(4)
「どこ……?」
彼女が一歩にじり寄ると、従者は一歩、退いた。
中年の女性の従者だ。
この女性は、自分に反目するような相手は、徹底的にやり込める、嫌味な奴だった。
「どこに、やったの……?」
だが、私がにじり寄ると、従者は退く。顔を青白くさせ、化け物に遭遇したかのように怯え、体を震わせている。
さっきまでは、あんなに得意気に笑っていたくせに。
私のことを、馬鹿にして見下していたくせに。
ちょっと脅かしてやれば、親とはぐれた子こどもみたいに震えている。
私は思った。
なんでこんな奴が、世界に存在しているんだろう。
平気な顔で、他人が嫌がることを口にし、平気な顔をして、他人が嫌がることをする。
そのくせ、罪を咎められると、なぜ、自分がこんなめに遭わなければならないのかと言わんばかり。
他人が大事にしているものを盗んだくせに、罪人の意識が無い。
醜い。
その存在が、醜い。
(きれいにしなきゃ……)
この穢れた存在を除いて、世界を綺麗にしよう。
彼女は、持っていたものを振り回した。
悲鳴があがる。
赤い薔薇の花びらが散るように、朱色の液体が従者の腕を伝って、指先から流れ落ちていく。
あれは、なんだっけ。
ああそうだ。
血だ。
自分の体にも流れているはずだけど、見る機会なんて、そうそう無いから忘れていた。
彼女は知った。
刃物で切りつけると、血が流れるのだと。
従者の顔が、苦痛に歪む。
彼女は知った。
刃物で切りつけられたら痛いのだと。
そうして彼女は、激情することの愚かしさを知った。
安易に、「こうしたい」ということに従うと、他者を傷つけることもあるのだ。
だから、我慢をしないといけない。
我慢をして、感情が表に出るのを抑えないといけない。
それが、大人になるということだ。
※
「上海……。蓬莱……。どこに行ったの……?」
アリスが、うめくように寝言を口にすると、頬に、柔らかな感触を感じた。
それで目が覚める。
上海と蓬莱が、アリスの頬に手を当てていた。
わたしたちはここにいると、アリスに伝えるように。
アリスは、最愛の人形たちの手を握った。
「う……」
体が動いてくれない。
胴体が、ベッドにくっついているみたいだった。
嫌な夢を見たせいで、熟睡できなかった。
上海と蓬莱も、アリスの手を引いて、体を起こすのを手伝ってくれたけれど、人形の力なんて、たかが知れていた。
結局アリスは、自力で重い体を起こす。
脳も、すぐには働いてくれず、ここが現実の世界なのか、夢の世界なのかの線引きができていなかった。
蓬莱が、手鏡を持って来た。
(ひどい顔……)
自分の顔を映してみると、目は充血しているし、金髪は乱れている。
「えっ?」
アリスがそれに気づいたと同時に、上海がハンカチを手渡してきた。
頬に、涙の筋が残っている。
(私、寝ながら泣いていたの?)
アリスは衝撃を受けた。
あの出来事があって以来、滅多なことでは感情を動かさないと決めた。
春の日差しのように、心穏やかに生きるのだと。
だから、感情が沸き上がってくることなんて、あり得ないのだ。
アリスは、少し乱暴にハンカチで頬を拭って、上海に返した。
恥ずかしくて、情けない。
上海と蓬莱に、こんな姿を見られたことも、アリスの自己嫌悪に拍車をかけた。
「着替えるわ。手伝ってくれる?」
遅まきながら、上海と蓬莱に優しくほほ笑みかけた。
だけど、古傷がうずくように胸が痛んで表情が固くなる。
―――ごっこ遊び―――
上海と蓬莱は、どこまでいってもアリスの傀儡だ。
上海も、蓬莱も、他の人形たちも、アリスが手塩にかけて作った、大事な子ども。
でも、人形たちがアリスの生活を補助してくれるのは、アリスの潜在意識が魔法の意図を媒介して、形を動かしているだけ。人形たちが、アリスを慕ってそうしているわけじゃない。
だから、これはごっこ遊び。
人形たちを大切な従者に見立てた、ごっこ遊びの域を出ない。
(違うっ……!)
―――なにが違うのですか、お嬢様?―――
アリスの脳内に、鋭い目つきをした女性の顔が浮かんだ。
その女性が問いかけてくる。
人形たちは、命令に逆らうことをしない。
人形たちは、文句を言うことをしない。
どこまでも自分に従順な人形たちに囲まれ、それらを使役する。
これを、ごっこ遊びと言わずになんと言うのか?
「違う……」
アリスは、上海と蓬莱を抱きかかえてうずくまった。
この子たちは、アリスの子どもであり、親友。
片時もアリスのそばから離れたことが無い、大切な存在。
(なんで、それをわかってくれないの?)
理解されないことが、さみしい。
理解されないことが、くやしい。
理解されないことが、腹立たしい。
これならいっそ、孤独を選んだほうがましだ。
自分の好きなものを穢すもの、犯すもの、理解せぬものを、すべて排除して、大切なものたちを守る。
そうすれば、自分は綺麗な世界に存在することができる。
「きれいにしよう?」
アリスでは無い誰かがつぶやき、
「そうよね。綺麗にすればいいんだわ」
アリスは虚ろに、つぶやきに応じた。
そのとき。
「アリスー」
誰かが、家の玄関をノックしていて、アリスの名を呼んだ。
それでアリスの瞳に、生気が戻る。
「あらっ? いま私、誰かと話していたかしら」
周囲を見渡した。
そこにいるのは上海と蓬莱。
そして、着替えが半端なアリスだけ。
ほとんど、寝起きのままの状態。
コチコチと、絶えず時間を刻む時計の秒針が、時間の経過を証明している。
寝て、起きて、着替えようとしていたときから、いまに至るまでは、アリスにとっては、空白の時間。
その時間が、ばっさり切りとられてしまったようだ。
「アリス―。居るー?」
アリスは慌てて服を着て、窓を開けて顔を出した。
「霊夢?」
八角塔の二階の窓から玄関を見下ろせば、そこに、霊夢の姿を見てとることができた。
どうしてだろうか。
アリスの顔を確認して、ほっとしているようだった。
「ごめんなさい。いま着替えの途中だから、ちょっと待っていて」
冬の早朝の空気は澄んでいるから、声を張らなくても、音が良く通る。
霊夢は右手を上げて、了解の意を示した。
アリスは、上着の上からケープを羽織り、その下にリボンを通して結んだ。
同じく、腰にもピンクのリボンを巻いて、右の腰骨の辺りできゅっと結ぶ。
手縫いの毛糸のスリッパを履き、小走りに階段を下りて、玄関のドアを開けた。
「お待たせ」
「あ、ああうん。平気平気」
玄関先に立っていた霊夢は、気まずそうに、指で頬を搔いている。
アリスは、霊夢の顔を見て、はたと気づいた。
そうだ。
霊夢を待たせてはいけないと、急いでいたから考えがおよばなかった。
霊夢のほうから、アリスの家を訪ねて来るのは初めてなのだ。
めずらしいこともあるものだ。
(それに、こんな朝から訪ねて来るなんて、急用かしら?)
どうしたの、霊夢。
とアリスが発しようとすると、
「どうしたの、アリス」
機先を制するように、霊夢は言った。




