第1話 文字と声
ページをめくる指が、震えていた。
『アルセリア・ヴァレンティス。お前との婚約を、ここで破棄する』
その一文を、私は何度読んだだろう。
悪役令嬢がざまぁする物語。
何度も読み返した、私の推しの物語。
でも、この場面だけは何度読んでも腹が立つ。
「……おかしいでしょ」
思わず声が漏れる。
『君は嫉妬に狂い、無実の少女を傷つけた』
無実?
は?
誰が?
クソ王子だろ。
アルセリアは公爵家の令嬢で、未来の王妃。
王子の正式な婚約者だ。
だから彼女は、王妃になるために努力した。
王子の分まで勉強し、
政務を学び、
外交を覚え、
笑顔を作り、
女遊びの尻拭いまでして。
それでも文句ひとつ言わない。
『……それが、王太子殿下のご判断でしたら』
この台詞が、好きだった。
泣かない。
怒鳴らない。
ただ背筋を伸ばして、王子を見据える。
誇り高く、凛として、氷のように静かで。
どうしてそれで断罪されるの。
努力した側が、どうして悪役になるの。
王子は笑う。
自分は悪くないと信じた顔で。
最低だ。
本当に、最低だ。
ページを押さえつける。
このあと彼女はすべてを暴く。
王子の嘘も、取り巻きの裏切りも。
そして自由を手に入れる。
だから、この理不尽は物語としては必要だとわかっている。
……わかっているけど。
彼女が傷つくのは、嫌だ。
絶対に嫌だ。
その瞬間。
ページの文字が、揺れた。
『そして、ヒロインであるリディア・エヴァレットは』
……は?
喉が鳴る。
その一文は、なかった。
ページをめくる。
『リディア・エヴァレットは、王太子の隣に立ち』
『悪役令嬢を追い詰め』
『やがて断罪の引き金を引く』
違う。
そんな描写はない。
私はこの物語を知っている。
台詞も、改行も、全部覚えている。
なのに。
『リディア・エヴァレット』
その名前だけが、やけに濃く浮かび上がる。
――まるで、こちらを見ているみたいに。
「……やめて」
閉じようとしても、本は閉じない。
『処刑されるのは――』
その先の文字が白く塗りつぶされる。
次の瞬間。
「リディア・エヴァレット」
耳元で、男の声が響いた。
「聞いているのかい?」
その言い回しも、間の取り方も、私は知っている。
何度も読んだ、あの断罪の声。
顔を上げる。
そこは、私の部屋ではなかった。
大理石の床。
シャンデリアの光。
ざわめく貴族たち。
目の前には、完璧な笑みを浮かべた王太子。
ルシアン・アルベルト。
その隣に立つ、氷色の瞳。
アルセリア・ヴァレンティス。
彼女が、こちらを見ている。
冷たい。
美しい。
誇り高い。
……尊い。
違う。
状況を整理して。
リディア・エヴァレット。
それは、この物語で悪役令嬢を追い詰める“主人公”。
そして最後に断罪される、ヒロインの名前。
「君には、僕の婚約者候補になってもらう」
は?
血の気が引く。
私は。
推しを追い詰める側の、
リディア・エヴァレットになっている。
……嘘でしょう。なぜ?
怖い。
まだ何も分からない。
でも。
胸の奥で、何かが静かに定まる。
私が彼女を傷つける役なら。
そんな物語、絶対にいらない!




