第5話 氷ができるまで
レグナリナ王国は、海で生きる国だ。
潮の流れ一つで、国庫が傾く。
関税一つで、隣国が牙を剥く。
王妃は飾りではない。
王妃は、外交官であり、経済官であり、国家の顔だ。
アルセリア・ヴァレンティスは、七歳でそれを教えられた。
王太子妃に内定した日のことだ。
「あなたは未来の王妃です」
父の声は誇らしかった。
母は涙を浮かべた。
「レグナリナの希望となるのです」
幼い彼女は、頷いた。
重みは分からなかった。
でも、“期待”だけは分かった。
八歳で航路図を覚えた。
十歳で関税計算を暗記した。
十二歳で三か国語を話し、
十三歳で外交儀礼を完璧にこなした。
十四歳で、王太子の分まで政務資料に目を通した。
王子は言った。
「難しいことは君に任せる」
軽い笑みで。
彼女はそれを否定しなかった。
否定できなかった。
未来の王妃は、愚痴をこぼさない。
そう教えられたから。
王子は女と笑っていた。
側近の娘。
伯爵家の令嬢。
遠国からの留学生。
社交界は知っている。
でも誰も咎めない。
どうせ側室はできる。
王は血を残すものだ。
王妃は耐えるものだ。
そういう国だ。
レグナリナは。
アルセリアは、自分に言い聞かせた。
私は王妃になる。
私は国になる。
だから、感情は不要。
夜。
灯りを落とした部屋で、
枕に顔を埋めたことがある。
音を立てないように。
泣き声は、廊下に漏れる。
未来の王妃が泣くなど、みっともない。
神は味方をしないのだと、
本気で思った夜もあった。
愛情を向けられたことはない。
努力は当然。
成果は義務。
王子は言った。
「君は冷たい」
笑いながら。
それが冗談でないと、分かった。
社交界で囁かれる。
氷の公爵令嬢。
冷たい女。
感情のない婚約者。
王子は困っているらしい。
王子は可哀想だ。
噂は、彼女を削った。
削られた分だけ、彼女は磨いた。
背筋を伸ばし、
声を低く整え、
視線を鋭くし、
完璧を積み上げた。
冷たいと言われるなら、
本当に冷たくなればいい。
そうでなければ、生き残れなかった。
学園でも同じだった。
誰も近づかない。
近づいても続かない。
完璧は孤独だ。
それでも彼女は続けた。
レグナリナの未来のために。
国益のために。
王太子のために。
自分のためではなかった。
回廊で足を止めたあの日。
王子が言った。
「形だけのものだ」
婚約を。
努力を。
十年を。
形だけ。
胸の奥が、静かに凍った。
でも顔は変わらない。
未来の王妃は、表情を崩さない。
ただ一つ。
平民の特待生が言った。
「私は、誰かの代替にはなりません」
あの言葉だけが、耳に残った。
代替。
その言葉を、自分は一度も使ったことがない。
でも。
使われたことはある。
冷たいと呼ばれ続けた少女は、
いつの間にか本当に冷たくなった。
そうしなければ、
立っていられなかったからだ。
それでも。
あの瞬間。
ほんの一瞬だけ。
氷の下で、
何かが動いた。




