第三話 パリの士官学校、震える少年の背中
パリの冬は、骨の髄まで凍りつくように冷たかった。
太陽の恵みに満ちたコルシカの泥とは違う、感情を持たない分厚い石壁。
ブリエンヌを仮卒業し、エリート中のエリートが集まるパリの陸軍士官学校へと進んだナポレオンを待っていたのは、想像を絶する階級社会の冷酷な壁だった。
由緒正しい大貴族の子息たちは、仕立ての良い軍服を着こなし、訛りの強いコルシカの小貴族である彼を「田舎者」「豚の鼻息」と公然と嘲笑った。
(……あの子たちが、また彼を笑った。彼の誇りを、踏みにじった)
真夜中。
士官学校の最上階、凍えるような隙間風が吹き込む使用人用の狭い屋根裏部屋で、マリーはたった一本の短い蝋燭に火を灯していた。
彼女の小さな手は寒さで赤く霜焼けになっていたが、そのペンを握る指先には微塵の迷いもなかった。
マリーのオリーブ色の瞳は、目の前の薄暗い壁ではなく、遥か下の階――堅牢な鍵がかけられた、戦術教官の執務室の暗闇を真っ直ぐに見つめていた。
『……チチッ、カサッ……』
パリの地下水道から這い上がり、冷たい石壁の隙間や通気口を縫って侵入した無数のドブネズミたち。
彼らの小さな瞳が捉えた視覚情報が、マリーの脳内で鮮明な像を結んでいく。
分厚いマホガニーの机。
引き出しの中。
重しを乗せられた数枚の書類。
(……明日の、高度砲兵戦術の試験問題。それから、教官が独自にまとめた最新の弾道計算の模範解答……)
暗闇の中でネズミたちが書類の上を這い回り、その小さな視界で文字を舐め取っていく。
マリーは瞬き一つせず、脳内に流れ込んでくるその複雑な数式と戦術論を、手元の粗悪な紙へと猛烈な速度で書き写していった。
軍の最高機密に近い試験内容を盗み出すという、見つかれば即座に縛り首になりかねない大罪。
しかし、マリーの胸の中には、罪悪感も恐怖も一切存在しなかった。
あるのはただ、ひたむきで純粋な、祈りにも似た献身だけだ。
(明日、彼が教官から指名された時、あの意地悪な貴族たちはまた彼を笑おうとするだろう。……でも、させない。私が、彼を誰よりも賢く、誰よりも立派な『秀才』にしてあげる)
コルシカの広場で、彼が太陽のように笑ってくれた時のことを思い出す。
彼を馬鹿にする冷たい世界から、彼を守り抜く。
震える手で自分を助けてくれたあの優しい少年を、もう二度と惨めな思いなどさせない。
その純度100%の無垢な愛情だけが、凍える屋根裏部屋でペンを走らせるマリーの唯一の熱源だった。
ギィ……と、古い蝶番が微かに鳴った。
屋根裏部屋の隠し扉が開き、音もなく一人の少年が滑り込んでくる。
「マリー……」
掠れた、ひどく張り詰めた声。
「お待ちしていました」と微笑んで振り返ったマリーは、しかし、そこにあったナポレオンの姿に息を呑んだ。
蝋燭の頼りない灯りに照らし出された彼の顔は、まるで死人のように青白かった。
目の下には濃い隈が張り付き、大きめの寝着に包まれた体は、寒さのせいだけとは思えないほどガタガタと小刻みに震えている。
「できました。これが明日の試験問題と、教官が求める完璧な解答です」
マリーは急いで立ち上がり、書き上げたばかりの紙を両手で丁寧に差し出した。
これを見れば、彼はきっと安心してくれる。
明日も無事に、周囲を黙らせる完璧な優等生として振る舞うことができる。
そう信じて向けた純粋な笑顔。
しかし、その紙を受け取ったナポレオンの手は、激しい痙攣を起こしたように震え上がった。
「……っ、ああ……」
紙面にびっしりと書き込まれた高度な数式と戦術論を見た瞬間、彼の喉の奥から、絶望に満ちた呻き声が漏れた。
彼は喜ぶどころか、まるで呪いの書でも渡されたかのように紙を握りしめ、ふらふらと数歩後退して、冷たい石壁に背中を打ち付けた。
「こんな……こんな高度な計算、俺には到底理解できない……っ。どういう理屈でこの答えになるのか、全く、欠片も分からないんだ……!」
ガチガチと歯の根を鳴らしながら、ナポレオンはずるずると壁に沿って崩れ落ち、冷たい床にへたり込んだ。
その異様な怯えように、マリーは戸惑って駆け寄る。
「だ、大丈夫です。理解できなくても、これをこのまま、一言一句間違えずに暗記すれば……」
「それが怖いんだよ!!」
突然の悲鳴のような怒声。
ナポレオンは両手で自分の頭を掻きむしり、肩で激しく息をしながら、血走った目でマリーを見上げた。
「俺は天才なんかじゃない……っ。ただお前が盗んできた答えを、意味も分からず丸暗記して吐き出しているだけの、空っぽの偽物だ……!」
連日のように続く、マリーの完璧な情報供給。
それによって、士官学校での彼の評価は今や「無口で計算高い、底知れぬ秀才」として異常なまでに高騰していた。
教官は彼を一目置き、彼を馬鹿にしていた貴族たちでさえ、最近では気味悪そうに遠巻きに見つめてくる。
だが、高められたその虚像の玉座は、凡人である彼にとって、足元に底なしの地獄が口を開けている断頭台でしかなかった。
「周りの目が、教官の期待が、毎日毎日膨れ上がっていく……。次に指名された時、もし一行でも暗記を間違えたら? もし、お前が用意できなかった問題が出たら? その瞬間、俺の化けの皮は剥がれて、俺はすべてを失う……っ!!」
彼の瞳から、恐怖と極度の重圧による涙がポロポロとこぼれ落ちた。
ナポレオンは震える両手を伸ばし、すがるようにマリーの粗末なスカートの裾を力任せに握りしめた。
「怖い……バレるのが怖い。頼む、マリー……俺を見捨てないでくれ。もっと情報をくれ。絶対に間違えないように、俺が完璧に丸暗記するまで、何度でも、朝までこれを読み上げてくれ……っ!!」
蝋燭の火が、隙間風に揺れて頼りなく明滅する。
マリーは、大きく見開いた瞳のまま、声も出せずに立ち尽くしていた。
(どうして……?)
彼女の特異な頭脳の中では、何千匹という動物たちの視覚や聴覚が、今この瞬間も同時に、そして完璧に処理され続けている。
そんなマリーにとって、たった数枚の紙に書かれた数式や戦術を『そのまま覚える』ことなど、息をするのと同じくらい簡単な、何の負担もない作業だった。
だから、この紙の通りに答えるだけでいいのに。
そうすれば誰にも馬鹿にされず、あの輝くような笑顔でいられるはずなのに。
自分の用意した『完璧な答え』が、なぜこれほどまでに彼を怯えさせ、正気を削り取っているのか。
凡人が背負う「周囲が勝手に作り上げる虚像」と「空っぽの自分」の間の、果てしないギャップの重圧を、マリーは全く理解できなかった。
ただ、理由など分からなくても、目の前で大好きな神様が、恐怖でガタガタと震えながら泣き崩れている。
その事実だけが、マリーの胸をナイフのように深くえぐった。
(助けなきゃ。私が、温めてあげなきゃ)
マリーは床に散らばった解答用紙には目もくれず、冷たい石の床に膝をついた。
そして、丸まって震えるナポレオンの背中に両腕を回し、その震える体を、自分ごと強く、強く抱きしめた。
「……っ、マ、リー……?」
「大丈夫です。大丈夫ですよ、泣かないで」
コルシカの泥の中で、彼が自分に与えてくれたあの不器用な熱。
今度は私が、この冷え切った屋根裏部屋で、彼にその熱を返す番だった。
マリーは自分の華奢な体を彼に密着させ、その耳元で、子守唄を歌うように優しく、絶対的な肯定の言葉を囁き続ける。
「私が、何度でも教えます。あなたが完全に安心できるまで、一晩中だって、何度でも読み上げます。……誰もあなたを笑わせない。私が、ずっとそばにいますから」
その無垢でひたむきな体温と声に包まれ、ナポレオンの激しい痙攣が、マリーの腕の中で少しずつ、安堵の吐息とともに治まっていく。
(この人は、私が守らなくちゃ。この冷たくて恐ろしい世界で、彼を安心させてあげられるのは、私だけなんだ)
なぜ彼が苦しむのか、その根本的な理由は少しも理解できないまま。
マリーは愛しい少年の背中を優しく撫でながら、一切の濁りもない純度100%の献身の誓いを、ただ静かに、そして強固に更新していたのだった。
翌朝。
重く垂れ込めた灰色の雲が、パリの街を凍えさせていた。
士官学校の広大な大教室には、身を切るような静寂と、特有の冷酷な緊張感が張り詰めていた。
天井まで届く巨大な黒板の前に立つのは、軍部でも屈指の厳格さで知られる老齢の戦術教官。
そして、階段状に配置された豪奢な机には、仕立ての良い軍服に身を包んだ大貴族の子息たちがずらりと並んでいる。
その教室の、分厚いガラス窓のすぐ外。
冷たい風を避けるように石の飾りの上にうずくまっていた一羽の小鳥が、黒く澄んだ瞳で教室内をじっと覗き込んでいた。
(……始まった)
遥か上階、暗く冷え切った屋根裏部屋。
粗末なベッドの上に正座したマリーは、目をきつく閉じ、両手で祈るように胸のペンダント(かつてコルシカで拾った滑らかな石)を握りしめていた。
彼女の意識は完全に小鳥の視覚と聴覚にリンクし、大教室の張り詰めた空気を肌が粟立つほどの解像度で感じ取っている。
教官の低い咳払い。
貴族の生徒たちがページをめくる衣擦れの音。
そして、教室の最後列の端にポツンと座る、青白い顔をした一人の少年の姿。
「――では、この複雑な地形における、大砲の仰角と風速を計算した着弾予測について。……ボナパルト。前へ出て、黒板に式を書き、答えを述べよ」
教官の容赦のない声が大教室に響き渡った。
その瞬間、教室中の空気が、露骨な嘲笑と期待に満ちたものに変わった。
「あんな田舎者に解けるわけがない」「どうせまた、豚みたいな鼻息を出して立ち尽くすに決まっている」という、フランス貴族たちの声なき侮蔑が、小鳥の耳を通してマリーの脳に突き刺さる。
(大丈夫……。昨夜、あんなに何度も声に出して繰り返した。私がずっとそばにいて、彼は完璧に覚えたはずだわ)
マリーは屋根裏部屋で、祈るように唇を噛んだ。
ナポレオンが、ゆっくりと席を立つ。
軍靴の音がやけに大きく響く。
彼は無表情を装いながら黒板の前に立った。
しかし、小鳥の優れた動体視力は、彼の手にあるチョークが微かに震え、その額に冷たい汗が滲んでいるのをはっきりと捉えていた。
(……あ)
チョークを黒板に当てた瞬間。
ナポレオンの動きが、ピタリと止まった。
数十人の冷酷な視線が、彼の一挙手一投足に突き刺さる。
その尋常ではない重圧と恐怖が、彼の脳内の記憶を真っ白に押し流してしまったのだ。
数秒の、致命的な空白。
静まり返った教室に、「ほら見ろ」と言わんばかりの、貴族たちのニヤニヤとした笑い声が微かに波立ち始める。
教官の眉が、不快げにピクリと動いた。
(だめ、お願い……っ! 思い出して!)
屋根裏部屋のマリーは、絶望的な焦燥に駆られ、閉じた目の端から大粒の涙を滲ませた。
ペンダントを握る手に爪が食い込み、白く鬱血する。絶対に彼を笑わせない。
あの冷たい視線の暴力から、大好きな神様を護り抜かなければ。
彼女は真っ暗な視界の中で、物理的には絶対に届くはずのない遠い教室に向かって、ただひたすらに、すがるような祈りの呪文を唱え始めた。
「ナポレオン……ナポレオン、ナポレオン、ナポレオン……っ!」
どうか、彼を助けて。私の声を、あの暗闇の中で彼を温めた私の体温を、どうか彼に届けて。
(私がついています。誰もあなたを笑わせない。だからどうか、私の声に応えて……っ!)
一切の濁りもない、自己犠牲すら厭わない無垢な慈愛の連呼。
その、声なき絶叫が時空を超えたかのように。
絶体絶命の断崖絶壁に立たされていたナポレオンの耳の奥に、ふっと、甘く優しい声が響いた。
昨夜、冷たい床で震える自分を強く抱きしめてくれた、華奢で温かい腕の感触。
子守唄のように何度も、何度も繰り返してくれた、狂いのない完璧な数式と戦術の響き。
ナポレオンの白く震えていた拳に、微かな血の気が戻る。
カツン、と。
彼の手にあるチョークが、黒板を叩いた。
「――まず、対象地点の標高差を変数Xと置き、現在の南西の風速から弾道係数を算出します。その結果……」
静寂を切り裂いたのは、一切の感情を交えない、氷のように冷徹で淀みない声だった。
ナポレオンのチョークが、猛烈な速度で黒板の上を滑り始める。
マリーが昨夜、教官の部屋から盗み出し、彼が一晩中泣きながら暗記した「最も美しく、最も完璧な模範解答」。
彼は振り返ることなく、まるで背後の貴族たちなど塵芥であるかのように無視したまま、圧倒的な速度で黒板を複雑な数式で埋め尽くしていった。
「……したがって、仰角は三十五度。着弾までの予測時間は、十二秒となります」
最後にチョークを置き、チョークの粉を払う。
そして、氷のような冷たい瞳で教官を見据えた。
教室は、水を打ったように静まり返っていた。
先ほどまでニヤニヤと嘲笑を浮かべていた貴族の少年たちは、目の前で展開された「自分たちには到底理解できない高次元の解答」を前に、完全に言葉を失い、青ざめた顔で絶句している。
「……見事だ。一言の余地もない、完璧な解答である。よくぞそこまで戦術を理解しているな、ボナパルト」
教官の、最大限の賞賛を込めた声が響いた。
その瞬間、ナポレオンが「圧倒的な秀才」としての虚像を、完璧な現実として周囲に叩きつけたのだ。
(……っ、ああ……!!)
屋根裏部屋で。
小鳥の視覚越しにその完璧な勝利を見届けたマリーは、張り詰めていた意識のリンクをプツリと切断した。
一気に現実の冷たい部屋の感覚が戻ってくる。
彼女はベッドからずり落ち、石の床に膝をついて、両手で顔を覆った。
「よかった……っ。ああ、よかった……!!」
ボロボロと、大粒の涙が指の隙間から溢れ落ちて、冷たい床に黒いシミを作っていく。
彼が馬鹿にされなくて済んだ。
今日も彼を、あの恐ろしい世界から守り切ることができた。
圧倒的な安堵と、純度100%の無垢な歓喜が、マリーの小さな体を激しく震わせていた。
彼女の涙には、自身が大罪を犯している自覚も、彼を騙している罪悪感も微塵もなかった。
ただひたすらに、愛する神様の役に立てたという至福だけが満ち溢れている。
一方、大教室。
教官と周囲の畏怖の視線を一身に浴びながら、ナポレオンはゆっくりと自分の席に戻り、静かに腰を下ろした。
無表情で前を見据えるその「天才」の仮面の下。
机の影に隠された彼の手は、極度の緊張の反動で、先ほどよりもさらに激しくガタガタと震え続けていた。
(マリー。マリー、マリー、マリー……っ!)
彼は心の中で、自分を生かしてくれたただ一人の少女の名前を、血を吐くような必死さで連呼していた。
それは、屋根裏部屋で彼女が唱えていた無垢な祈りとは全く違う、ひどく泥臭く、重苦しい「命綱への執着」だった。
あの温もりと声がなければ、自分は間違いなく今日、嘲笑の海で溺れ死んでいたのだ。
彼女がいないと、俺は一日たりともこの『天才』の仮面を被り続けることはできない。
昼は、冷徹な仮面を被って周囲を騙し続ける空っぽの天才。
夜は、恐怖に震えながら彼女の胸にすがりつき、命を繋ぐ惨めな凡人。
この冷たい石壁の中で、彼が生き延びる道はそれしかなかった。
ただ純粋に「彼を守り抜いた」と無垢な涙を流して名前を呼ぶ少女と、「彼女がいなければ死ぬ」と恐怖に震えながら名前を呼ぶ少年。
決して届かない場所で互いの名を呼び合いながら、一切の理解がすれ違ったまま、二人の歪で絶対的な「共依存のサイクル」は、こうして士官学校の狂気的な日常として、完全に定着していくのだった。




