第二話 選ばれた侍女と無垢な歓喜
コルシカの乾いた風が、廃墟となった石壁の間に土埃を巻き上げる。
「行け! 右の路地に三人隠れてる! 陽動は任せた、本隊は裏手から回り込め!」
甲高く、しかし確かな自信に満ちた少年の声が、埃っぽい広場に響き渡った。
その声に従い、木の枝や木剣を構えた子供たちが一斉に駆け出す。
数分後、路地の奥から「うわあっ!」「背後を取られた!」という敵チームの悲鳴が上がり、勝敗はあっけなく決した。
「勝負ありだ! 俺たちの勝ちだな!」
夕日を背に受けて、ナポレオンが誇らしげに木の枝を突き上げた。
「くそっ、またナポレオーネの勝ちかよ……!」
「あいつの指示通りに動けば、絶対に負けねえ……」
「悔しいけど、あいつの頭の中、どうなってんだよ。敵の待ち伏せが全部見えてるみたいじゃないか」
砂まみれになって倒れ込むガキ大将たちの口から、次々と畏怖と賞賛の言葉が漏れる。
かつて彼を「貧乏貴族」と嘲笑い、石を投げていた者たちすら、今では誰もがナポレオンのチームに入ることを望んでいた。
彼の指揮下に入れば、どんな不利な状況からでも奇跡のように勝利できるからだ。
広場の隅、崩れかけた石壁の冷たい日陰に座り込みながら、マリーはその光景を静かに見つめていた。
彼女の頭の中では、広場の上空を旋回するトンビの視覚と、崩れたレンガの隙間を這う無数のトカゲたちの聴覚が、絶え間なく周辺の情報を拾い上げている。
(……敵の増援は途絶えた。東の路地は安全)
マリーは膝の上で組んだ指先をわずかに動かし、遠くにいるナポレオンに向けて、二人だけが決めた小さなサインを送る。
それを見たナポレオンが、満足げに頷く。
すべては、マリーが裏から支配する盤面だった。
彼女が動物たちから得た「絶対確実な情報」をナポレオンに伝え、彼がそれを「自身の戦術」として翻訳して指示を出す。
ただそれだけで、怯えていた凡人の少年は、誰もがひれ伏す無敗の「天才」へと変貌したのだ。
(ああ……神様が、笑っている)
夕日を浴びて輝くナポレオンの笑顔を見るたび、マリーの胸の奥は甘く、温かいもので満たされていった。
あの泥の路地裏で、震える手で自分を助けてくれた不器用な少年。
彼がもう二度と怯えなくて済むように。
彼が誰からも見下されないように。
そのためだけに、マリーはこの忌まわしい異能のすべてを彼に捧げていた。
彼が勝利の快感に酔いしれ、「俺は天才かもしれない」という無邪気な万能感を抱くこと。
周囲の子供たちが彼を「特別な存在」として崇め立てること。
それこそが、マリーにとっての絶対的な幸福であり、存在意義のすべてだった。
この閉じたコルシカの島で、彼と私だけの秘密の共犯関係は、永遠に続いていく。
そう、疑いもなく信じていた。
その時だった。
『……素晴らしい。ただの子供の遊びではない。あの戦術眼、あの完璧な指揮能力……』
マリーの脳内に、突如として別のノイズが割り込んできた。
それは広場を見下ろす丘の上、オリーブの木の陰に潜んでいた一匹の野ネズミが拾い上げた、低く興奮した男の呟きだった。
マリーは反射的に、オリーブ色の瞳を丘の方角へ向ける。
そこには、上等のフロックコートを着た長身の男――ナポレオンの父親、カルロ・ボナパルトが立っていた。
彼は広場で歓声を浴びる息子を、目を血走らせて見下ろしている。
ネズミの聴覚が、父親の乱れた呼吸と、野心に満ちた独白を克明にマリーの脳髄へと流し込む。
『あの子は本物だ。コルシカの田舎島でくすぶらせておく器ではない。我がボナパルト家の再興は、あの才能にかかっている……!』
(……え?)
『……決めたぞ。何としてでも学費を工面し、あの子をフランス本土へ送ろう。ブリエンヌの陸軍幼年学校へ入れ、エリートの将校に育て上げるのだ!』
ドクン、と。
マリーの心臓が、ひどく嫌な音を立てて跳ねた。
フランス本土。
ブリエンヌ。
海を隔てた、遥か遠い異国。
その言葉の意味を脳が理解した瞬間、マリーの視界から急速に色彩が抜け落ちていった。
周囲の子供たちの歓声が、ひどく遠く、水底から聞こえるような鈍い音に変わる。
指先から血の気が引き、真夏の熱気の中にいるはずなのに、全身の毛穴から氷のような冷や汗が噴き出した。
(本土へ、送る……?)
誰を。
彼を。
私の神様を。
私の、すべてを。
(どうして?)
父親の独白が、無機質なエコーとなってマリーの頭蓋を殴りつける。
『あの才能は本物だ』
『コルシカの田舎島でくすぶらせておく器ではない』
――ああ。
息が、できない。
喉を不可視の手で締め上げられたように、マリーは泥の地面をかきむしった。
すべては、私がやったことだ。
私が彼を勝たせたから。
私が彼に情報を与え、無敗の天才に仕立て上げたから。
彼を守り、喜ばせるために差し出したその「勝利」のせいで、大人たちは彼を特別だと勘違いし、この島から連れ去ろうとしているのだ。
私が、私の手で、神様を奪う理由を作ってしまった。
その絶望的なアイロニーが鈍器のように脳天をかち割った時、マリーの足元で、彼と築き上げた完璧な箱庭の世界が、音を立てて粉々に崩れ去っていくのを感じた。
海を渡れば、もう私の声は届かない。
彼は私から切り離され、見知らぬ異国の空の下で、再びあの「怯える凡人」に戻ってしまう。
そして何より、私は彼の手の熱に触れることすらできなくなるのだ。
「――マリー!!」
弾かれたように顔を上げると、夕日を背負ったナポレオンが、満面の笑みでこちらへ走ってくるのが見えた。
彼は額に汗を光らせ、泥だらけの手を大きく振っている。
「見たか! 今日の奇襲も完璧だっただろ! 俺たち、絶対に無敵だな!!」
何も知らない、太陽のように無防備で残酷な笑顔。
その眩しすぎる光を前にして、マリーの頭の中で反響していたすべてのノイズが、ふっ、と真っ白に焼き切れた。
「……ええ。とても、すごかったです」
マリーは、自分でも驚くほど平坦な声で答えた。
足元から急速に体温が奪われ、指先が氷のように冷たくなっていく。
本当は今すぐ泥の地面に突っ伏して、喉が裂けるほど泣き叫びたかった。
行かないで、私を一人にしないでと、すがりつきたかった。
けれど、そんな権利は、泥の中で生きる気味の悪い「魔女」にはないのだ。
彼が素晴らしい才能を認められ、光の当たる場所へ旅立つ。
それは祝福されるべきことであり、彼が幸せになることこそが、マリーの唯一の望みだったはずだ。
(これでいい。私が彼にできることは、これで全部、終わり……)
マリーは必死に呼吸を整え、引きつりそうになる頬の筋肉を無理やり動かして、彼を送り出すための「笑顔」を作ろうとした。
そんなマリーの足元に、ナポレオンがバシャッと乱暴な足音を立てて立ち止まる。
「あのさ、マリー」
彼の声が、先ほどの歓喜に満ちたものから、急にトーンを落とした。
マリーがびくっと肩を震わせて見上げると、ナポレオンはなぜかひどく気まずそうに、足元の小石を爪先で蹴飛ばしていた。
夕日に照らされた彼の横顔は、耳の裏まで真っ赤に染まっている。
「……親父がさ、俺をフランス本土の兵学校に入れるって、さっき言ってきたんだ」
「……そう、ですか。……おめでとう、ございます」
「立派な将校になるためには、ブリエンヌってとこで学ばなきゃいけないらしい。でも……」
ナポレオンはそこで言葉を区切り、ぎゅっと唇を噛み締めた。
その小さな両手は、いつかの路地裏でマリーを庇ってくれた時のように、ひどく不安げに、微かに震えているように見えた。
「親父は、身の回りの世話をさせるために、家の侍女を一人連れて行けって言ったんだ。けど……俺、そんな家の奴がついてきたって、ちっとも安心できない。あっちに行ったら、周りはきっとフランスの金持ちの貴族ばっかりで、俺みたいな田舎者は馬鹿にされるに決まってる」
彼の口からポロポロとこぼれ落ちたのは、「無敗の天才」の虚勢ではなく、どこにでもいるただの「怯える凡人」の、等身大の弱音だった。
ナポレオンはふいに顔を上げ、すがるような、それでいて必死に熱を帯びた瞳でマリーを真っ直ぐに見つめ抜いた。
「お前がいないと……俺、あっちで上手くやれる気がしないんだ。お前がいれば、俺はどこでだって無敵になれる気がするのに」
「……え?」
「だから……俺、お前がいい。家の奴なんかじゃなくて、お前が俺の侍女として、一緒にフランスへ来てくれないか!?」
ドクン、と。
マリーの胸の奥で、止まりかけていた心臓が、痛いほどの激しさで跳ね上がった。
(私と、一緒に……?)
海を隔てて切り離されると思っていた。
用済みの道具として、この泥の島に置いていかれるのだと思っていた。
けれど、彼は違った。
彼はマリーを置いていくどころか、その震える手を伸ばし、見知らぬ恐ろしい異国へ立ち向かうための「ただ一つの安心」として、他でもないマリーを強く求めたのだ。
「俺は、お前が必要なんだ。頼む、マリー!」
その言葉が耳の奥に響いた瞬間、マリーの世界を覆い尽くしていた灰色の絶望が、一瞬にして音を立てて砕け散った。
(ああ……)
冷え切っていた全身の血が、嘘のように熱を帯びて激しく駆け巡る。
頭の中で、鳥たちやネズミたちのノイズが、まるで祝福の鐘の音のようにけたたましく、そして美しく鳴り響いた。
彼は、私を必要としてくれている。
この「気味が悪い」と石を投げられてきた呪いのような力を、彼は誰よりも頼りにして、私を自分のそばに置きたいと願ってくれている。
ただそれだけの事実が、マリーという孤独な少女の魂を、世界のどんな奇跡よりも深く、力強く救済した。
「……っ、あ……」
声にならなかった。
マリーのオリーブ色の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出した。
止まらなかった。
絶望の涙ではない。
それは、泥の中で生み落とされた彼女が、生まれて初めて知った「誰かに求められる歓喜」の結晶だった。
「お、おい! なんで泣くんだよ! 嫌なら無理にとは……っ」
慌てて手を振るナポレオンに向かって、マリーは首を何度も、何度も強く横に振った。
「ちがっ……違います……っ」
マリーは泥だらけの自分の両手を伸ばし、ナポレオンの小さな、温かい右手を、祈るようにしっかりと包み込んだ。
手のひらから伝わってくる、彼自身の熱。
もう二度と触れられないと思っていたその体温が、今ははっきりとマリーの命と繋がっている。
(私みたいな、誰からも石を投げられるだけの泥まみれの女の子でも……彼の役に立てる。彼を一人ぼっちにさせないために、私がずっとそばにいてもいいんだ)
その事実は、これまでの人生で味わったどんな痛みよりも鮮烈に、彼女の胸の奥を温かい光で満たしていった。
気味が悪いと蔑まれていたこの力が、彼にとってのたった一つの「お守り」になれるなら、神様が私をこんな風に生み落とした意味は、すべて今日この日のためにあったのだとさえ思えた。
ただひたすらに、彼が怖がらずに済むように助けたい。
その見返りを求めない、どこまでも透き通った無垢な献身と安堵に包まれながら、マリーは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ナポレオンに向けた。
「行きます……。あなたが望むなら……私は、どこへでもお供します」
夕暮れの廃墟の中。
それは、世界中のどんな貴婦人よりも無垢で、どんな花よりも美しくほころんだ、ただひたすらに彼を想う純度100%の微笑みだった。
彼と一緒に、海を渡れる。
これからもずっと、彼のお世話をして、彼が笑う姿を一番近くで見ることができる。
見知らぬフランスという異国に対する恐ろしさも、侍女として身を捧げることの重さも、今のマリーの心には微塵も存在しなかった。
彼女の頭の中では、島中の小鳥たちが一斉に喜びに震えるような、美しく穏やかなさえずりが満ち溢れている。
夕日を背にした彼の手の確かな温もりと、明日からも彼と共に生きていけるという奇跡だけが、マリーという少女の小さな世界を、一切の曇りなく完璧に満たしていたのだった。




