第12話 泥に沈む慟哭と、奪われた結晶
一八一四年、春。
かつてヨーロッパ全土を震え上がらせたフランス帝国は、雪原の死地から蘇った六カ国同盟軍という、途方もない大波の前に完全に飲み込まれようとしていた。
首都パリは陥落し、ナポレオンが逃げ込んだフォンテーヌブロー宮殿は、死を待つ巨獣の檻のように、重苦しく、ひどく冷え切った空気に満ちていた。
「……陛下。もはや、戦線を維持することは不可能です。兵士たちは飢え、弾薬も底を尽きました」
「どうか、ご決断を。国家と人民をこれ以上の惨禍から救うため、玉座からの『退位』を受け入れていただきたい」
豪奢な執務室。
分厚いマホガニーの机を挟んで、かつてアウステルリッツでナポレオンを「戦神」と崇め、忠誠を誓っていたネイ元帥たちが、今は氷のように冷ややかな、そして有無を言わせぬ威圧感をもって皇帝に迫っていた。
彼らの手には、すでに起草された「退位文書」と、インクを含んだ重い羽根ペンが握りしめられている。
(ああ。……終わるのだわ)
執務室の片隅、分厚いタペストリーの影に息を潜めるマリーは、その情景を静かに、硝子のように透き通った瞳で見つめていた。
彼女の耳には、宮殿を囲む同盟軍の軍馬のいななきや、剣を研ぐ不気味な金属音が、絶え間ない死の足音として響き続けている。
マリーの特異な知覚をもってしても、もはやこの巨大な物理的暴力のうねりを押し返す盤面は、どこにも残されてはいなかった。
(私の神様が、玉座から引きずり下ろされる。……でも)
マリーの視線の先で。
ネイ元帥から退位のペンを押し付けられたナポレオンの肩が、微かに、しかし確かに震えた。
彼は、血走った目を伏せ、唇を噛み締め、何かの感情を必死に押し殺しているように見えた。
側近たちは、その震えを「帝国の威信を手放すことへの、英雄の無念と絶望」だと信じて疑わず、悲痛な顔で息を呑んでいる。
しかし、マリーだけは、彼と完全に繋がったマリーだけは、その震えの『本当の理由』を完璧に理解していた。
(……ええ。震えるほどに、嬉しいのですよね。ナポレオン)
ナポレオンの震えは、絶望ではなかった。
それは、彼を何十年も縛り付け、胃を焼け焦がし、致死量の睡眠薬を呷らせてきた「皇帝」という名の巨大な化け物から、ようやく、合法的に解放されるという、凡人としての『究極の安堵と歓喜』の震えだったのだ。
「……分かった。余は、フランスのために、この冠を退こう」
ナポレオンは、絞り出すような低い声でそう告げると、震える手でペンを握り、退位文書に自身の名を刻み込んだ。
ペンを置いた瞬間、彼の背中から、何万トンもの見えない重圧がふっと消え去ったのが、マリーの目にはっきりと見えた。
(これで終わったんだ。俺はもう、誰の期待も背負わなくていい。何万人もの命を、数字として処理しなくていいんだ……!)
ナポレオンの心臓が、歓喜で甘く打ち鳴らされている。
(これからは、ただの一人の男として。……愛するマリーと、そして俺の血を分けたあの子と、三人だけで。誰にも脅かされない、静かな日陰で生きていける……!)
玉座という呪いからの解放。
彼が心の中で思い描いたそのささやかで純粋な「凡人の幸福」に、マリーの胸の奥もまた、温かい安らぎで満たされていった。
玉座が失われても構わない。
彼がもう二度と戦場に行かず、ただ私にすがりついて、私の腕の中で静かに呼吸をしてくれるのなら。
あの子と一緒に、コルシカの泥の中で慎ましく生きていけるのなら。
マリーは、彼に向けた深い慈愛の微笑みを浮かべ、彼がこちらを振り返り、安堵の涙を流すその瞬間を待ちわびていた。
しかし。
その、二人の密やかな安らぎの箱庭を、根底から叩き割るような、慌ただしい足音と怒号が、宮殿の廊下から響き渡った。
「――一大事でございます!! 皇后マリー・ルイズ様が!!」
血相を変えた侍従が、執務室に転がり込んでくる。
「皇后陛下が、数台の馬車に宮殿の財宝を積み込み、オーストリアの同盟軍の陣営へ向けて……逃亡なされました!!」
「……なにっ!?」
側近たちが色めき立つ。
しかし、ナポレオンの顔から一瞬にして血の気が引いたのは、妻の逃亡という事実に対してではなかった。
「……待て。ルイズが逃げたのはどうでもいい。……あの子は!? ローマ王はどうした!!」
ナポレオンが、侍従の胸ぐらを狂ったように掴み上げる。
「も、申し訳ございません……っ! 皇后様は、世継ぎであられるローマ王殿下を、自らの馬車に強引に乗せ、共に連れ去られました……っ!! オーストリアの庇護下に入るための、最大の切り札として……っ!!」
ドクン、と。
マリーの胸の奥で、自身の心臓が凍りつき、ひび割れるような、決定的な破滅の音が鳴った。
「――っ!! あ、あの子が……っ!?」
ナポレオンは侍従を突き飛ばし、そのままの勢いで、執務室の重い扉を蹴破るようにして廊下へと飛び出していった。
「マリー! マリー!!」
彼が、廊下を走りながら、狂ったように最愛の影の名を呼ぶ。
マリーは、自身の足の感覚が泥のように重く冷たくなるのを感じながら、血の気を失った顔で、彼を追って宮殿の中庭へと続く窓辺へと走った。
宮殿の巨大な石造りの中庭。
そこには、オーストリアの双頭の鷲の紋章が描かれた豪奢な馬車が、まさに今、重たい車輪の音を立てて城門を出て行こうとしているところだった。
「……待て!! 待ってくれ!! ルイズ!!」
ナポレオンが、泥にまみれた石畳の中庭へと転がり出た。
かつてヨーロッパを震え上がらせた覇者は、今や皇帝としての威厳など微塵もなく、軍服を泥だらけにし、両手を空に向かって必死に伸ばしながら、狂ったように馬車を追いかけて走った。
「帝国などどうでもいい!! 玉座も、財宝も、すべてくれてやる!! だから……だから、あの子だけは置いていけ!!」
彼の喉から絞り出されたのは、英雄の叫びではない。
ただ、自分の血を分けた愛する息子を、二度と手の届かない遠い敵国へと連れ去られようとしている、哀れで惨めな一人の『父親』としての、血を吐くような絶叫だった。
「あの子は俺の命だ!! お願いだ、あの子だけは、俺の子供だけは奪わないでくれェェェェッ!!」
泥の水たまりに足をとられ、ナポレオンは無様に転倒した。
それでも彼は、顔を泥だらけにしながら地面に這いつくばり、遠ざかる馬車の轍に向かって、爪から血が滲むほど石畳を掻きむしり、獣のような嗚咽を漏らして慟哭した。
彼がささやかに夢見た「凡人としての幸福」は、彼を憎む外界の理不尽な暴力によって、完全に、そして永遠に踏み躙られたのだ。
「……おお、陛下……っ!」
「我が国は敗れた。……しかし、陛下は玉座を失ってなお、帝国の未来たる世継ぎを……フランスの栄光を、最後まで諦めてはおられないのだ……っ!!」
ナポレオンの後を追って中庭に出てきたネイ元帥たちが、泥にまみれて泣き叫ぶ皇帝の背中を見て、見当違いの感涙を流し、その忠誠心に深く胸を打たれている。
我が子を奪われたただの父親の絶望が、またしても「帝国の威信を背負う英雄の慟哭」として、残酷なまでに完璧に誤読されていく。
しかし。
その凄惨で滑稽な地獄絵図を、宮殿の二階の窓辺から、氷のように冷え切った瞳で見下ろしている女がいた。
(……あの子が。……私の、命が)
マリーの細い両手は、窓枠の石を、爪が剥がれて血が滲むほどの異常な力で握りしめられていた。
彼女の脳髄の奥底で、かつて自分の腹を痛めて産み落とした命を、血塗られた産室で他人の女の腕に抱かせた、あの身を切られるような記憶が、走馬灯のように、そして恐ろしいほどの『無意味さ』をもってフラッシュバックしてくる。
(私は、彼を絶対の玉座で守り抜くために、私の血肉を差し出した。……一番愛する彼を救うためなら、自分が我が子の母親である権利を永遠に放棄することすら、喜んで受け入れたのに)
玉座を守るために差し出した、最高の生け贄。
しかし今、その玉座は、外の世界の理不尽な暴力によって奪い去られた。
玉座が失われたのなら。
私が我が子を手放したあの血みどろの献身は、私の引き裂かれた母性は、一体何の意味があったというのか。
(奪われた。……私の箱庭が。私のすべてが)
マリーのオリーブ色の瞳から、光という光が完全に抜け落ちていく。
自分がすべてをコントロールし、彼と二人きりで完璧に完結していたはずの絶対の理。
それが、同盟軍という自分には到底抗えない強大な物理的質量と、血筋を鼻にかける傲慢なオーストリアの女によって、泥靴で無惨に踏み荒らされたのだ。
「……あの子は、私の子よ」
マリーの唇から、かすれた、ひどく乾いた声が漏れた。
泥の中で泣き叫ぶ愛する神様の無様な背中と、我が子を乗せて遠ざかる敵国の馬車。
その二つの光景が、マリーの魂の底に眠っていた、これまでとは全く異質の、名状しがたい感情の蓋をこじ開けた。
(絶対に……絶対に、許さない)
それは、彼を守るための無垢な母性でもなければ、箱庭を掃除するための冷徹な作業でもなかった。
自分のすべてを奪い去った『外の世界』に対する、燃え盛るような、どす黒く、そして底知れぬほどおぞましい『憎悪と殺意』の着火だった。
窓枠を握りしめるマリーの手から、ポタ、ポタと鮮血が石の床に滴り落ちる。
彼女の瞳の奥に、かつてないほどの凶悪で、そして狂気に満ちた復讐の炎が、静かに、しかし決定的に燃え上がり始めていた。
一八一四年、晩春。
かつてヨーロッパ全土を震え上がらせた巨大な帝国は音を立てて崩壊し、その頂点に君臨していた男は、すべてを剥ぎ取られた惨めな罪人として、南仏の港から一隻の船に乗せられようとしていた。
流刑地、地中海に浮かぶ小島・エルバ島への出立。
港へ向かう馬車の外では、かつて「皇帝万歳」と熱狂的に叫んでいた同じ口で、民衆たちが「人食い鬼を殺せ!」「コルシカの野蛮人め!」と口汚い罵声を浴びせ、容赦なく泥や石を投げつけてくる。
同盟軍の騎兵たちが冷ややかな目で見下ろす中、護送される馬車の薄暗い車内で、ナポレオンはただ一人、ボロボロの外套に身を包み、膝を抱えてガタガタと震えていた。
妻には逃げられ、何よりも愛した息子は敵国へ連れ去られ、忠誠を誓っていた元帥たちは保身のために手のひらを返した。
彼の魂は完全に砕け散り、その瞳にはもはや何の光も宿っていない。ただの空っぽの肉の抜け殻だった。
しかし。
その絶対的な絶望の馬車の隅に、誰にも気付かれることなく、音もなく寄り添い、彼の冷え切った手を両手で包み込んでいる影があった。
「……マリー」
ナポレオンの掠れた声に、マリーは静かに、硝子のように透き通った瞳で頷いた。
勝者である同盟軍の将校たちや、寝返った貴族たちの目には、彼女はただの「没落した主人に最後まで付き従う、頭の鈍い哀れな下女」としか映っていなかった。
血筋も何もない、コルシカの泥から這い出てきただけの小間使い。
だからこそ、彼らはマリーを警戒することなど微塵もなく、敗残の皇帝の身の回りの世話役として、あっさりと同行を許したのだ。
(……愚かな人たち。あなたたちは、私という人間を、この世で最も危険な猛毒を、一番彼に近づけてはならない猛獣の檻の中へ、自ら招き入れたのよ)
マリーの唇に、誰にも見えない暗い冷笑が浮かぶ。
船は重たい錨を上げ、波を掻き分けて流刑の島へと進み始めた。
数日後。エルバ島の、潮風に晒された質素な館。
そこは、海という絶対的な城壁に囲まれた、完全なる密室だった。
監視の目はあるものの、島民たちは没落した皇帝にさしたる興味も持たず、刺客の刃も届かない。
もはやここには、皇帝を戦場へ引きずり出そうとする強欲な将軍も、血統を盾に取る傲慢な皇后も、誰一人として存在しなかった。
「……マリー。ああ、マリー……っ」
夜の静寂の中、海鳴りだけが響く薄暗い寝室で。
ナポレオンは、マリーの膝に顔を深く埋め、子供のように肩を震わせて泣きじゃくっていた。
「俺にはもう、何もない。……帝国も、ルイズも、俺を捨てた。あの子も、俺の手から奪い去られてしまった。……残っているのは、お前だけだ。お前のこの手の温もりだけが、俺が生きているたった一つの証明なんだ……っ」
彼がマリーの腰にしがみつくその力は、溺れる者が藁を掴むよりもさらに切実で、惨めなほどに弱々しかった。
玉座という重圧から解放され、すべてを失った彼は、完全に退行した赤子として、ただひたすらにマリーの母性だけを求めて泣き叫んでいる。
(……ええ。そうです。あなたはもう、私なしでは一秒たりとも生きていけない)
マリーは、彼の柔らかくなった髪を、細い指先で優しく、ゆっくりと梳いていく。
かつての彼女なら、この光景こそが、彼女が魂の底から待ち望んでいた『至福の頂点』だったはずだ。
彼を外界のあらゆる危険から完全に隔離し、誰の目にも触れない安全な日陰で、ただ私一人だけで彼を独占する。
彼が戦場に赴くことも、他の女を抱くこともなく、永遠に私の腕の中でだけ呼吸をしてくれる、完璧で絶対的な箱庭。
しかし。
マリーの胸の奥で渦巻いているのは、安らぎでも、独占欲が満たされた歓喜でもなかった。
彼女の心臓は、氷のように冷たく凝固した虚無感と、そして、臓腑を焼き焦がすような赤黒い『憎悪』の炎によって、ギリギリと音を立てて軋んでいた。
(私が望んだ箱庭は、こんな敗北と屈辱に塗れた牢獄ではない)
マリーの視線は、膝で泣き崩れるナポレオンの頭を通り越し、窓の外の暗い海――その遥か彼方、我が子が囚われているオーストリアの空を、恐ろしいほどの憎悪を込めて睨み据えていた。
私が、私の腹を痛めて産み落とした命。
愛する彼を絶対の玉座で守り抜くために、母親である権利を永遠に放棄してまで、彼らの足元へ投げ出してやった私の血肉。
それを、あの野蛮で傲慢な王たちは、土足で踏みにじり、不遜にも自分たちの戦利品として檻の中へ連れ去ったのだ。
(許さない。……私のすべてを奪った泥棒たち。私の子供を、オーストリアの薄汚い血塗られた手で弄ぶ、蛆虫ども)
マリーの特異な脳髄に、ドクン、ドクンと、かつてないほど凶悪で純粋な殺意が脈打つ。
このエルバ島という完璧な安らぎの箱庭は、今の彼女にとっては、外の世界の理不尽な暴力に対する『絶対的な敗北の証明』でしかなかった。
ここで彼と二人きりで静かに老いていくことなど、彼女の傷つけられた矜持と、引き裂かれた母性が、断じて許しはしない。
(……ええ。すべてを取り戻すわ。私の神様も、私の子供も、私の完璧な箱庭も。奪われたものはすべて、彼らの心臓を抉り出してでも、この手に取り返してみせる)
そのためには、この哀れに泣きじゃくる男を、この無害な牢獄で腐らせておくわけにはいかない。
すべてを諦め、牙を抜かれたただの男を、再び世界中を恐怖のどん底に陥れる『最も鋭く、最も残虐な復讐の剣』として、鍛え直さなければならない。
「……泣くのは、もうおやめなさい。ナポレオン」
マリーの透き通った声が、波の音を断ち切るように、静かに、そして絶対的な冷たさをもって寝室に響いた。
彼女の声に、ナポレオンがビクリと肩を震わせ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
「マリー……?」
マリーは、彼に向けたことのないような、妖艶で、そして背筋が凍るほどおぞましい黒い微笑みを浮かべた。
彼女の冷たい両手が、ナポレオンの震える頬を包み込み、その顔を強引に自分へと向けさせる。
「あなたは、こんな泥にまみれた小島で一生を終えるような、ちっぽけな男ではありません。……あなたの血を分けたあの子が、今も遠い異国の冷たい檻の中で、父親の助けを待って泣いているのですよ」
その一言が、ナポレオンの胸の奥底で消えかけていた、父親としての執念の火種に、致命的な油を注ぎ込んだ。
「あの子が……俺を、待っている……?」
「ええ。そうです」
マリーは、彼に覆い被さるように顔を近づけ、その耳元で、悪魔のように甘く、そして決定的な『毒』を囁き込んだ。
「……ここで、私の腕の中で英気を養いなさいませ。そして、時が来たら……この海を越えて、ヨーロッパ中の野蛮な王たちの喉笛を食い破り、私たちのすべてを奪った泥棒たちから、私たちのすべてを、残さず奪い返してやるのです」
ナポレオンの血走った瞳の奥に、かつて六十万の大軍を死地へと送り出した時のような、狂信的な野心の炎が、再び赤々と灯り始めた。
「そうだ……俺はまだ、終わっていない。俺は、あの子を取り戻さなければならない……っ!」
マリーは、彼の震える背中を優しく抱きしめながら、暗い窓ガラスに映る自分自身の顔を見つめていた。
そこにあったのは、もはや愛する者を戦場から遠ざけようとしていた無垢な少女の顔ではない。
世界を火の海にしてでも己のすべてを取り戻そうと企む、完全無欠の狂気と憎悪に染まった、復讐の女神の顔だった。
波鳴りだけが響くエルバ島の密室で。
ヨーロッパ全土を再び血で染め上げる、歴史上最も恐ろしい『狂気』が、たった一人の女の凄まじい執念によって、静かに、そして確実に培養され始めていたのだった。




