(3)
「お化粧?」
結子は、霊夢が思っていた以上に大きく反応した。
夏に妊娠した結子は、現在、安定期を迎えていた。
もともと回数が少なかったつわりも、すっかり治まっている。
お腹は目立って大きくなっていないが、身体が全体的にふっくらしてきて、それがまた、結子が持っている包容力をひき立てていた。
「そういえば、霊夢ちゃんがお化粧をしているのを、見たことが無いわね」
まずい。
霊夢は既視感を覚えた。
(これは、夏祭りのときと同じだわ……)
化粧品の中には、妊婦の健康に害を与えるものがある。
普段は平気でも、妊娠すると体が繊細になるので、胎児に影響をおよぼす可能性があると、医者から注意を受けていた。
そのため結子は、化粧をするのを控えている。
その反動で、霊夢に化粧をしたいと言い出すのではなかろうか。
「わ、私は、まだ化粧は……」
霊夢は先手を打ったが、それは悪手であった。
「私は……? まだ……?」
以下、結子の解釈。
私は(結子さんよりも若いからぁ)、まだ(化粧はしなくても平気なのぉ)。
「霊夢ちゃん……」
結子は、うふふと笑いながら怒りの波動を放出している。
こうして、ほんのちょっとしたことを気にしてしまうのも、妊娠中で、敏感になっているから……、ではなく、平素から、年齢にまつわる話は、結子に対しては禁句である。
「ち、違っ……。結子さんは、化粧なんかしなくてもお綺麗ですよ」
霊夢は咄嗟に世辞を放った。
それは実際にそうだったので、世辞が苦手な霊夢でも、すらすらと言うことができた。
「あらぁ。霊夢ちゃんったらお上手ね」
それですぐに、機嫌を直す結子。
旦那が奥さんをなだめているようであった。
本来だったら、それは、結子の夫である洋壱が吐くべき台詞なのだろうが、彼は、今日も今日とて、仕事で不在。
それはそうだろう。
だって霊夢は、洋壱が不在のときをねらって、結子を訪ねてきているのだから。
そうすれば、洋壱に代わって結子の様子を見に来る、という口実の下、結子を独り占めすることができる。
旦那さんがいない隙に、家に上がり込む不倫相手みたいでやや不実だが、どうせ、子どもが生まれれば、こうして二人きりで会うこともままならなくなる。
いずれ無くなるこの時間なのだから、いまだけは大目に見てほしい。
「それにしても……」
結子は、指に髪をからめて、耳にかけた。
まっすぐな黒髪だ。
霊夢は、結子の髪が好きだった。
結子の髪は、艶があって美しい。
「霊夢ちゃんが、魔理沙ちゃん以外の人のことを話すの、めずらしいわね」
「そうですか?」
ちょうどさっき会ったから、アリスのことを話のネタにしただけだ。大きな意味を持たせたわけじゃない。
今日の出来事とか、出会った人が、夢に登場する。目覚めてから、そういえば、昨日、あんなことがあったとか、あの人に会ったと思い出して、だから夢に出てきたんだなと気づく。
そのくらいのことなので、深く考えるほどのことじゃない。
でも、
「いいことだと思うわ」
結子は嬉し気に笑った。
霊夢は、なんで結子が嬉しそうにしているか、わからない。
「こちらから見たほうが、良く見えることもあるわ」
結子は、おっとりと言う。
話かたに、彼女の性格がにじみ出ていた。
「なるほど」
たしかに、結子本人は、自分がおおらかだとか、包容力があるとか、意識してしゃべっているわけでは無いだろう。
それでも霊夢は、結子の性格を感じとることができる。
個々人が持っているものは、自然と表に出てきて、本人よりも、他人からのほうが、良く見えるものなのかもしれない。
という理論が成立するならば、霊夢は、なんらかの意図をもって、アリスのことを結子に話したことになる。
「その子のこと、気になるの?」
実年齢は、アリスのほうが、結子よりもはるかに上のはず。
ところがこの人妻は、そんなアリスをつかまえて、その子呼びをする。
それが不自然には感じないからおもしろい。
これも、結子の特性が成せる業か。
「気になる……、気になる……?」
うーんと頭を捻りながら、家の天井を見上げる霊夢。
蜘蛛の巣が張っていたり、埃が溜まっていたり、などということは無い。結子の掃除が行き届いている証拠だ。
適度に運動をして、体重を管理するのも、妊婦にとっては大事なことだ。
結子はその一環として、無理の無い範囲で家事を行うようにしていた。
「霊夢ちゃんは、理詰めで考えるところがあるものね」
「そんなことは無いですよ」
霊夢は、理がおよばない領域があることを、ちゃんと理解している。
「理解しているのと、実践できるのは別よ。霊夢ちゃんは頭が良いから、自分で考えて行動することができるでしょう?」
「ええ。まぁ」
ただ、頭が良いというのは買いかぶりだ。
気づいたときには独りきりになっていて、自分の他に頼れる人がいなかったから、自分で考える癖がついただけだ。
「それは、悪いことでは無いけれど……」
結子は、心配そうに霊夢の顔を覗き込んだ。
「持っている能力が、必ず善いほうに作用するとは限らないわ」
自分で考えること。
自分の頭で解決しようとすること。
それは立派かもしれないけど、道を間違えれば、独りの世界に閉じ籠ってしまう原因にもなりかねない。
「心配しすぎですよ」
霊夢は、結子に心労をかけないように、明るく笑った。
それで結子の心配は、むしろ深くなった。
こういう、大人みたいな気遣いができることが、かえって霊夢を苦しめることになるのではないか。
気が利いて、相手のことを考えることができるのは、素敵なことだ。
でも、考えすぎれは、自分の行動を縛ることになる。
霊夢の年齢を考えれば、結子のことなんて気にかけず、自分の心に従って、思うさま動き回っていたほうが自然だ。
「霊夢ちゃん。一つ、約束してほしいの」
「なんですか?」
「困ったことがあったら、迷わずに相談して」
「……!」
霊夢は返答できなかった。
「えっ……、と」
さて困ったぞ。
どう応じるのが最善なのだろうか。
「ほら。そうやって考える」
「あっ」
「こういうときはね、素直にお姉さんに甘えればいいの」
「お、おねえさん……?」
「なに?」
「いえ。なんでも……」
危ない危ない。
また年齢にまつわる失言をするところだったと、霊夢がうつむいたとき。
結子の右手が、霊夢の頭を撫で始めた。
「うわっ!?」
霊夢は驚いて後ずさった。
「あら。嫌だったかしら?」
「い、いえ……。嫌とか、そういうんじゃ……」
背中に冷汗が伝っている。
突然のことだったので、すごくびっくりした。
「嫌じゃないなら、いいじゃない」
結子は、おいでおいでと手招きをした。
続きをさせろということだろう。
「私、そんなふうに子ども扱いされる歳じゃないんですけど……」
結子にしてみれば、霊夢はまだまだ若輩者だろうけど、頭を撫でてもらうような歳でも無い。
「気にしなくていいわよ。私がしたいんだから」
「えぇー……」
ずいぶんと勝手な言いぐさだ。
(でも……)
「わたしが、こうしたい」というのは、すごく本質的な気がした。
なぜ、その行動を選択したのか。
ということに対する答えを、頭の中だけで導き出すのには、限界がある。
制御しようにもしきれない、衝動。
それは、言語とか、数字とか、理論とか……。はっきりとしたもので説明することができないので、とても難解なもののように思える。
でも、突き詰めてみれば、「そうしたいから」のひと言で済んでしまうのかもしれない。
さっき霊夢は、なにが最善なのかなんて難しく考えていたけれど、それはとても、愚かなことなのかもしれない。
単純に、「そうしたい」に従って動くほうが、賢いのではないだろうか。
(結局、そんなもんなのかもね)
霊夢は体を滑らせて、結子に近寄った。
手が伸びてきて、霊夢の頭を這う。
恥ずかしいし、くすぐったい。
でも。
(ずっとこうしていたいな)
いつまでも、結子の愛情を一身に受けていたい。
そんなことを考えるなんて、子どもみたいだ。
だけどそれは、素直な衝動だから。
大人ぶって、否定をしようとしたところで、どうしようも無い。
そうしてわがままな自分を否定しなければ、ちょっとは気が楽になるものだ。




