(6)
「ごめんください」
霊夢は、家の戸を叩いた。
「どうぞ」
という返事を待ってから、中へ入る。
その人は、霊夢を見るや、垂れている目じりをさらに下げて静かにほほ笑む。
「いらっしゃい。霊夢ちゃん」
穏やかで、優しい声。
霊夢はそれを、全身で感じた。
心が安らぐ。
彼女の声は、どんなに荒れた大地でも潤せてしまいそうだ。
「お邪魔します、結子さん」
「上がって。いま、お茶を用意するから」
「えっ。こないだ、安静第一って……」
「いいの。ちょっとは動いたほうがいいって言われてるもの」
結子は土間に降りると、水桶からやかんに水を移して、火鉢にかけた。
霊夢はそれを、ハラハラしながら見守っていた。
妊娠期の女性のことは詳しくないけれど、お腹の中に赤ちゃんがいるということは知っている。
(も、もし転んだりなんかしたら……)
霊夢はたまらず、結子に手を貸した。
「霊夢ちゃんも、私を病人扱いするの?」
「い、いえ。そういうわけじゃ……」
気を遣って手を出しただけなのだが、結子は不満顔。すねて唇を突き出した。
大人の女性なのに、かわいらしい人だ。
だから余計に、手を貸したり差し伸べたくなったりするのだけど、結子はそれを嫌がっている様子。
「洋壱さんもご近所の人たちも、安静にしてなさい寝てなさいって、口うるさくてしかたないのよ。ずっと寝たきりなんて、そっちのほうが体に悪いわ」
心配してくれるのはありがたいけれど、いきなり老け込んだみたいで気が滅入るという結子は、そろそろ三十路である。年齢の話題はタブーな年ごろだ。
(どうしようかな……。手伝えることがあったら手伝うつもりだったのに……)
手助けが必要なことはありますかと、言い出しにくい空気になってしまった。
結子はお茶を飲みながら、楽しそうにおしゃべりをしている。
こうして話し相手になるだけでも、彼女の気分転換に貢献できているのかもしれないけれど、お茶を飲み、話がひと区切りついたらさようならでは申し訳が無い。
というのは言い訳。
本音は、もっと目に見える形で結子の役に立ちたいだけなのだが、そのことを、霊夢本人は自覚していなかった。
妖怪たちと腹の探り合いばかりして、素直な気持ちをぶつけ合うことをしていない弊害である。
土間に視線をやる。
整理整頓が行き届いていて、食器や野菜がきちっと並んでいた。
(あっ)
そこで霊夢はひらめいた。
「結子さん、足らない野菜はありませんか?」
「え……? ええと、大根と、ゴボウと、あとは里芋が心もとないかしら」
「わかりました。買ってきます」
勇んですくっと立ち上がる。
「ええっ?」
結子はびっくりしていたが、霊夢は、はや、草履を履いてしまっていた。
「い、いいのかしら……」
「気にしないでください。どうせ暇だったんですから」
神社でぼけーっとしているくらいなら、里の人のために働くべき。
もっともらしい言いぶんを盾に、霊夢は買いもの籠を持って表に出た。
(ふふふ……。おつかいなんて、いつぶりかしら)
足どりは軽く、心は弾む。
お花見にでも出かけるような気分だ。
幼いころは、こんなちょっとしたお出かけが楽しかった。
一人で、あるいは母と手をつなぎ、嬉々として出かけたものだ。
(それがまぁ、どういう因果なのかしらねぇ……)
あんなに優しかった母親なのに、好きな男ができると態度が一変した。
つき合う人間から影響を受けて人格が変化してしまったか、つき合う人間によって本性を呼び起こされてしまったのか……。
母は、『わたし』に対して日に日に冷たくなっていき、きつく当たるようになり、最後は邪魔者あつかいするようになった。
気づけば『わたし』は独りになっていて、いまは博麗の巫女なぞやっておる。
受け入れ難い人生だが、受け入れる他に無い。
だって、博麗霊夢として生きる以外の選択肢が無いのだから。
この人間の体は、博麗霊夢という魂を吹き込むことで、存在意義を保っているのだから。
「いっそのこと、妖怪たちを幻想郷から駆逐してしまえ!」
ぎょっとして霊夢がそちらを見やると、一緒にいた男が、バカやめろと口をふさいだ。
二人の男は、そば屋から出て来た。
明るいうちから酒をひっかけて、呑みすぎてしまったようだ。足元がおぼつかなくて、ふらふらと千鳥足で歩いている。
「なんだぁ? おまえだって、近ごろの妖怪は腑抜けだって言ってただろうが! 里の人間で徒党を組めば、妖怪ごとき……」
「わかった。わかったからもう黙れ」
つき添っていた男は、霊夢に頭を下げた。
霊夢は涼やかな笑みを返して軽く会釈し、酔っぱらいの言うことなんて、真に受けていませんよという風体をよそおった。
よそおったのだ。
酔っぱらいの言うことを、まじめに聞いていたらキリが無い。そう思ったのは確かだ。
でも、一瞬だけロウソクの火が消えて暗闇に包まれたような、ほのかな不安が胸中をよぎったことも否定できなかった。
人間の里は、塀と、自然の川を利用した水堀で囲まれ、櫓も建てられているので、外敵からの襲撃対策は充分だ。
でも、知能が高く、空を飛ぶことができる妖怪に対しては、まったくの無力。
妖怪たちがその気になれば、人間なんて、赤子の手をひねるように、たちどころに皆殺しにされてしまう。
幻想郷で暮らす人間たちは、潜在的に、その恐怖を抱えている。
さっきの人は、本当に、酔っぱらってたわ言を吐いただけなのだろうか。
酒に酔ったことで、いつもは胸の奥にしまっている恐怖が、表に出てきたのではないか。
人間が妖怪を恐れるのは悪いことでは無い。でも、その恐れが行き過ぎ、他の人間たちに伝播して、そのとおりだ、妖怪たちを倒せと賛同者が増えていったら……。
幻想郷の均衡は崩壊する。
(考えすぎかもしれないけど……)
もしもそれが現実になったら、幻想郷はどうなるのだろう。
均衡が崩壊してしまった世界は、消滅するしかない。
そのとき、博麗霊夢は、存在意義を失う。
子どもたちが、木々の幹にくっついている、蝉の抜け殻を集めているのが目に留まった。
幻想郷が消滅したら、自分も、あの抜け殻のようになるのだ。
成すべき役も無く、生きている意味も無い、からっぽの抜け殻に。
そんなことを考え始めると、言い知れぬ不安が、心に影をさす。
霊夢は、不安から逃げるように歩みを早めていた。




