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第3話 蒼と黒

 図書室は、海の匂いがする。


 正確には、塩と紙と、インクの匂いだ。


 窓際の長机に、彼女はいた。


 銀糸のような髪が、午後の光を受けて淡く透けている。


 まっすぐに伸びた背筋。

 無駄のない所作。

 頁をめくる指先は静かで、正確だ。


 蒼い瞳が、書面を追う。


 関税改定案。

 南方諸国との通商協定の草案。

 海賊対策費の再配分表。


 ……努力の塊だ。


 近い。


 推しが、三歩先にいる。


 呼吸。整えろ私。


 私の気配に、蒼が上がる。


 冷たい。


 凍った海の色。


 いいや。


 嵐の前の、深い海だ。


「何かご用ですか、リディア・エヴァレット」


 声音は低く、平坦。


 氷の刃のように整っている。


「お初にお目にかかります、アルセリア様」


 礼をする。


 視線は下げすぎない。

 怯えない。

 媚びない。


 近い。


 睫毛、長い。


 落ち着け。


「王太子殿下に選ばれたそうですね」


 頁を閉じる音。


「おめでとうございます」


 感情はない。


 祝福でも、皮肉でもない。


 事実だけを告げる声。


 氷だ。


「光栄だとは、まったく思っておりません」


 私の声は、思ったよりも静かだった。


 震えていない。


 よし。


 蒼が、わずかに揺れる。


 ほんの一瞬。


 驚き。


 でもすぐに消える。


「……そうですか」


 冷たい。


 いつも通りの、公爵令嬢の返答。


「平民でありながら、随分と大きな立場に立たれましたね」


 視線が、私を測る。


 敵を見る目。


 奪う女を見る目。


「立場は望んでおりません」


「では、何を望んで?」


 問いは鋭い。


 試されている。


 ここで間違えれば、完全な敵になる。


「学びに来ただけです」


 蒼が、静かに細められる。


「……王太子殿下は、あなたを高く評価しているそうです」


「評価は不要です。私は、この国の制度を学びたくてここにおります」


 交易。

 関税。

 航路。

 王妃の役割。


 あなたが背負ってきたものを。


 口には出さない。


 沈黙。


 図書室の奥で、頁がめくられる音だけが響く。


 彼女の視線が、私の制服の袖へ落ちる。


 黒い髪が、肩にかかる。


 銀と黒。


 対極。


「……あなたが何を考えているのかは、まだ分かりません」


 氷の声。


「ですが」


 蒼が、真っ直ぐに射抜く。


「レグナリナ王国に害をなすのであれば、容赦はいたしません」


 強い。


 美しい。


 尊い。


「その時は、どうぞ」


 私は微笑まない。


 ただ、まっすぐ返す。


 近い。


 推しが、まっすぐ見ている。


 情緒、保て。


 彼女は数秒、私を見つめたまま動かない。


 そして、静かに書類へ視線を戻す。


「……あなたは、敵ではなさそうですね」


 小さな声。


 独り言のように。


 聞き間違いかもしれない。


 でも、確かに。


 氷の温度が、わずかに下がった。


 私は一礼し、図書室を出る。


 扉が閉まる直前。


 蒼が、もう一度こちらを見た。


 冷たいまま。


 でも。


 完全な拒絶ではなかった。


 廊下に出た瞬間、息が漏れる。


 近い。


 推しが、近すぎる。


 落ち着け。


 これは物語だ。


 そして私は、その主人公だ。


 でも。


 彼女は。


 本の中の悪役令嬢ではない。


 ちゃんと、傷つく人だ。


 ならば。


 守る。


 静かに。


 確実に。

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