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偉人の翼~皇帝ナポレオンと名もなきマリー~  作者: トムさん


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第11話 白銀の処刑場と、無垢なる庭掃除





一八一一年、冬。


待望の世継ぎである「ローマ王」の誕生に沸き返ったフランス帝国は、見せかけの絶頂期を謳歌していた。


テュイルリー宮殿の豪奢な大広間には、連日のように祝宴が張られ、シャンデリアの眩い光の下で、分厚い勲章を胸に飾った武官(将軍や元帥)たちが、我が世の春とばかりに高笑いを響かせている。



『……陛下に次なる恩賞をねだるには、また新しい領地が必要だな』



『うむ。ロシアのツァーリ(皇帝)が大陸封鎖を破ってイギリスと貿易を始めた。あれを口実に、東の広大な土地を切り取ってやろう』



『我々が剣を抜けば、ロシアの雪など一月で溶けてなくなるわ!』



大広間の隅、分厚いタペストリーの影にひっそりと佇むマリーの耳には。


葉巻の煙と安っぽい香水の匂いに混じって、彼らのそんな『血生臭く浅ましい本音』が、途切れることのない不快な羽音となって鼓膜にこびりついていた。



(……うるさい。本当に、うるさい小蝿たち)



マリーのオリーブ色の瞳が、談笑する元帥たちの背中を、氷のように冷たく射抜く。


彼らは、アウステルリッツの恩賞を出し渋られたことを根に持ちながらも、新たな世継ぎが生まれたことで「帝国は永遠に続く」と錯覚し、底なしの貪欲さを丸出しにしていた。


彼らは自らの領地を広げ、自らの血統を太らせるために、玉座に座るナポレオンを再び血みどろの戦場へと引きずり出そうと企てている。



「陛下は我らの神輿だ」



「我々の剣がなければ、あのコルシカの男は一日たりとも玉座に座っていられないのだ」



口では絶対の忠誠を誓いながら、腹の底ではそんな不遜な思い上がりを抱いている軍靴を履いた獣たち。



(あなたたちの剣なんて、初めから必要なかったのに。……私が教えてあげた通りに動いていただけの、ただの出来の悪い手足のくせに)



マリーの胸の奥で、どす黒く、ひどく冷徹な殺意が、ゆっくりと鎌首をもたげた。


このまま彼らを野放しにしておけば、いずれ彼らの傲慢さはナポレオンの威光を蝕み、彼らは平気でその牙を愛する神様の喉首へと向けるだろう。


そして何より、彼らがナポレオンの周囲をうろついている限り、彼と私だけの完璧で静かな『箱庭』の空気が、不純な欲の匂いで汚れ続けてしまう。



(お掃除をしなければ。……この美しく整えたお庭から、目障りな羽虫を、一匹残らず駆除してしまわなければ)



どうやって殺すか。


暗殺では足りない。一人や二人を消したところで、軍隊という巨大な獣はすぐに別の頭を生やしてナポレオンに群がってくる。


軍の首魁たちを、そして彼らに付き従う何十万という邪魔な手足たちを、皇帝の威信に傷をつけることなく、合法的に、かつ完全にこの世から拭い去るための『巨大な処刑場』が必要だった。



マリーは目を閉じ、自身の意識を、華やかなパリの宮殿から遥か彼方、凍てつく東の果てへと飛ばした。



(……教えて。東の空を渡る鳥たち。深い森で身を寄せ合う狼たち。土の底で春を待つ虫たちよ。……今年の冬は、どうなるの?)



マリーの特異な知覚が、大自然の営みが発する微かな『予兆』を吸い上げていく。



東の空を渡る鳥たちの群れが、例年よりも半月も早く、逃げるように南下を始めている。


深い森の獣たちが、秋の初めから異常な量の脂肪を蓄えようと殺気立って土を掘り返し、越冬のための巣穴をいつもよりずっと深く掘り進めている。


木々の樹液の硬化。風に混じる、肺を刺すような冷たい匂い。



それらの無数の生々しい観測事実を咀嚼し、結像させた瞬間。


マリーの唇に、花がほころぶような、純度100%の美しく無垢な微笑みが浮かんだ。



(……ああ。なんて素晴らしいの)



自然のことわりが、マリーに絶対の真実を告げていた。


今年の東の果て――ロシアの大地には、例年よりもずっと早く、そして深く軍靴の足を凍りつかせる、凄惨で厳しい冬将軍が到来する。


何十万という人間が広大な雪原を進むにおいて、冬の訪れがたった数週間早まるという小さな「ズレ」は、食糧と補給の道を完全に断ち切る決定的な死の宣告となる。



普通の軍師であれば、その破滅の予兆を察知した瞬間、顔を青ざめさせて「陛下、決して東へ向かってはなりません。軍が全滅します」と叫び、遠征を全力で止めるだろう。



しかし、マリーの狂い切った愛の天秤においては、その大自然の容赦ない猛威すらも、愛する神様を縛る羽虫たちを一網打尽にするための『最高の殺虫剤』にしか見えなかった。



(あの広大で真っ白な雪原のど真ん中に、この傲慢な羽虫たちを全員誘い込んで、閉じ込めてしまえばいい。……そうすれば、私が手を下すまでもなく、誰もあそこから生きては帰ってこられないのだわ)



皇帝であるナポレオン自身は、分厚い毛皮に覆われた暖炉付きの馬車で、安全に守り抜けばいい。


死ぬのは、欲に目が眩んで雪原を行軍する将軍たちと、彼らの手足となる数十万の兵士たちだけでいいのだ。



マリーの頭の中で、完璧で、そして人類史上最もおぞましい『大量虐殺の設計図』が、音もなく組み上がっていった。



――その夜。


静寂に包まれた皇帝の寝室。



「……見ろ、マリー。この子の小さな手を」



皇帝の寝着を身にまとったナポレオンは、揺りかごの中で健やかな寝息を立てる我が子(ローマ王)を覗き込みながら、頬を緩ませきった、ひどく甘い声で囁いた。


彼は、赤子の小さな指を自分の無骨な指でそっと摘み上げ、愛おしくてたまらないというように目を細めている。



「この小さな手は、すでにヨーロッパの半分を握りしめているのだ。……あの由緒正しきハプスブルク家の高貴なる血と、無敵の俺の血が完全に混ざり合った、神に祝福された最高の結晶……!」



傍らの暗がりに控えていたマリーは、その言葉を聞きながら、一切の表情を変えずに「ええ、本当に美しい手ですわ」と相槌を打った。



(あなたが高貴な血統だと信じて疑わないその子は、泥にまみれたこの私のお腹から這い出てきた、私の血肉なのだけれど)



そんな、歴史を根底から嘲笑うような決定的なアイロニーを隠し持ちながら、マリーは静かに彼の背中を見つめ続けていた。



世継ぎを得た今のナポレオンに、かつて夜の天幕で嘔吐し、睡眠薬にすがりついて泣き叫んでいた「凡人の恐怖」は、微塵も残っていなかった。


圧倒的な光の只中に置かれたことで、彼は自身の血統が神に選ばれたのだと完全に錯覚し、肥大化した『父親としての野心』と絶対的な過信に、心地よく酔いしれていたのだ。



「俺は歴史上、誰よりも偉大な父親になる。……アレクサンドロス大王すら成し得なかった永遠の帝国を、この子に継がせてやるんだ」



ナポレオンは、力強く立ち上がり、部屋の壁に掛けられた巨大なヨーロッパ全図を、ギラギラと熱を帯びた瞳で睨みつけた。



「将軍どもが、ロシアを討てとうるさい。……だが、俺も同感だ。あの小賢しいツァーリ(ロシア皇帝)は、今のうちに徹底的に叩き潰し、フランスの威光を東の果てまで知らしめておく必要がある。……この子の未来に、一切の憂いを残さないためにな」



皇帝としての威厳と、父親としての盲目的な愛情。


彼は自らの意志で、自らの輝かしい栄光を信じて、広大なロシアの大地へと踏み込もうとしている。


かつてのように怯えているわけではない。


しかし、大軍を動かすことの途方もない困難さを、彼はまだ無意識のうちに恐れてもいた。



「……だが、東の地は果てしなく広い。マリー、お前はどう思う。俺とこの子の帝国は、あの広大な雪の国すらも、完全に飲み込むことができるか?」



彼が、背後を振り返る。


マリーは、音もなく彼のそばへと歩み寄り、その熱を帯びた背中に、自身の温かい胸をそっとすり寄せた。



怯えを宥めるのではなく、過信に火を注ぐための、完璧に調合された甘い毒。



「……ええ。飲み込めますとも、陛下」



マリーの細い指先が、ナポレオンの軍服の肩を、うっとりとなぞるように這っていく。



「あなたと、この子の偉大さを、あの傲慢なロシアに見せつける時です。……東の空の鳥たちも、森の獣たちも、皆があなたの軍靴の音が響くのを恐れ、そして平伏す準備をしておりますわ」



「そうか……! お前のその『目』が、俺の勝利を告げているのだな!」



「はい。……あの欲深い将軍たちをすべて引き連れて、東へ向かいなさいませ。私が、陛下の野心を叶えるための完璧な盤面を、雪が降る前にご用意いたします」



例年より早く訪れる死の冬を、あえて「雪が降る前に」と偽り、彼の不安を完全に払拭する。


これまで一度の狂いもなく自分を勝利に導いてきた、絶対的な命綱からの『勝利の保証』。


ナポレオンの瞳の奥で、最後に残っていたわずかな躊躇いが、ふっと消え去った。


代わりに宿ったのは、愛する息子の未来を永遠のものにできるという、狂信的なまでの全能感だった。



「よし……行くぞ! 将軍どもを集めろ。同盟国からも兵をかき集め、人類史上最大の六十万の軍隊で、ロシアを完全に叩き潰してやる……!!」



皇帝の瞳に、破滅へと向かう野心の炎が赤々と燃え上がった。


彼が力強く踵を返し、高らかな足音を響かせて書斎へと向かうその後ろ姿を。



マリーは、揺りかごの中で眠る我が子(ローマ王)の小さな頭を優しく撫でながら、静かに、そして身の毛もよだつほど美しく無垢な微笑みで見送っていた。



(……行ってらっしゃいませ、私の神様。そして、目障りな羽虫たち)



マリーの頭の中で、六十万という天文学的な命の数が、白い雪に埋もれて音もなく消滅していく未来の光景が、あざやかに結像していく。


それは彼女にとって、戦争でも、遠征でもない。


愛する神様の玉座を永遠に無菌状態にするための、たった一度の、壮大な『冬の庭掃除』の幕開けだった。




一八一二年、冬。東の果て、ロシアの大雪原。


そこは、人類が築き上げた傲慢な文明など、一瞬で凍りつかせて粉砕する、白銀の処刑場だった。



(……寒い。……痛い。……動け、動いてくれ、俺の足……っ)



燃え落ちたモスクワからの退却戦。


かつてテュイルリー宮殿の大広間で、勲章を揺らして高笑いを響かせていた誇り高きフランス軍の将軍や元帥たちは、今やその誰もが、ボロ布を纏い、飢えと寒さに顔を引き攣らせた、ただの這い蹲る獣へと成り下がっていた。



メキッ、メキメキッ。



凍傷で完全に死に絶えた彼らの指先や足先が、行軍の振動に耐えきれず、まるで枯れ枝のように音を立てて砕け散っていく。


だが、彼らは悲鳴を上げることすらできない。


喉の奥までカチカチに凍りつき、吐き出す息さえも空中で白く凍って、自らの視界を塞ぐ死のとばりとなるからだ。



「……馬を、馬を殺せ! 肉を……生肉を寄越せ!!」



飢えに耐えかねた兵士たちが、昨日まで自らの大砲を引いていた軍馬に群がり、その喉笛を食い破って、温かい血と肉を貪り食う。


だが、その温もりも数秒後には、ロシアの絶対的な冷気によって奪い去られ、彼らの唇を赤黒い氷で縫い合わせるだけだった。



大広間で「東の広大な土地を切り取ってやろう」と息巻いていたあの将軍も。


「我々が剣を抜けば、ロシアの雪など一月で溶けてなくなる」と豪語していたあの武官も。


彼らの不遜な野心も、皇帝への隠れた侮蔑も、マリーが用意したこの『巨大な処刑場』の前では、無力な塵芥として白一色の雪の下に、音もなく、平等に、そして無残に埋め殺されていく。


彼らを戦場へと駆り立てていた「欲」という不純物は、マイナス三十度の冷気によって完全に凍結され、砕かれ、フランス帝国の歴史からその存在を永遠に拭い去られようとしていた。



――その凄惨な地獄絵図のド真ん中。


何十頭もの馬に引かせた、皇帝専用の分厚い毛皮で覆われた巨大な馬車。


その内部は、外の地獄とは裏腹に、暖炉の火が赤々と燃える、異様なまでに暖かい密室だった。



「ひっ……! 寒い、怖い……っ! マリー、マリー……っ!!」



皇帝の軍服を脱ぎ捨て、最高級の熊の毛皮に何枚もくるまれたナポレオンは、馬車の床にうずくまり、ガタガタと全身を激しく震わせていた。


胃袋の中からは、数日前から黄色い胃液ばかりを吐き続けているせいで、血の味が喉の奥にこびりついている。



(違う。こんなはずじゃなかった……! マリー、お前は俺に、勝てると言ったのに! 雪が降る前に、モスクワは平伏すと……っ!)



ナポレオンの心臓は、恐怖と絶望で今にも破裂しそうだった。


彼は、自分の過信が、父親としての肥大化した野心が、自分自身をこの白い地獄へと誘い込んだのだとは、微塵も思っていない。


彼は、ただひたすらに、心の中で最愛の命綱マリーの名を叫び、泣きじゃくりながらすがりつこうとしていた。



(教えてくれ、マリー! これからどうすればいい! どの道を進めば、俺は……俺はあの子の元へ帰れるんだ……っ!)



声にならない、凡人の断末魔。


彼がこれまでのすべての危機を乗り越えてきた、完璧で絶対的な共依存の回線。


彼が心の中でマリーを呼べば、彼女は必ず、最も正しく、彼を絶対に傷つけない完璧な答えを、その美しい唇で囁いてくれるはずだった。



しかし。


ナポレオンのその祈るような絶叫は、虚しく空を切り、どこにも届くことはなかった。



馬車の外。


ロシアの空を飛んでいた渡り鳥は、羽ばたく前に凍りついて墜ちた。


森の獣たちは、異常な寒さに冬眠の奥深くへと沈み、虫たちも土の底で完全に凍死していた。



大自然の営みが発する、すべての生命の『声』が、マイナス三十度の絶対的な冷気によって物理的に遮断され、凍りつき、沈黙していたのだ。


マリーの特異な脳髄へと戦場の情景を伝えるはずの、無数の端末(動物たち)が、ことごとく機能不全を起こして死に絶えた世界。



初めて、本当に初めて。


ナポレオンは、補助輪を外され、誰も俺の言葉を翻訳してくれない、たった一人の凡人として、この凍てつく宇宙の真ん中に放り出されてしまったのだ。



「……マリー……? マリー!! なぜだ、なぜ俺を見てくれない!! 俺を見捨てないでくれ、マリー……っ!!」



暖炉の火が燃える暖かい馬車の中で。


フランスの皇帝は、毛皮に顔を埋め、赤ん坊のように大声を上げて、二度と戻ることのない最愛の影を求めて泣き狂い続けたのだった。



――同時刻。


パリ、テュイルリー宮殿の暖かな私室。



外界の凄惨な地獄など欠片も感じさせない、薔薇の香油の甘い匂いが充満した密室。


マリーは、赤々と燃える暖炉の火のそばで、穏やかな顔で揺りかご(我が子)を永遠のリズムで揺らしていた。


蝋燭の火が、彼女のオリーブ色の瞳に、甘く、どろりとした歓喜の色を反射させている。



(……チチチ、カサコソ。……ザァァァッ)



数日前まで、彼女の脳髄を埋め尽くしていた、東の果てからの動物たちの囁き。


渡り鳥の羽ばたき、狼の遠吠え、雪の下を這うネズミたちの足音。


それらの無数の生々しい情景が、寒さの訪れと共に一つ、また一つと途絶え、濁り、ついに今、完全なる「無音」へと暗転した。



それは、彼女の知覚が、物理的に東の戦場を把握できなくなったという敗北の証明。


しかし、マリーの心に湧き上がっていたのは、焦りでも、愛する彼への心配でもなかった。



(ああ。……終わったわ。やっと、静かになった)



マリーの唇に、花がほころぶような、純度100%の美しく無垢な微笑みが浮かんだ。


彼女にとって、東からの声が途絶えたという事実は、そのまま、愛するナポレオンの周囲に群がっていた、あの傲慢で不純な「将軍(羽虫)」たちが、六十万の大軍共々、深い雪の下に永遠に閉じ込められた(=掃除が完了した)という、完璧な証明だったのだ。



一片の涙も、罪悪感も、憐憫も湧かない。


彼女にとって、六十万の命の喪失は、ただナポレオンの玉座を汚していた雑巾の汚れを、きれいに拭き取って捨て去った、それだけの無機質な作業の完了に過ぎなかった。



(可哀想な羽虫たち。……雪の毛布で、永遠にお眠りなさい。二度と、私の神様を、汚らしい戦場へ連れ出さないように)



マリーは、揺りかごの中で眠る我が子(ローマ王)の小さな頭を、愛おしくてたまらないというように優しく撫でた。



(あなたも、良かったわね。これで、不純な欲を持った大人たちは、あなたの周りから一人もいなくなったわ。……ナポレオンも、もう二度と、私なしでは生きていけないことを、身に染みて理解して帰ってくる)



すべては、私の計算通り。


傲慢な将軍たちは雪に沈み、過信に燃えていた皇帝は完全にぶっ壊れて、私の肉体(檻)の中へと、泣きながら逃げ帰ってくるしかないのだ。



「早く帰ってきてくださいね。私の神様。……私が、うんと甘やかして、二度と外の世界なんて見なくて済むように、私の温もりで絡め取ってあげますから」



パリの暖かな宮殿で。


帝国最大の悲劇が、たった一人の少女の歪んだ母性によって、完璧な『作業の完了』として祝福される。


暖炉の炎に照らされたその微笑みは、聖母のように優しく、そして、この世界で最も背筋が凍るほど悍ましく、無垢な狂気に満ち満ちていたのだった。


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