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偉人の翼~皇帝ナポレオンと名もなきマリー~  作者: トムさん


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第13話 泥濘(でいでい)の喜劇と、胸を張る案山子

一八一五年、二月末。


闇夜に紛れ、流刑地エルバ島の港からひっそりと滑り出した一隻の帆船は、月明かりすらない鉛色の海上で、まるで死に絶えた巨大な獣のように完全に動きを止めていた。



「……なぜだ! なぜ風が吹かない!!」



甲板の上で、ナポレオンが自らの頭を掻きむしりながら、発狂したように叫んだ。 出航してわずか数時間。彼らを本土へと運ぶはずの追い風がピタリと止み、帆はだらりと垂れ下がり、船はエルバ島の沿岸からさして離れていない海上で、無慈悲な『なぎ』に捕らわれてしまったのだ。



「このまま夜が明ければ、見回りのイギリス船に見つかってしまう! 島を抜け出したと知れれば、今度こそ俺は、あの冷たい王党派の連中に縛り首にされるんだぞ……っ!」



彼は、剥がれかけた爪をガリガリと噛みながら、狭い甲板を檻の中の鼠のように歩き回っている。


かつてヨーロッパ全土を支配した皇帝の威厳など、そこには微塵もない。あるのは、迫り来る処刑の恐怖に完全に自我をすり潰され、ガタガタと膝を震わせる、ひとりの惨めな脱獄囚の姿だけだった。



「ひっ……! 今、あっちの闇の中で何かが光った! 船だ、イギリスの軍艦が追ってきたんだ!!」



「……落ち着きなさいませ、ナポレオン」



パニックに陥り、甲板にへたり込みそうになった彼の背中を。


暗がりから音もなく近づいたマリーの両手が、すっと、氷のように冷たく、しかし絶対的な力強さをもって支えた。



「あれはただの星の瞬きです。……夜の海を渡る海鳥たちが、私に教えてくれていますわ。イギリスの船は、私たちとは全く違う方角の海を、間抜けにもうろついていると」



マリーの透き通った声が、波の音も絶えた静寂の海に響く。


彼女の目は、恐怖に震える男の背中を見つめながらも、その奥底では、我が子を奪ったオーストリアの方角を、底知れぬ憎悪をもって睨み据えていた。


この男に、こんな海の上で死なれては困る。


彼には再び、私の憎き泥棒どもの喉首を食い破る、最も鋭利な『剣』として、狂気の戦場へと躍り出てもらわなければならないのだから。



「……本当か? 本当に、俺は殺されないのか……?」



「ええ。あなたは、ここで終わるようなちっぽけな命ではありません」



マリーは、彼の耳元に顔を寄せ、かつての栄光の記憶を、甘い毒のように鼓膜の奥へと注ぎ込んだ。



「思い出してください。あなたが初めて、この国の頂点に立ったあの日のことを。……数百万という、圧倒的な民衆の賛成票。彼らは自らの意志で、あなたという『英雄』を玉座に押し上げたのです」



「俺を……選んだ……」



「今、パリの玉座でふんぞり返っている太った王を、民は誰も愛してなどいません。……路地裏の泥を這うネズミたちが、毎晩私に囁いています。『あのコルシカの男の時代の方がマシだった』と」



マリーの言葉は、恐怖で縮み上がっていたナポレオンの自我に、再び『皇帝』という強烈な虚像を被せていく。



「あなたはまだ、愛されているのです。恐れることなど何一つありません。……フランスの土を踏んだなら、ただ胸を張り、堂々となさいませ。そうすれば、民は必ず、再びあなたの足元にひざまずきます」



「……胸を張り、堂々と……」



ナポレオンの瞳の奥に、マリーから与えられたその都合の良い幻影が、ゆっくりと、しかし確実に根を下ろしていく。


数時間後、夜明けと共に吹き始めた微風が帆を孕ませ、彼らを乗せた敗者の船は、静かに、そして運命に導かれるように南仏の海岸へと向かっていった。



――三月一日、午後。南仏、ジュアン湾。


人気のない寂れた砂浜に上陸したナポレオンを待ち受けていたのは、彼の帰還を熱狂的に迎える華やかな軍隊でもなければ、ひざまずく忠臣たちでもなかった。


そこにあったのは、長引く戦乱と重税に痩せこけ、薄汚れたボロ布を纏った、その日暮らしの貧しい農民たちの集団だった。


さらに少し離れた街道の先には、ナポレオン上陸の報を聞きつけ、彼を捕縛(あるいは射殺)するために差し向けられた、王党派の討伐軍の兵士たちが、銃を構えて物々しく陣取っている。



「……おい。見ろよ、あれ」



海岸で網を打っていた農民の一人が、泥だらけの長靴を引きずりながら、ナポレオンたちの前へと歩み出た。


その手には、赤錆の浮いた鋭い草刈り鎌が握られている。



「島に流されたって聞いてた、あのコルシカのお尋ね者じゃねえか。……なあ、パリの太った王様は、こいつの首にたんまりと懸賞金を懸けてるって噂だぜ?」



「へへっ……こいつの首を切り落として持っていけば、俺たち、一生遊んで暮らせる金貨がもらえるんじゃねえか?」



農民たちが、ギラギラと飢えた獣のような目を光らせ、じりじりと距離を詰めてくる。


マリーから「胸を張っていれば皆がひざまずく」と吹き込まれ、少しばかりの威厳を取り戻しかけていたナポレオンの鼻先に、彼らの放つ強烈な泥と獣脂の匂い、そして剥き出しの『殺意と貪欲』が突きつけられた。



(な……っ、なんだ、こいつらは……っ!)



ナポレオンの顔面から、一瞬にしてすべての血の気が引き、蒼白な死人の色に染まった。 尊敬も何もない。


ただ自分を「金に換えるための肉の塊」としか見ていない、底辺の民の生々しい暴力。


彼の頭の中は極限の恐怖で真っ白に染まり、膝は完全に硬直した。逃げることすらできず、彼は口を半開きにしたまま、文字通り『ただの案山子かかし』のように、その場に棒立ちになってしまったのだ。


その時。


農民の一人が、下品な笑い声を上げながら、ナポレオンの目の前へとしゃしゃり出た。



「おう、もらえるぜ! 金貨の山だ! なんなら俺が一番に、このコルシカ野郎の胸にこの剣を突き立てて、その褒美をそっくり独り占めしてやらぁ!!」



彼は、仲間受けを狙った悪ノリの冗談のつもりで、錆びた剣の切っ先を、硬直して動けないナポレオンの胸元スレスレに、勢いよく突きつけた。



「抜け駆けはずるいぞ!」



「俺にも一刺しさせろ!」



と、農民たちが下卑た笑い声を上げながら、ナポレオンの目の前で泥まみれの小競り合いを始める。


ナポレオンは、胸元に突きつけられた刃の冷たさに、完全に息を呑み、瞬き一つすることすらできなくなっていた。



『動けば、殺される』



その原始的な恐怖だけが彼を縛り付け、彼は両腕をだらりと下げ、胸を突き出したような無防備な姿勢のまま、ただ目をひん剥いて凍りついていた。



――しかし。


この、あまりにも泥臭く、低俗で滑稽な『怯える凡人と、悪ノリする農民の茶番劇』が。


少し離れた街道からその様子を伺っていた、討伐軍の兵士たちの目には、全く、完全に、そして歴史をひっくり返すほど都合の良い『別の光景』として映っていたのだ。



「……見ろ! あそこを!」



討伐軍の若い将校が、震える指で海岸を指差した。


彼らの位置からは、海風の音に遮られて、農民たちの下品な野次や冗談は一切聞こえない。


彼らの目に映ったのは――『武装した暴徒たちに刃を向けられながらも、一歩も引かず、自らの胸を堂々と張り出して立ちはだかる、偉大なる皇帝』の姿だけだったのだ。



「おお……! 皇帝陛下は、ご自身の胸を暴徒の刃の前に差し出しておられる!」



「逃げることも、命乞いをすることもなく……ただ、『余の胸を撃ちたいのなら、撃て!』と、その無言の覚悟で、我々に問いかけておられるのだ……っ!!」



誰かが口走った、その致命的で美しすぎる『誤読』。


それは、今の王制に不満を抱き、かつての栄光の時代を心の底で懐かしんでいた兵士たちの心に、劇薬のような感動となって瞬く間に燃え広がっていった。



「我々に……我々フランスの軍人に、あの偉大なる英雄の胸を撃つことなど、できるはずがない……っ!!」



ガチャン、と。


一人の兵士が、涙を流しながら、手にしたマスケット銃を泥の地面へと放り投げた。 それを皮切りに、次々と、何十、何百という兵士たちが銃を捨て、涙で顔を濡らしながら、硬直して動けないだけのナポレオンに向かって、深く、深くひざまずき始めた。



「……皇帝陛下万歳ヴィヴ・ランプルール!!」



「陛下万歳!! どうか、我々を再び陛下の軍門にお加えください!!」



地鳴りのような、熱狂的な歓声と忠誠の誓い。


目の前の農民たちも、その討伐軍の異様な熱狂に気圧され、「や、やべぇ、本物の軍隊が寝返りやがった」と、慌てて武器を放り捨てて土下座を始める。



「…………え?」



ナポレオンは、半開きの口から間抜けな音を漏らし、瞬きを繰り返した。


殺されるとばかり思っていた彼らが、なぜか全員、自分の足元で涙を流してひざまずき、地面に額をこすりつけている。


何が起きたのか、凡人の彼には全く理解できなかった。


ただ、その後ろで。


彼が「皇帝のポーズ」で胸を張っている(実は腰が抜けて硬直していただけの)その背中のすぐ後ろの暗がりで。



「……ふふっ。あははははっ」



マリーは、扇の陰で口元を隠し、肩を震わせて、声の出ない哄笑を上げていた。



(ああ、なんて滑稽なの! おかしいわ、おかしくてたまらない!)



恐怖で失禁しかけているただの小男の硬直を、「死を覚悟した英雄の立ち姿」へと勝手に脳内で変換し、涙を流して崇め奉る愚かな羽虫たち。


彼らは自分たちが、一人の少女が我が子を取り戻すための『復讐の駒』として、今まさに死の行軍へと巻き込まれたことなど、微塵も気づいていないのだ。



「……ほら、私の申し上げた通りでしょう? 陛下」



マリーは、呆然と立ち尽くすナポレオンの背中にそっと手を添え、まるで聖母のように、しかしその実、世界で最も昏く悍ましい悪魔の微笑みを浮かべて囁いた。



「皆が、あなたのその『覚悟』にひざまずき、涙を流しておりますわ。……さあ、彼らを引き連れて、パリへ……そして、私たちのすべてを奪ったヨーロッパの王たちの喉首を掻き切る、復讐の玉座へと進みましょう」



歴史に燦然と輝く、南仏での「奇跡の無血開城」。


その美しき伝説は、人間の泥臭い貪欲と、どうしようもない誤読、そして、すべてを取り戻そうと企む一人の魔女の、底知れぬ嘲笑によって、完璧な喜劇として幕を開けたのだった。




一八一五年、三月二十日。



南仏での滑稽な「奇跡」からわずか二十日後。


ナポレオンは一発の銃弾も撃つことなく、文字通り熱狂的な民衆の歓声の波に運ばれるようにして、首都パリ、テュイルリー宮殿へと帰還を果たした。



夜の帳が下りた宮殿の豪奢な大広間。


つい数時間前まで、そこにはナポレオンの失脚に乗じてパリに舞い戻った王(ルイ十八世)とその取り巻きの貴族たちがふんぞり返っていた。


彼らが皇帝の帰還に恐れをなして這々のほうほうのていで逃げ出した証拠に、大理石のテーブルの上には、食べかけの豪華な肉料理や、飲みかけのワインが惨めに取り残されている。



「……臭いわね」



誰もいない玉座の裏の暗がりで。


マリーは、宮殿の空気にねっとりとこびりついた、王党派の貴族たちが好んで使う甘ったるい白粉おしろいと安物の香水の匂いに、ひどく冷酷な嫌悪の顔を歪めた。



(私が留守にしている間に、薄汚い泥棒たちが、私の箱庭に勝手に上がり込んで、好き勝手に食い散らかしていたなんて)



彼女にとって、ナポレオンの復位は、単なる政治的な政権奪回などではない。


ヨーロッパの野蛮な王たちによって不当に奪われ、泥靴で踏み荒らされた『愛する彼と私だけの完璧な箱庭』を、再び自分の手の中へ取り戻しただけのことに過ぎないのだ。



(お掃除をしなければ。……この宮殿に染み付いた泥棒の匂いも、あの方を裏切る可能性のある不純な羽虫たちも、一匹残らず駆除して、完全に無菌の箱庭を作り直さなければ)



復位の翌日から、フランス帝国には血も凍るような徹底した『組織改革』の嵐が吹き荒れた。


表向きは、ナポレオンが発布した自由主義的な新憲法に基づく、寛容で新しい国家体制の構築。


しかし、その実態は、マリーの特異な知覚を縦横無尽に張り巡らせた、史上最も恐ろしく、そして完璧な『国家の傀儡かいらい化』であった。



マリーは、宮殿の屋根裏を這うネズミたちや、パリの街路樹に巣食う小鳥たちが拾い集めてくる無数の「生々しい密告の囁き」を、自身の脳髄で冷徹に咀嚼していく。



『……あのフーシェ(警察長官)は、皇帝に忠誠を誓いながら、裏でオーストリアの宰相と密書を交わしていますわ』



『昨日ひざまずいたあの元帥は、酒場で「皇帝がまた負けたら、今度は真っ先に寝返ってやる」と笑っておりました』



耳に届く、人間の底なしの狡猾さと裏切り。


かつてのマリーであれば、彼らがナポレオンを玉座から引きずり下ろそうと企んでいると知れば、震えながら彼を暗がりへかくまおうとしただろう。


しかし、今の彼女は違う。


我が子を奪われ、すべてを失う絶望を味わった彼女の心臓には、もはや一片の怯えもなく、ただひたすらにどす黒い殺意と支配欲だけが脈打っていた。



「……ナポレオン。あの将軍は、遠い国境の守備隊へ左遷しなさい。あの政治家は、汚職の罪を着せて投獄を。……ええ、鳥たちがすべてを教えてくれました。彼らは、あなたの背中から心臓を刺そうと企む、不純な裏切り者です」



夜の寝室で、マリーはナポレオンの耳元に甘く、しかし絶対的な死の宣告を囁き続ける。


ナポレオンは、エルバ島での絶対的な依存関係を経たことで、もはや彼女の言葉に一切の疑いを持たない完全な操り人形と化していた。



マリーの指示通りに、かつてナポレオンを裏切った者、少しでも己の野心を持っている有能な者たちは、次々と宮殿から物理的に排除されていった。


代わりに政府と軍隊の中枢に据えられたのは、自らの思考を持たず、ただ狂信的に皇帝を崇拝し、命令のままに命を投げ出すだけの「従順な肉の壁」たち。


マリーは、フランスという巨大な国家そのものを、自身の復讐のためだけに機能する、血の通わない巨大な『一本の槍』へと完璧に改造してしまったのだ。



――そして、数週間後。


深夜の玉座の間。


蝋燭の火が消えかけ、薄暗い影が支配する広大な石の空間に、ナポレオンはただ一人、疲労困憊した様子で玉座の階段に力なく腰を下ろしていた。



「……マリー」



彼が、暗がりを振り向くことなく、掠れた声で呼ぶ。


音もなく背後から現れたマリーが、彼の疲れ切った肩を、背後から優しく両腕で包み込んだ。



「どうなさいましたか、私の神様。……軍隊の再編は、順調に進んでおりますよ。これで同盟軍が何度攻めてこようと、私たちが負けることは決してありません」



しかし、ナポレオンは、その頼もしい戦果の報告を聞いても、かつてのように野心に満ちた笑みを浮かべることはなかった。


彼は、自らの大きな両手で顔を覆い、喉の奥でヒュッと引きつったような、哀れな嗚咽を漏らしたのだ。



「……もう、どうでもいいんだ」



「陛下……?」



「帝国も、玉座も、ヨーロッパの覇権も……俺には、そんなものはもうどうでもいい。……俺はただ、もう一度、あの子に……俺の息子に、会いたいんだ」



皇帝の仮面の下からこぼれ落ちた、凡人としての、どうしようもなく純粋で痛切な本音。


彼は、自分とマリー・ルイズという高貴な血統の間に生まれたと信じて疑わない「ローマ王」の温もりを、父親として狂おしいほどに渇望していた。


あの子を抱きしめたい。


父親と呼んでもらいたい。


そのためだけに、彼は再び玉座という血塗られた地獄へ舞い戻り、ヨーロッパ中を敵に回して死地へ向かおうとしているのだ。



「あの子は……今頃、ウィーンの冷たい宮殿で、俺を呼んで泣いているに違いない。……マリー、俺は、あの子を取り戻さなければ、息をすることすらできないんだ……っ」



ナポレオンの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、彼の手の甲を濡らす。



その、哀れで滑稽な男の背中を抱きしめながら。


マリーのオリーブ色の瞳の奥に、かつてないほど激しく、そして恐ろしいほどに純粋で凶悪な『業火』が燃え上がった。



(ええ。……ええ、そうですとも。あなたがあの子を求めて泣いてくれることが、私は何よりも嬉しい)



ナポレオンは、自分が「ハプスブルク家の高貴な血を引く息子」を想って泣いていると信じている。


しかし、マリーにとっての「あの子」は、自分が冷たい石の床で、腹を痛めて泥の中に産み落とした、世界でただ一つの『自らの血肉』である。


自分が愛する彼を守るために、己の母性を焼き切ってまで他人の女に差し出した、あの愛しくてたまらない我が子の重み。


二人の想い描く「あの子」の正体は、決定的に、絶望的なまでにすれ違っている。



だが、ヨーロッパの野蛮な泥棒たちから『我が子を奪還する』という、その狂気に満ちた執念のベクトルだけは、今、この薄暗い玉座の間で、全く同じ方向を向いて完璧に重なり合っていたのだ。



「……泣かないでくださいませ、陛下」



マリーは、ナポレオンの涙で濡れた頬に、自身の冷たい唇をそっと押し当てた。


彼女の顔に浮かんでいたのは、聖母の慈愛などではない。


世界中のすべてを灰燼かいじんに帰してでも己のすべてを取り戻すと誓った、地獄の底の魔女の微笑みだった。



「ええ。必ず、取り戻しましょう。……あの子は、私たち二人の、たった一つの命なのですから」



マリーの白く細い指先が、ナポレオンの軍服の胸元を、力強く、そして残酷なまでに優しく握りしめる。



「イギリスの首の太い将軍も、プロイセンの老いぼれも、オーストリアの泥棒どもも……私たちの行く手を阻む野蛮な獣は、私が一匹残らず皆殺しにして差し上げます。……さあ、彼らの血で泥濘ぬかるんだ道の先へ、あの子を迎えに行きましょう」



息子の奪還という、最も私的で純粋な愛情。


それが今、何十万という命をすり潰す、人類史上最も血生臭く、最も狂気的な『最後の戦争』への絶対的な引き金として、冷酷な玉座の間で完璧に装填されたのだった。


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