の両肩にのしかかっていた。

一つでも数字を間違えれば、マリーの予測が外れれば、三万の兵士が砂漠の藻屑となり、彼は「無能」としてフランスの断頭台へ送られる。

その絶対的な死の恐怖と、何万もの人間を「自分の手柄」のために殺し続けているという倫理の崩壊が、凡人である彼の胃壁を物理的に溶かし、精神をボロボロに食い破っていたのだ。


「怖い……っ、マリー、俺は、俺は……っ。あいつら、あんなに歓声を上げてたけど……本当は俺が偽物だって、裏で笑ってるんじゃないのか……!?」


「そんなことありません。誰もあなたを疑っていませんよ。あなたは完璧でした」


「違う!! 明日だ、明日もしイギリス軍が攻めてきたら!? お前の計算がもし狂ったら、俺は……俺の首は……っ!!」


恐怖で錯乱したナポレオンが、マリーの細い腕をギリギリと力任せに掴む。

彼女の白い肌に青黒い痣ができるほどの強い力だったが、マリーは痛みに顔をしかめるどころか、まるで花が咲くような、ひどく優しく、そして慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「大丈夫です。ナポレオン。……ほら、息を吐いて」


マリーは、懐から清潔なハンカチを取り出し、ナポレオンの額と首筋にべったりと張り付いた冷や汗を、壊れ物を扱うように丁寧に拭い始めた。


(外では何万という人が彼を神様だと崇めているけれど。こうして彼が怯えて、泣いて、私にすがりついてくる……この『本当の彼』に触れられるのは、世界中で私だけ)


胃液を吐き散らし、恐怖で涙と鼻水を流す、あまりにも惨めで矮小な青年の姿。

しかし、マリーにとってはその醜悪さすらもが、彼が自分を必要としてくれているという絶対的な証明であり、無上の喜びだった。

彼が重圧で壊れれば壊れるほど、マリーという「絶対安全な拠り所」への依存は深まっていく。


「私が全部、見ていますから。エジプト中の砂漠の狐も、空の鳥たちも、すべて私が束ねて、あなたに絶対確実な明日を約束します。……だから、もう怖がらなくていいんですよ」


マリーは彼をあやすように、背中をゆっくりと、一定のリズムで撫で続けた。

その無垢で、いっそ暴力的なほどの絶対的肯定の温もりに包まれ、ナポレオンの激しい過呼吸が、少しずつ、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

彼にとって、この薄暗い天幕と、マリーの華奢な腕の中だけが、狂気の世界で唯一許された「凡人としての呼吸器」だった。


「……マリー……」


「はい、ここにいます。ずっと、あなたのそばに」


遠く外の世界からは、まだ彼を「英雄」と讃える熱狂の波が押し寄せてきている。

しかし、分厚い天幕の底で抱き合う二人にとって、その歓声はただの無価値な環境音に過ぎなかった。

マリーは、自分の腕の中でようやく子供のように身をすくめて静かな寝息を立て始めたナポレオンの泥だらけの髪に、そっと、祈るように唇を落とした。


狂騒に包まれたエジプトの夜。

分厚い絨毯の上に横たわるナポレオンの呼吸が、ようやく浅い痙攣から、深く規則的な寝息へと変わった。


マリーは彼を傷つけないよう、そっと自分の腕を引き抜き、その青ざめた寝顔を見下ろした。

目元には濃い疲労の隈が張り付き、唇は極度の重圧で噛み破られ、赤黒い血の瘡蓋ができている。

数万の命を背負う「英雄の仮面」は、確実にこの凡人の青年の命を削り取っていた。


(……ゆっくり、休んでください。私の可哀想な神様)


マリーが彼の乱れた前髪を優しく梳いた、その時だった。


「――閣下。夜分遅くに申し訳ありません。ベルティエです」


天幕のすぐ外から、首席参謀であるベルティエの押し殺した、しかしひどく切羽詰まった声が響いた。

マリーはピクリと肩を揺らし、眠るナポレオンの耳を塞ぐようにそっと両手を添える。


「明朝のカイロへの進軍ルートと、砲兵の再配置について、至急ご裁可をいただきたいのです。……閣下? お休みでしょうか?」


マリーの視線が、天幕の入り口と、足元で泥のように眠るナポレオンを往復した。

今、彼を起こせばどうなるか。

再びあの重い仮面を無理やり顔面に縫い付け、吐き気を堪えながら、自分には到底理解できない軍事の数字を前に、絶望的な恐怖に震え上がることになる。


(……そんなこと、させられない。絶対に)


マリーは音もなく立ち上がった。

ランプの灯りを細く絞り、粗末な野戦机に向かう。そこには、エジプトの広大な白地図と、インク壺、そして数本の羽根ペンが乱雑に置かれていた。

彼女は迷うことなくペンを取り、インクの泥深い黒にペン先を沈めた。


(……砂漠の夜風が、冷えてきた。東の岩陰に潜むジャッカルたちの足音、ナイル川の浅瀬を渡る水鳥たちの羽ばたき……)


マリーは目を閉じ、自身の意識を天幕の外、星空の下に広がる広大な熱砂の海へと解き放った。

数千、数万という砂漠の動物たちの視覚と聴覚が、彼女の特異な脳髄に『完璧なエジプトの全容』を結像させる。

敵の残存兵の伏兵位置、最も水が確保しやすいオアシスの経路、そして大砲の車輪が砂に埋もれない硬い地盤のルート。

一切のノイズを持たない、絶対確実な正解のルート。


マリーは目を見開き、迷いなく羊皮紙にペンを走らせた。

その筆跡は、流麗な女性のものではない。

インクを飛び散らせ、力任せに紙を引っ掻くような、ひどく乱暴で癖の強い文字。

ナポレオン・ボナパルト本人の筆跡を、一ミリの狂いもなく完全に模写していた。


さらさら、カリカリと、夜の天幕にペンの音だけが響く。

数分後。

マリーは書き上げた完璧な指令書を手に持ち、天幕の入り口の分厚い布を、ほんのわずかだけ開いた。


「……マリーか。閣下は」


「将軍は、すでに明日のすべての配置を思案し終えておられます。こちらを」


隙間から差し出された羊皮紙を受け取ったベルティエ参謀は、そこに記された神算鬼謀とも言える完璧な進軍ルートと、インクの乾いていない乱暴な筆跡を見て、息を呑んだ。


「こ、これは……。閣下は、今日の激戦の後だというのに、まだ一睡もされておられないのか!?」


「将軍の目に、疲労という文字は映りません。常に我々の三歩先を、不眠不休で見据えておいでです」


マリーの淀みない、そして静かな誇りに満ちた声に、歴戦の将軍であるベルティエの顔に、底知れぬ畏怖の色が浮かんだ。


「……なんという超人だ。閣下は本当に、我々と同じ人間なのだろうか。たった数時間の睡眠で、これほどの盤面を描き切るとは……」


ベルティエが深く一礼し、足音を忍ばせて遠ざかっていく。

後に歴史が「ナポレオンの睡眠時間はわずか三時間だった」と語り継ぐことになる、その超人的な英雄伝説の産声。

しかし、その伝説を生み出した張本人であるマリーは、踵を返すと、再び机に向かい、古びた椅子に静かに腰を下ろした。


(……そうだ。ついでに、これも終わらせておかなければ)


マリーの視線の先には、封を切られていない一葉の美しい便箋があった。

軍を動かす最高権力者として、そして彼が人として幸せであるために果たさなければならないもう一つの重大な義務。

妻、ジョゼフィーヌへの手紙だ。


眠りに落ちる前、胃液を吐き散らしながらナポレオンは掠れた声で呟いていた。


『マリー……ジョゼフィーヌに、愛している、早く会いたいと……手紙を、書いておいてくれ……』


その言葉を思い出し、マリーは自分の泥に汚れた爪先と、擦り切れた粗末なドレスを見下ろした。


(私みたいな、泥の中で生まれた気味の悪い女が、彼の隣に立つことなんて許されない。……彼のような英雄には、パリの社交界で一番美しく、教養のあるあの奥様こそが、ただ一人の太陽として相応しいのだわ)


マリーの胸にあるのは、嫉妬でも支配欲でもなかった。

圧倒的な身分の差と、自身を「呪われた異物」と定義する強烈な引け目。

だからこそ彼女は、ナポレオンの幸福を願い、正妻であるジョゼフィーヌと彼が深く愛し合うことこそが、唯一の「正しい世界の形」だと純粋に信じ込んでいた。


(「愛している」の一言だけじゃ、あんなに美しい奥様はきっと不安になってしまう。……私が、彼の本当の切実な気持ちを、彼女に伝わるように『翻訳』してあげなければ)


マリーは再びペンをインクに浸し、狂いのないナポレオンの筆跡で、猛烈な勢いで愛の言葉を綴り始めた。


『私の比類なきジョゼフィーヌ。君から遠く離れたこの熱砂の地にあっても、私の心は常に君のそばにある。君の美しい胸元に何千もの燃えるようなキスを送ろう。君が私を愛していないのなら、私にはもう生きる意味すら残されていないのだ――』


それは、純度100%の善意と献身から生み出された、計算し尽くされた極甘のラブレターだった。


「こう書けば、彼女は必ず彼の愛を信じ、永遠の忠誠を誓ってくれるはず」


自分の命よりも大切な神様の幸せな結婚生活を守るため、マリーは祈るような気持ちで赤い封蝋シーリングスタンプをぽたりと落とした。

これで、彼の心は正しく伝わる。

これで彼らは、完璧に結ばれる。

マリーは満ち足りた無垢な微笑みを浮かべ、その手紙を優しく撫でた。


――数週間後。


エジプトの熱砂は相変わらずナポレオンの軍を焼き焦がしていたが、マリーの意識の半分は、地中海を越え、遥か遠いパリの曇り空の下へと飛んでいた。


(……届いた。私の手紙が、あの美しい奥様のもとへ)


パリの豪奢な邸宅。そのバルコニーの彫刻に留まった一羽の小鳥の黒い瞳を通して、マリーは息を呑んで「結果」を見守っていた。

薔薇の香油の甘い匂いが、小鳥の嗅覚を通してマリーの脳髄をくすぐる。

豪奢な絹のドレスに身を包んだジョゼフィーヌが、エジプトからの封を切った。


(さあ、読んで。彼がどれほどあなたを愛し、あなたを必要としているか。それを知れば、あなたはきっと涙を流して彼を愛してくれるはず……)


マリーがエジプトの天幕で両手を組み合わせ、純粋な祈りを捧げた、その時だった。


『……ふふっ。相変わらず、大仰で重苦しい手紙ね』


小鳥の聴覚が拾い上げたのは、感動の涙声ではなかった。

それは、ひどく退屈そうで、それでいて自尊心を完全に満たされた女の、甘く冷酷な笑い声だった。


『私なしでは生きられないだなんて。あのコルシカの田舎者は、すっかり私に夢中のようね。これなら、私がパリで少しくらい羽根を伸ばしても、彼が私を捨てることなんて絶対にあり得ないわ』


ジョゼフィーヌは、マリーが心血を注いで代筆した「完璧な愛の手紙」を、まるで読み飽きた三流の詩集のようにテーブルに放り投げた。

そして、背後の扉から甘い香水の匂いをさせて入ってきた、美しい青年将校――イポリット・シャルルに向かって、妖艶な笑みを浮かべてその腕の中に倒れ込んだのだ。


『シャルル……エジプトの夫は砂漠で愛を叫んでいるわ。だから私たちは、この美しいパリで愛を歌いましょう?』


唇が重なる水音。

衣擦れの音。

その一切合切が、マリーの脳髄にリアルタイムで流れ込んでくる。


(……え?)


エジプトの天幕の中。

マリーのオリーブ色の瞳は、極限まで見開かれたまま、瞬きすら忘れて石のように硬直していた。

彼女の人間離れした知覚をもってしても、今、目の前で起きた現象の『因果律』が全く結像しないのだ。


(どうして? 完璧な愛を伝えたのに。彼がどれほど彼女を必要としているか、あれほど美しく証明して見せたのに。……なぜ彼女は、彼を裏切るの?)


マリーは、人間の「安心しきると相手を軽んじる」という傲慢さや、「完璧すぎる愛は退屈を生む」という複雑で淀んだ感情の機微を、一片も持ち合わせていなかった。

良かれと思って注ぎ込んだ無垢な愛情表現が、かえってジョゼフィーヌの虚栄心を底なしに増長させ、最悪の背信行為へと走らせる致命的な呼び水となってしまったという決定的な誤算。


理解を絶する事象を前に、マリーの頭蓋の裏側で、無数の鳥たちのさえずりが、まるで耳障りな不協和音となって激しく軋みを上げる。

このままでは、愛する彼が傷ついてしまう。

私のせいだ。私が間違えたせいだ。

その絶望的な焦燥に、彼女の細い指先が微かに震え始めた、その時だった。


「……マリー……水、水を……」


背後から、掠れた声がした。

振り向くと、数時間の短い泥睡から目覚めたナポレオンが、熱に浮かされたような虚ろな目で身を起こそうとしていた。

英雄の虚像に押し潰され、ただの一人で立ち上がることもできない、不器用で哀れな凡人の姿。


それを見た瞬間。

マリーの頭の中で鳴り響いていた不協和音が、ふっと、嘘のように静まり返った。

波立っていた思考の海が、恐ろしいほどの凪へと変わっていく。


(……ああ。そうか)


マリーは水差しを手に取り、ゆっくりと彼のもとへ歩み寄った。

パリの美しい奥様は、彼の愛にあぐらをかき、彼を裏切った。

私の純粋な祈りは最悪の結末を招いてしまったけれど、でも、それがなんだというのだろう?


「はい、ナポレオン。ゆっくり飲んでくださいね」


マリーは膝をつき、彼の背中を優しく支えながら、その渇いた唇に水の入った杯を当ててあげた。

ナポレオンはすがるようにその水を飲み干すと、マリーの冷たい指先に自分の頬をすり寄せ、安堵の吐息を漏らした。


(彼女が彼を裏切るのなら。あの華やかなパリの世界が、彼に背を向けるというのなら。……この、弱くて傷だらけの彼を慰めてあげられるのは、結局、泥まみれの私しかいないじゃない)


マリーの胸の奥で、自分を卑下していた冷たい引け目が、全く別の形をした「甘くどろりとした至福」へと変質していく音がした。

身分が違ってもいい。妻になれなくてもいい。

世界中の誰もが彼を英雄だと勘違いし、本当の妻すらも彼の真実の姿から目を背けるのなら。

この薄暗い天幕の底で、重圧に泣きじゃくり、自分なしでは一日たりとも生きられないこの「空っぽの神様」は、永遠にマリーだけのものだ。


「……マリー。ジョゼフィーヌへの手紙は、書いてくれたか?」


「ええ。とても美しく、あなたの愛が伝わるように書きましたよ」


マリーは、これまでの人生で一番無垢で、そして背筋が凍るほど純粋な微笑みを浮かべた。


「きっと奥様も、喜んでくださっています」


決して交わることのない表と裏の歴史。

エジプトの熱砂の下、純度100%の献身から生まれた決定的なすれ違いは、こうして、二人だけの狂気的な共依存の箱庭を、より一層強固で抜け出せないものへと完成させていったのだった。

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