(2)
「あー、愉快だった」
紫と藍は、霊夢と別れて自宅に帰って来た。
「藍さま! 紫さま! お帰りなさい!」
二人を、猫又の妖怪、橙が出迎えた。
あどけ無い顔立ちの彼女は、藍のように、いずれ八雲の性を与えられることになっている。
「藍さま。お言いつけどおり、洗濯物をたたんでおきました」
この正方形の洋風のキッチンには、家族用の丸テーブル、そして椅子が並んでいる。
部屋の端には畳が敷かれていて、そこに、たたまれた洗濯物が重なっていた。
「おおそうか。ご苦労さん」
藍の命令を忠実にこなした橙は、褒めて褒めてと尻尾を揺らしている。藍は、橙の頭を撫でてやった。
「よしよし、綺麗にたたんであるな。立派なものだ」
「えへへー」
はにかんで照れ笑いをする橙。
「藍さま、もう遊びに行って来てもいいですか?」
「いいとも。でも、危ないことをしては……」
「行って来ます!」
藍が言い終わらないうちに、橙は駆けだし、ドアを開けて出かけてしまった。
「やれやれ。やんちゃなものだ」
藍は、開けっ放しになっていたドアを閉めた。
「藍。貴女、橙に甘いんじゃないの?」
椅子に腰かけていた紫は、いつの間にか、ワインをグラスに注いでいた。
グラスを傾けてルビー色の液体を喉に流す。
「なにをおっしゃいます。橙はあのとおり、素直で健全に育っているじゃありませんか」
自分の教育方針に誤りは無いと胸を張る藍。
「素直すぎるわ。いずれ八雲の性を名乗るのであれば、素直さはむしろ、邪魔になるわ」
だから、厳しく接することも必要なのだと紫は説くが、
「そうおっしゃいますが、紫様だって、橙をかわいがっておいでではありませんか」
玩具箱の中に入っているおもちゃは、すべて紫が橙に与えたものだ。
「それに、時代は移ろい往くものです。いずれ八雲の家にも、橙のような素直さが必要になるかもしれません」
「ものは言いようね」
紫がからになったグラスを持ち上げれば、藍は酌をした。
「掘り出し物だったわね」
「は?」
「霊夢よ」
「ああ。痛快に笑っておいででしたね」
「あの子は、本当におもしろい」
「紫様の慧眼には、恐れ入るばかりです」
本当に、紫はいったい、どこであんな人間を見つけたのだろうか。
「私じゃないわ」
紫は小さく首を振った。
「霊夢は、幻想郷に選ばれたのよ。幻想郷は、次のステージに進みたがっている」
これまで幻想郷は、凶悪な妖怪たちとの血生臭い争いが続いてきたが、いまは安定期にあり、今回のような異変が起こることが、少なくなってきた。
それは、停滞と言っても良い。
幻想郷は、この停滞を打破したがっている。
「そこで霊夢ですか」
「そう。幻想郷は、変化を求めているの」
霊夢の見てくれからは、妖怪たちを力でねじ伏せることができるとは、とても思えない。
しかし、異常なまでに澄んだ瞳と、なぜか興味を惹かれてしまう、不思議な魅力を持った人間だった。
紫は……、いや、幻想郷は、そんな少女に次代を託したのだ。
「ところで、藍。例の件はどうなっているかしら?」
「例のとおっしゃいますと……、あの娘ですか。先方は、早く幻想郷で受け入れてほしいと、毎日のように催促してきています」
「そう。それなら、こちらも準備を急がないとね」
「紫様。僭越ですが……。あの娘は、どこか危険な気がいたします」
「ギブアンドテイク」
「はっ?」
「先方も先方で、変化を求めているのでしょう。だから我が子をこっちによこしたがっている。我々としても、幻想郷に変化を起こしたい。条件は五分五分。賭けとしては悪くないでしょう」
「で、では紫様は、危険を承知で、あえて受け入れると」
「そう。劇薬というやつね」
「しかし、なにかあれば、霊夢に出役してもらうことになります。もし霊夢の手に負えなければ……」
「そこまでの人間だったというだけのこと。代わりの巫女を探せばそれで済む」
紫の瞳は、氷のように冷たい。
「紫様は、霊夢が気に入ったとお見受けいたしますが」
「それとこれとは別よ」
幻想郷のためならば、私情など無用の長物。
情などという見えないものでつながるなど、妖怪の身には不似合いだ。
「すべては、幻想郷の御意のままに」
紫は、冷徹な瞳を漂わせ、グラスの中をからにした。
霧の湖を後にし、魔法の森を抜ければ、やがて人里に至る道がある。
空を飛んで行けば、すぐに人里が見えるのだが、霊夢はそれをせず、魔法の森を歩いていた。
強い理由は無い。
異変を解決したばかりだが、余力は充分に残っている。だから、散歩がてらに、ちょっくらこの辺りを見回ってみようかなと、そのくらいの気持ちだった。
一本道を歩く。
魔法の森は、鬱蒼としていてやや陰気な場所であった。
この一本道のように、拓けているところはまだ良いのだが、道を外れて奥のほうまで行くと、木々が陽の光をさえぎってしまう。
いつの季節でもじめじめとしていて気持ちが悪く、進んで近寄りたいとは思わない。
魔法の森に住居を構えている知り合いは、そんなところにこそ貴重な植生物が生息するのだと言っていたが、霊夢にとっては無価値である。
森を抜けると、かっとした陽の光が霊夢を照りつけた。
吸血鬼が異変を起こしていたときは、奴がすごしやすいように空を曇らせていたが、これでようやく、夏らしくなる。
そうして、季節が正常に循環するのは望ましいことだ。季節の廻りが悪いと、人間にも妖怪にも悪影響をおよぼして、幻想郷の秩序が乱れてしまう。
ただ、いきなり強い日差しで人を照りつけてくるのはやめてほしい。初対面なのに、唐突に距離を詰めてこられたみたいで、良い気分にはならない。
「あーっ! 霊夢! 霊夢だよ!」
きーんと耳の奥にまで響きそうな音声だった。
(うげ……。紫んところのチビ……)
橙が自分のほうに駆けて来るのが見えると、霊夢は踵を返したくなった。
肌が拒否反応を示し、心は何重もの防壁を築き始める。
霊夢は、橙のような無邪気な子どもが苦手なのだ。
「霊夢! ちょっと来て!」
橙は、有無を言わさず霊夢の手をとって引っ張る。
ほら。こういうところなのだ。
こっちが、心に防壁を築いて距離をとろうとしても、子どもはそれに気づかず、平気で近寄ってくる。
こうなってしまうと、邪見に扱うわけにもいかない。
まぁまぁ、相手は子どもなのだからとか、子どものすることなのだから、大目に見てあげようとか、自分だけが大人の対応を強いられるのは、不公平ではなかろうか。
「どうしたってのよ」
「あれ。あの人」
「あの人って……」
橙に連れられた先、道からわずかに外れたところに、人間の女性がうずくまっていて、それを、氷精や妖精がとり囲んでいた。
「あんたたち! なにをしたの!?」
橙も含め、この連中は、魔法の森や霧の湖で遊んでいることが多く、ときたま、人間に悪戯を仕掛けてきたりもするが、軽く驚かせる程度なので、霊夢も黙認していた。
しかし、妖精たちが囲んでいるその女性は、苦しそうに顔を歪めている。
「とうとう人間に手を出したわね……」
ならば、無邪気な妖怪や妖精とはいえ、容赦はしない。
博麗の巫女の名の下、制裁をくだすのみ。
「ち、違うんです……」
女性は、絞り出すように言った。
妖精たちは、女性がうずくまっているのを見つけ、橙が医者を連れてくるまで、彼女の身を守ろうとしていたのだ。
そこに霊夢がやって来たものだから、予定を変更して、霊夢を連れて来た。というわけだ。
(ていうか、博麗の巫女はなんでも屋じゃないんだけど……)
そりゃ、巫女の仕事は妖怪退治だけでは無い。
豊穣祈願や闘病平癒の祈祷もする。
畑仕事や家ちくのお産を手伝うこともある。
でも、原因不明の苦痛を和らげることなんて、できるわけがない。
だって霊夢は、あくまでも巫女なのだから。
「ともかく、誤解して悪かったわ」
霊夢は、橙たちに詫びた。
子どもたちは苦手だが、霊夢は、そういう好き嫌いを越えて、公平に他人に接することができる人間だった。
「大丈夫ですか?」
霊夢はかがんで、女性の顔を覗き込んだ。
すると、上空の太陽のように、顔が熱くなるのを感じた。




