第一話:コルシカの泥と、絶対確実な予言者
コルシカの土は、いつも微かに血と泥の匂いがした。
鋭い痛みが左頬を弾く。
投げつけられた小石が皮膚を裂き、生温かいものが首筋を伝い落ちていくのがわかった。
「気味が悪いんだよ! 鳥と喋る魔女め!」
「こっちを見るな、呪われるぞ!」
怒声と嘲笑が、頭上の濁った空から降り注ぐ。
泥の水たまりにうずくまったマリーは、しかし、声も上げず、泣いてもいなかった。
ただ無機質なオリーブ色の瞳で、地面を這う一匹のハツカネズミのせわしない動きと、屋根の縁で羽繕いをする雀の羽ばたきをじっと追っている。
(……粉屋の主人が、裏の倉庫に小麦を隠した……南の風が湿っているから、明日は雨……教会の裏手で野犬が死んでいる……)
頭の中は、人間たちの罵声よりも、島中の小動物たちがもたらす無価値で膨大な情報の濁流で満たされていた。
絶え間なく流れ込むそのノイズの前にあっては、自身の肌を打つ痛みすらも、遠い対岸の出来事のようにひどく鈍い。
誰も私を助けない。
それは悲劇ではなく、単なる事実だった。
このまま冷たい泥に沈んで死ぬのも、また一つのデータに過ぎない。
そう無関心に結論付けようとした、その時だった。
――ぷつん、と。
頭蓋の裏側で絶え間なく反響していた無数のさえずりと足音が、唐突に消失した。
屋根の上の雀が、何かに怯えるようにピタリと動きを止める。
地面を這っていたハツカネズミが、泥の中に石のようにうずくまる。
マリーの脳内を埋め尽くしていた情報の濁流が、まるで分厚い見えない壁で遮断されたかのように、完全な「無音」へと切り替わった。
(……ノイズが、消えた?)
物理的な音さえも遠のいていく。
振り上げられたいじめっ子の腕が、空中で奇妙に停止する。
彼らもまた、路地の空気が急激に冷え、目に見えない真空状態に陥ったかのような錯覚に囚われ、本能的に息を呑んでいた。
世界から一切の音が奪われた、圧倒的な空白。
その沈黙の底を真っ直ぐに突き破って、不格好な足音が路地裏に踏み込んできた。
「――やめろっ!!」
甲高く、裏返りそうになる声が響いた。
降ってくるはずだった石が完全に止む。
マリーが視線をわずかに上げると、泥はねの上がった粗末なブーツが視界に入った。
「なんだ、貧乏貴族の次男坊じゃないか」
「引っ込んでろよ、ナポレオーネ。お前も呪われたいのか?」
いじめっ子たちの嘲笑を前に、その少年は立ちはだかっていた。
手にはその辺りで拾ったらしい、折れた木の枝を握りしめている。
「多勢に無勢で、抵抗できない相手に石を投げる……っ、そんな恥知らずな真似が、誇り高きコルシカ人のやることか!」
それは、誰の目にも明らかな虚勢だった。
マリーの研ぎ澄まされた感覚は、彼の張った声の裏側にあるものを冷酷なまでに正確に読み取っていた。少年の心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、木の枝を握る指の関節は白く染まり、細い両足は生まれたての仔馬のように微かに、しかし確かに震えている。
彼は怖いのだ。
暴力が、嘲笑が。
それでも彼は、逃げ出さなかった。
自分を守るための打算や、誰かに見せびらかすための計算など微塵もない。
ただ、目の前で踏みにじられているマリーを見過ごせないという、不器用で純粋な正義感だけが、彼をその場に縫い留めていた。
「……っ、これ以上やるなら、親父に言って軍隊を呼ぶぞ! 総督府にも直訴してやる!」
到底通るはずもない、子供騙しのハッタリ。
しかし、その必死な剣幕と「軍隊」という言葉に、いじめっ子たちは舌打ちをして石を投げ捨てた。
「……けっ、面白くねえ。行くぞ」
足音が遠ざかり、路地に再び、先ほどとは違う現実の静寂が降りる。
「……あいつら、もう行ったぞ」
声が降ってくる。
さっきまでの張りのある声ではなく、安堵で微かに震える、年相応の少年の声。
カラカラと音を立てて木の枝が地面に落ちる。
少年――ナポレオンは、大きく息を吐き出しながら泥だらけのマリーの前にしゃがみ込んだ。
「立てるか?」
差し出された手。
それは、マリーを忌み嫌い石を投げた手ではない。
マリーは瞬きを一つして、おずおずとその手を見た。
泥と擦り傷だらけの、小さな手。
彼女は自分の冷たくなりきった指先を、その掌にそっと重ねた。
――熱い。
火傷しそうなほどの体温だった。
しかし、そこからマリーの冷たい肌へと流れ込んできたのは、ただひたすらに不器用な、やさしさと慈愛の熱だった。
重なり合った彼の手のひらは、じっとりと手汗を握り、恐怖を乗り越えたあとの余韻で未だに微かな痙攣を繰り返している。
彼は、マリーと同じように痛みを恐れ、暴力に怯える、どこにでもいるただの「凡人」に過ぎないのだ。
(ああ……この人は、私と同じくらい弱くて、ひどく怯えている)
にもかかわらず、彼は震える足で立ちふさがり、このやさしさを差し出した。
そのどうしようもない凡人としての弱さと、損得を度外視した純粋な慈愛の同居。
それこそが、情報という無機質なデータに埋もれていたマリーの心を、根底から狂わせる決定的な猛毒だった。
彼女のオリーブ色の瞳の奥で、何かが静かに、しかし決定的に壊れ、そして新しく組み上がっていく音がした。
「……ええ」
マリーは、その震える凡人の手を、もう二度と離さないと誓うように、ゆっくりと、強く握り返した。
その瞬間、ナポレオンは弾かれたように肩をビクッと震わせ、慌てて手を引き抜いた。
「あ、いや……っ、別に、お前を特別に助けたわけじゃないぞ!」
引き抜かれた手は、照れ隠しのように泥だらけのズボンをパンパンと乱暴に払っている。
彼の顔は耳の裏まで真っ赤に染まっていた。
まだ微かに震えている自分の膝をごまかすように、わざと大股で足を踏み鳴らし、そっぽを向く。
「あいつらが、多勢に無勢でコルシカの誇りを汚すような真似をしてたから……そう、俺は正義感から注意してやっただけだ! 勘違いするなよ!」
それは、どこにでもいる強がりの少年の、不格好な言い訳だった。
けれど、空を切って胸元に取り残されたマリーの手のひらには、彼から与えられた熱が、火傷のようにじんじんと残り続けていた。
冷たい泥と、石の痛みと、冷ややかな視線しか知らなかった彼女の人生で、初めて触れた他者の体温。
それは、冷え切った暗い部屋に突然投げ込まれた、小さな、けれど決して消えないランタンの灯りだった。
(……温かい)
その事実を反芻した瞬間だった。
――ざわわ、ちゅん、ちチュ、ちちち、カサコソ……。
先ほどまで完全に遮断されていた動物たちのノイズが、決壊したダムのように再びマリーの脳内に流れ込んできた。
屋根裏を這うネズミの爪音、軒先をかすめるツバメの羽ばたき、遠くの広場でパン屑をついばむ鳩のさえずり。
いつもなら、ただ頭痛を引き起こすだけの無価値な濁流。
しかし、今のマリーには違った。
彼女の心には今、「この優しい少年の役に立ちたい」という、生まれて初めての強烈で純粋な『能動的な意志』が灯っていたのだ。
(助けたい。恩返しがしたい。……この人が、困るようなことを、探して)
痛みをやり過ごすために閉ざしていた感覚を、マリーは自らの意志で大きく開いた。
濁流のように押し寄せる島中の情報の渦に手を突っ込み、目の前にいる「不器用な恩人」に繋がる細い糸だけを、必死にたぐり寄せる。
まだ誰かのために力を使ったことなどない彼女にとって、それはひどく拙く、眩暈がするほどの集中力を要する作業だった。
やがて、広場の鳩の視覚と、裏通りを走るハツカネズミの聴覚が、マリーの脳内で一つのささやかな事実を結像させた。
(……お父様……怒ってる……青い上着……裏庭の木……)
マリーはハッと息を呑んだ。
顔を上げると、ナポレオンが気まずそうに背を向け、路地を出て行こうとしているところだった。
マリーの胸の奥で、恐怖が冷たい蛇のように鎌首をもたげた。
言葉にすれば、どうなるだろう。
彼もまた、他の子供たちと同じように「気味が悪い」と顔を歪めるのではないか。
「魔女だ」と罵り、先ほどまで温かかったその手で、今度は自分を突き飛ばすのではないか。
投げつけられた石の痛みが左頬に蘇り、喉がカラカラに引きつる。
それでも――どうしても、伝えずにはいられなかった。
震えながら自分を庇ってくれたこの優しい彼が、これ以上誰かに怒られたり、痛い思いをしたりしてほしくなかったから。
「……あの、待って」
泥の底から絞り出したような、掠れた細い声だった。
ナポレオンがピタリと足を止め、振り返る。
その無防備な顔に向けて、マリーは震える両手を胸の前で強く握り合わせ、俯いたまま必死に言葉を紡いだ。
「……お父様が、あなたを、探していらっしゃいます」
「え……?」
「ボナパルト家の裏庭で……あなたが昨日、木登りをして破いてしまった、青い上着を見つけて……とても、怒って、探しています」
心臓が破裂しそうだった。
声が震え、息継ぎの仕方もわからなくなる。
それでも彼女は、たぐり寄せた情報の糸を、祈るように彼へと差し出した。
「表通りから帰ると、すぐに見つかって、ぶたれてしまうから……粉屋の裏の、狭い路地を通って帰ったほうが、いい、です……」
言い終えた瞬間、マリーはぎゅっと目を瞑った。
拒絶の言葉が降ってくる。
石が飛んでくる。あの軽蔑の眼差しで射抜かれる。
そう覚悟して、身をすくめ、嵐が過ぎ去るのを待つように息を止めた。
しかし――。
いつまで経っても、罵声は降ってこなかった。
振り下ろされるはずの暴力も、冷たい足音も響かない。
あるのはただ、呆然とするような奇妙な静寂だけだった。
恐る恐る、マリーが薄く目を開ける。
そこには、石像のように固まったナポレオンがいた。
彼の丸く見開かれた瞳の中にあるのは、マリーが死ぬほど恐れていた「嫌悪」でも「恐怖」でもなかった。
それは、理解の及ばない現象を前にした、純粋で無垢な『驚愕』だった。
「……お前、どうして……。親父が今怒ってることや、俺が隠した上着のことまで……なんで、分かったんだ……?」
ナポレオンの丸く見開かれた瞳の中にある驚愕は、数秒の沈黙ののち、徐々に「理解の及ばないもの」を見る、警戒と疑念の色へと濁っていった。
彼は微かに顔を引きつらせ、泥まみれのマリーに向かって一歩、じりっと詰め寄った。
「適当なことを言って、俺をからかってるのか? それとも、親父の使いで俺を探しに来たのか!? どうして、ここにいながらそんなことが分かるんだよ!」
その声には、未知の能力に対する怯えと、子供特有の残酷なまでの拒絶の響きが混じっていた。
マリーの心臓が、ヒュッと冷たく縮み上がる。
(ああ……)
やはり、ダメだったのだ。
どれほど勇気を振り絞っても、この「呪い」は誰にも受け入れられない。
せっかく見つけた、温かくて不器用な恩人でさえも、結局は私を気味が悪いと言って遠ざけるのだ。
掌に残っていたはずの彼の熱が、急速に凍りついていくような錯覚。
喉の奥から、声にならない嗚咽が込み上げる。
世界でたった一つだけ見つけた光が、今、私の目の前で永遠に失われようとしている。
私という存在は、誰の役にも立たない、ただ泥の中で生み落とされた気味の悪いバグでしかなかったのだ。
これほどの絶望を知るくらいなら、あの温かさになんて触れなければよかった。
マリーは呼吸の仕方を忘れ、決定的な孤独に身をすくめて、再び投げつけられるであろう「魔女」という罵声を待つように、ぎゅっと目を閉じた。
その時だった。
『ナポレオーネ!! どこに隠れておる、出てきなさい! この泥だらけに引き裂かれた上着はどういうことだ!!』
大通りから路地裏へ向かって、怒りに震える野太い男の怒鳴り声が響き渡った。
それは間違いなく、ナポレオンの父親の声だった。
しかも、マリーがたった今口にした通り、「破れた上着」に激怒している。
ナポレオンの非難めいた声が、ピタリと止まった。
彼の体が、まるで雷に打たれたように硬直するのが、目を閉じていても空気の振動で分かった。
マリーが恐る恐る薄目を開けると、彼の顔からは先ほどの疑念も警戒も完全に消え去り、ただ純粋な衝撃だけが張り付いていた。
彼の視線が、大通りと、泥だらけのマリーの顔を何度も行き来する。
やがて、その震える唇から、かすれた声が漏れ出した。
「お前……本当だったのか」
それは、恐怖ではなかった。気味悪がる響きでもなかった。
彼の声には、絶対的な事実を突きつけられたことによる圧倒的な驚嘆と、そして何よりも――。
「すげえ……っ!! お前、本当にここにいながら、親父のことが分かったのか!? なんだよそれ、魔法みたいじゃないか!!」
ぱぁっと。
彼の顔に、太陽のような無邪気な輝きが宿った。
恐怖で微かに震えていた凡人の少年が、マリーの「異常性」を前にして、逃げ出すどころか目を輝かせて身を乗り出してきたのだ。
「す、魔法……?」
「ああ! お前のおかげで、ぶたれずに済む! 助かった、すげえよお前!」
その言葉が、マリーの冷え切っていた耳の奥に、甘く、熱く反響する。
(すごい……? 私が?)
石を投げられ、蔑まれ、ただの無価値なノイズを受信するだけだったこの忌まわしい呪いを、目の前の少年は「すげえ」「助かった」と、真正面から全肯定してくれたのだ。
途端に、マリーの視界を覆っていた灰色の世界が、彼を中心として鮮やかな色彩を帯びて爆発した。
胸の奥で、決して溶けることのないと思っていた巨大な氷塊が、音を立てて崩れ落ち、熱を帯びた感情の奔流となって全身を駆け巡る。
『ナポレオーネ!!』
再び、大通りから声が近づいてくる。
「っ、やばい、親父が来る! 俺、粉屋の裏から逃げるわ!」
ナポレオンは慌てて身を翻し、路地の奥へと駆け出そうとした。
しかし、数歩進んだところで急ブレーキをかけ、弾かれたように振り返る。
彼は泥だらけの靴を鳴らし、ひまわりのような満面の笑みをマリーに向けた。
「お前、本当にすげえな! ……なぁ、また明日、あの広場で会えるか!? お前のその力のこと、もっと俺に教えてくれよ!」
それは、彼の方から差し出された、決定的な「繋がり」の約束だった。
マリーは、大きく見開いたオリーブ色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちるのも気にせず、ただ無意識のうちに、こくりと深く頷いた。
「よし、約束だぞ!」
ナポレオンは満足そうに笑うと、今度こそ路地の奥へと走り去っていった。
バシャバシャと泥を跳ね上げる不格好な足音が、次第に遠ざかっていく。
静寂が戻った路地裏。
冷たい泥の水たまりの中に一人取り残されたマリーは、しかし、もう少しも寒さを感じていなかった。
自分の手のひらをそっと見つめる。
そこにはまだ、彼が残していったやさしい熱が、確かな重みを持って刻み込まれていた。
(また、明日。……私の、神様)
彼女の頭の中で、島中の小動物たちのノイズが、まるで彼を称える賛美歌のように心地よく響き始める。
(この力は、彼のためにある。彼が笑ってくれるなら、私は何だってできる)
彼女の小さな世界は今、この泥の路地裏と、彼が去っていった足跡、そして手のひらに残る熱だけで完全に満たされていた。
遠い国のことや、明日より先の未来のことなど、今の彼女には何一つ必要ない。
ただ、暗闇の中で自分を見つけてくれたこのたった一人の少年のためだけに生きると、純粋に祈っただけだった。
無機質だったマリーの唇に、生まれて初めて、花がほころぶような、ただただ無垢で美しい微笑みが浮かんだ。
この日、コルシカの泥の中で、一人の少女のひたむきな純愛が静かに産声を上げたのだった。




