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偉人の翼~皇帝ナポレオンと名もなきマリー~  作者: トムさん


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第四話 トゥーロンの火花、代筆された戦術

一七九三年、秋。南仏の港町トゥーロン。

絶え間なく降り続く冷たい雨が、野営地の泥をひどくぬかるませ、空気には硝煙と血、そしてひどく不衛生な兵士たちの汗の臭いがねっとりとへばりついていた。


「……駄目だ。誰も、俺の言葉になんて耳を貸さない……っ」


雨風を凌ぐための薄暗い天幕の中。

泥だらけの軍服を着たナポレオンは、粗末な野戦机に突っ伏し、両手で自分の頭を搔きむしりながら絶望的なうめき声を漏らした。

共和国軍の砲兵将校として初めて送られた、本物の最前線。

しかし、司令官であるカルトー将軍は、かつて画家だったというだけの傲慢で無能な男だった。

ナポレオンが必死に計算し、震える声で具申した砲兵陣地の配置案を、カルトーは「小生意気なコルシカの青二才が」と鼻で笑い、ろくに目も通さずに床に叩き落としたのだ。


「カルトーのあの出鱈目な大砲の配置じゃ、イギリス艦隊に届く前に全滅する……。でも、俺はただの一介の将校だ。俺の命令なんかで動く兵士は一人もいない。作戦が失敗すれば、責任を問われて断頭台ギロチンに送られるのは俺なんだ……っ!」


極度の恐怖と屈辱で、ナポレオンの肩がガタガタと激しく震える。

士官学校の安全な教室とは違う。

ここでは、「偽物」であることが露見すれば、即座に己の首が物理的に刎ね落とされるのだ。

圧倒的な死の恐怖に耐えかね、彼は天幕の隅でランプの火を灯していたマリーの細い腰に、すがるようにしがみついた。


「マリー……どうしよう、怖い。俺はここで、誰にも認められないまま犬死にするんだ……っ」


「……泣かないでください。あなたは、何も間違っていませんよ」


マリーは静かに床に膝をつき、震える少年の泥だらけの髪を、母親のように優しく撫でた。

彼女のオリーブ色の瞳は、目の前で泣きじゃくるナポレオンを見ていながら、同時に「遥か上空」からこの凄惨な戦場全体を見下ろしていた。


(……南南東の風。湾を塞ぐように停泊するイギリス艦隊。そして、味方の砲台の致命的な数不足と、絶望的なほど愚かな配置……)


暗い雨雲の下を滑空する無数の海鳥たち。その冷たく澄んだ眼球を通して、マリーはトゥーロン湾の地形と両軍の戦力を、まるで神の盤面のように完璧に俯瞰・計算していた。

マリーの特異な頭脳が弾き出した結論は一つ。

ナポレオンがカルトーに提出した作戦(マリーが昨夜教えたもの)は、一ミリの狂いもなく完璧だった。


(彼の作戦通りに大砲を配置すれば、絶対に勝てるのに。どうしてあの太った将軍は、大好きな彼を怒鳴りつけ、こんなに怯えさせるの?)


マリーは、ナポレオンの冷え切った頬を両手で包み込みながら、静かに、そしてひどく冷徹な真実にたどり着いた。


(……そうか。彼がどれだけ完璧な正解を出しても、あの愚かな大人たちは彼を認めない。なぜなら今の彼は、ただの『身分の低い若造』だからだ)


どれほど素晴らしい偽装を施しても、立場が下である限り、彼は一生こうして理不尽に虐げられ、泣き続けることになる。

大好きな神様を、これ以上誰にも傷つけさせないためにはどうすればいいか。

答えはひどく単純だった。

彼自身を、あの愚かな将軍よりも上へ、誰も逆らえない「権力」の玉座へと押し上げてしまえばいいのだ。


「聞いてください、ナポレオン」


マリーは、怯える少年の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。

その声には、一切の迷いもない純度100%の慈愛が満ちていた。


「あなたは正しい。間違っているのは、あなたの価値を理解できない愚かな上官です。……だから、あんな将軍の言うことは、もう無視してしまいましょう」


「む、無視するって……そんなことしたら、反逆罪で……」


「大丈夫です。野営地の東側に、パリから視察に来ているサリチェティ議員の天幕がありますよね? 同郷のコルシカ出身である彼に、直接この『新しい作戦書』を見せるのです」


マリーはそう言うと、手元の羊皮紙に、猛烈な速度でペンを走らせ始めた。

海鳥の視界から得た敵艦隊の正確な座標、エギュイエット砦を奪取するための完璧な砲台の再配置、そして必要な弾薬の数。

それは、実行されれば間違いなく数千人の兵士が肉片となって吹き飛び、海が血で真っ赤に染まる「大量殺戮の設計図」だった。

しかし、それを書き上げるマリーの横顔には、凄惨な死への忌避感など微塵も存在しなかった。

彼女にとって、紙の上で死んでいく何千の命など、ナポレオンの頬を伝う一滴の涙にも満たない、ただの無価値な「数字」でしかないのだから。


「これを、あなたが考えたこととして議員に説明するのです。必ず、彼らはあなたにすべての権限と、十分な大砲を与えてくれます」


書き上がった羊皮紙を、マリーは宝物でも渡すように、無垢な微笑みを浮かべて差し出した。

ナポレオンは震える手でそれを受け取る。

ランプの灯りに照らされたその冷酷なまでに完璧な戦術を見た瞬間、彼の喉がヒュッと鳴った。


(……なんだ、これは。これを実行すれば、俺の指示で、何千人もの人間がゴミのように死ぬ……!)


士官学校でのカンニングとは違う。

これは、他人の命をすり潰す本物の戦争なのだ。

「ただの偽物の優等生」だった自分に、こんな血塗られた英雄の真似事ができるはずがない。

あまりの重圧と恐怖に、ナポレオンは呼吸を浅くし、手にした羊皮紙をくしゃりと握り潰しそうになった。


「怖いですか?」


マリーが、そっと彼の手を握る。士官学校の夜と同じ、すべてを肯定してくれる温かい体温。


「怖がらなくていいんです。私がすべての敵の動きを見て、あなたに教えます。あなたはただ、私の言う通りの数字を、大声で兵士たちに命令するだけでいい。……そうすれば、誰もあなたを馬鹿にしません。あなたが一番、立派な将校になれるんです」


彼女の、狂気的なまでに純粋な献身の言葉。

ナポレオンは、激しく葛藤しながらも、もはや彼女のその温もりから逃れることはできなかった。

この残酷な戦場で彼が生き延びるためには、この少女が紡ぎ出す「死の脚本」を丸暗記して、完璧に演じ切るしか道はないのだから。


「……分かった。……やる、俺がやる……っ」


土砂降りの雨音が天幕を叩きつける中。

ナポレオンは血の滲むような思いで羊皮紙を見つめ、数千の命を奪うための数字を、ただひたすらに、マリーの声にすがりつきながら暗唱し始めた。

その震える背中を優しく撫でながら、マリーは「これで彼が褒められる」と、ただ花がほころぶような無邪気な笑みを浮かべていた。

これから自分たちが、歴史上最も恐ろしい「大量殺戮の虚像(天才・ナポレオン)」を生み出そうとしていることなど、純粋すぎる彼女には知る由もなかった。


豪雨が叩きつけるトゥーロンの海は、鉛色にうねって猛り狂っていた。

エギュイエット砦の高台。

吹き荒れる強風と泥に足をとられそうになりながら、ナポレオンは冷酷な無表情の仮面を顔面に貼り付け、一列に並べられた大砲の背後に直立していた。


彼の視線の先には、湾を塞ぐように停泊するイギリスの巨大な艦隊。

周囲の砲兵たちは、中央から全権を委任されたこの見慣れぬ若い将校が、この悪天候下で「弾薬の無駄撃ち」を命じるのではないかと、半信半疑の視線を向けていた。


(……怖い。手が、足が、震えて止まらない)


ナポレオンは、軍服の深いポケットの中で両手を固く握りしめていた。

鼓膜を破るような味方の砲火の轟音と、いつ自分を肉片に変えるか分からない敵弾の風切り音。

本当なら今すぐ、泥の中に惨めに這いつくばって両耳を塞ぎたかった。

震える右手の指先に、モゾモゾとした小さな毛玉の感触がある。

マリーがこっそりと忍ばせた、一匹のドブネズミだ。

遥か後方の安全な天幕にいる彼女は今、上空を舞う海鳥たちの目を通してこの戦場を俯瞰し、風の息継ぎ、敵艦の揺れ、大砲の仰角という何万通りもの計算を、その特異な頭脳で瞬時に処理し続けているはずだった。


「――装填よし! ボナパルト司令、指示を!」


副官の怒号が、雨音を切り裂いた。

数十人の兵士の視線が、ナポレオンの一挙手一投足に突き刺さる。

ここで彼が一つでも判断を誤れば、作戦は失敗し、彼は無能の烙印を押されて断頭台へ送られる。


(頼む、マリー……俺を、助けてくれ……っ!)


ナポレオンがポケットの中で必死に祈った、次の瞬間。

指先にチクリ、と鋭い痛みが走った。

ネズミが彼の指を噛んだ。

それは、「今だ」という、安全な天幕にいる少女からの絶対的な『神の啓示』だった。


ナポレオンはポケットから手を引き抜き、雨空に向かって裂帛の気合とともに剣を振り下ろした。


「仰角、三十二度! 左へ半刻ずらせ! ……撃てェッ!!」


轟音。

数十門の大砲が一斉に火を噴き、大地がひっくり返ったような衝撃がエギュイエット砦を揺らした。

空気を引き裂いて飛翔した黒い鉄球の群れは、猛烈な突風をまるで計算し尽くしていたかのような完璧な放物線を描き――イギリス艦隊の巨大な火薬庫に、次々と、吸い込まれるように直撃した。


ドゴォォォォォンッ!!


海面が爆発し、天を焦がすほどの巨大な火柱が雨雲を貫いた。

凄惨な爆発音とともに、堅牢な軍艦が飴細工のようにへし折れ、無数の木片と、そして手足の千切れた敵兵の肉体が、ボロ布のように宙を舞って血の海へと叩き落とされていく。


「……っ!」

ナポレオンの喉が、ヒュッと痙攣した。

自分が口にした、たった数個の数字。

その「カンニングの答え」によって、何百、何千という人間の命が、今まさに目の前でゴミのようにすり潰されていく。

内臓をえぐり出されるような嘔吐感がせり上がってくるのを、彼は唇から血が出るほど噛み締めて必死に飲み込んだ。


「す、すげえ……! 直撃だ!!」


「一発で火薬庫を抜きやがった! あの暴風雨の中で、悪魔みたいな計算だ!」


「ボナパルト司令万歳! 我らの天才将校万歳!!」


血の雨が降る凄惨な地獄の光景を前にして、味方の兵士たちは狂喜乱舞し、ナポレオンを称える歓声を上げ始めた。

しかし、その狂騒の最中。炎上する艦隊から生き残った敵兵が放った一発の散弾が、陣地に降り注いだ。


「危ないっ!」


誰かの叫び声とともに、ナポレオンの太ももに、焼け焦げた鉄の破片が深く突き刺さった。


「ぐっ……!」


激しい痛みに膝をつきかけるが、彼は必死に「冷徹な英雄」の仮面を顔面に張り付け、周囲の兵士に悟られないように自力で立ち上がった。


数時間後。

イギリス艦隊を完全に退け、トゥーロン包囲戦は共和国軍の歴史的な大勝利で幕を閉じた。

「天才砲兵将校、ボナパルト!」という熱狂的な歓声と拍手に送られながら、ナポレオンは足を引きずり、泥にまみれて野営地の天幕へと帰り着いた。


分厚い布の入り口をくぐり、誰もいない薄暗い天幕に足を踏み入れた瞬間。

ナポレオンは、これまで必死に被り続けていた重い仮面を叩き割るように、泥の床に力なく崩れ落ちた。


「……マリー」


血を吐くような、掠れた声だった。

奥の暗がりから、ランプを持った小さな影が駆け寄ってくる。


「ナポレオン! お帰りなさい、無事に……っ」


満面の笑みで迎えたマリーの顔を見るなり、ナポレオンは子どものように嗚咽を漏らし、彼女の細い肩にすがりついた。


「俺は……立派に、英雄を演じられていたか……? 誰も、俺を疑っていなかったか……?」


ガタガタと全身を震わせながら、彼は泣きじゃくった。


「俺の言った数字で、人間が何人も吹き飛んだ……海が真っ赤だった……。俺は、ただお前の計算を叫んだだけの、人殺しの偽物だ……っ!」


己がただの空っぽな偽物であるという絶望。

そして、顔も知らない誰かの父親や息子を、自分の虚栄心と保身のために肉片に変えてしまったという、人間としての決定的な倫理の崩壊。

その二つの重圧に、ナポレオンの精神は完全に押し潰されそうになっていた。

しかし。

彼を抱きとめようとしたマリーのオリーブ色の瞳は、彼の涙よりも、彼が成し遂げた歴史的な勝利よりも、はるかに絶望的な「ある一点」に釘付けになっていた。


ナポレオンの軍服の太もも部分。

そこが赤黒く染まり、泥と混じって血が滴り落ちている。


「ああ……っ! あああああっ!!」


突然、マリーの喉から、絹を引き裂くような凄まじい悲鳴が上がった。


「血が……っ! あなたの体から、血が流れてる!!」


彼女はランプを床に放り出し、泥だらけの床に這いつくばるようにしてナポレオンの足にしがみついた。その顔は恐怖に引き攣り、大粒の涙がボロボロと止めどなく溢れ出している。


「痛かったですよね……! ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 私が大砲の角度ばかり見ていたせいで、あなたに飛んでくる破片に気づけなかった……っ!」


「マリー……? 違う、これはただのすり傷だ。お前は完璧にやってくれた……」


「駄目です、どうしよう、私の神様が傷ついてしまった! 私のせいで……っ!」


マリーは完全にパニック状態に陥り、自分の粗末なスカートの裾を力任せに引き裂くと、震える手でナポレオンの太ももをきつく縛り始めた。

何千人の敵兵が四肢を吹き飛ばされようと、一滴の涙も流さなかった少女。

彼女にとって、外の世界の凄惨な死体などただの「数字」に過ぎない。

彼女の小さな世界で本当に価値があるのは、目の前で温かい血を流す「愛する少年の肉体」ただ一つだけなのだ。


「うおおおおおっ! ボナパルト司令、万歳!!」


「我らの英雄に、勝利の祝杯を!!」


外からは、彼を「神の如き天才」と崇める数千人の狂騒が、地鳴りのように響いてくる。

しかし、薄暗い天幕の中では、数千人を殺す魔法を使った魔女が、たった一つのすり傷に対してこの世の終わりのように泣き叫び、泥だらけの英雄の足元でひたすらに謝罪を繰り返していた。


(……ああ。俺はもう、狂っていくしかないんだ)


自分を血塗られた殺戮者に仕立て上げた、恐ろしくも完璧な頭脳。

けれど同時に、この冷酷な狂気の世界で、自分の痛みにだけこれほどまでに涙を流してくれる、たった一人の無垢な聖母。

ナポレオンは、絶望と、そして決して抗うことのできない甘美な安堵の入り混じった涙をこぼしながら、足元で泣きじゃくるマリーの細い背中を、強く、強く抱きしめた。

決して誰にも理解されない、血と泥に塗れた二人の絶対的な共依存は、このトゥーロンの夜、一つの完全な形となって歴史の裏側に刻み込まれたのだった。

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