(1)
「この……、泥棒娘がっ!」
がつんっ!
魔理沙の背中が、壁に激しくぶち当たった。
その衝撃で、写真立てが床に落ちた。
写真に写っている母親と目が合う。
魔理沙の記憶の中で、母はいつも優しく笑っている。
魔理沙がやんちゃをしても、笑って許してくれた、大好きな母。
落ちてしまった写真立てを仏壇に戻すと、背後から肩を掴まれ、強制的に振り向かされて、頬に拳が伸びてくる。
がっ……、とも、ばきっ……、とも言えない、例えようが無い音が鳴った。
本気でぶん殴られた人間だけにしか、聞くことができない音なんだろうなと魔理沙は思った。
「おいッ! 八卦炉をどこに隠した!」
言わねぇと、もう一発いくぞと顔をまっ赤にして脅してくる。
魔理沙は、臆することなくにらみ返す。
この男には、怒気はあっても度胸は無い。絵に書いたような小者だ。
その証拠に、魔理沙がまっすぐに視線を返しただけで怯んでいる。
しょせん、力づくでねじ伏せることができる者や、気の小さい者を相手にするときにしか、強く出ることはできない。
自分よりも強い相手には、へこへこと腰を低くして、卑屈に立ち回る。
人間としての尊厳を失った、生ける屍。
そんな男をせせら笑いながら、ぺっと床に唾を吐いてやった。
錆の味がした。
唾には、血が混じっていた。
「おまえっ! 親に向かって、その態度はなんだ!?」
男は拳を繰り出した。
殴られた魔理沙の体が、床に叩きつけられる。
憐れな男だ。
いま、こいつが拠り所にしているのは、自分は魔理沙の親なのだという空虚な自尊心だけ。自分は親なのだから、魔理沙よりも立場が上なのだと自己暗示をかけているのだ。
ところが、その上下関係を魔理沙が認めないものだから、焦って暴力に訴えかけてきた。
「情けない男だな」
「なに……?」
「情けない男だって言ってるんだよ」
乱暴な言葉や暴力で脅しをかけて、相手を従わせることが強さだと妄信している父親に、魔理沙は、しっかりと腹から声を出して反抗した。
男っぽい言葉遣いでだ。
それが、せめてもの親孝行。
女を殴っている罪悪感を薄めてやろうという、魔理沙なりの気遣いだった。
「こいつっ……」
父親の手が、魔理沙の胸ぐらをつかんだときだった。
「霧雨さん! なにやってるんですか!?」
騒ぎを聞きつけた、近所の人たちが居間に乱入してきた。
「いやっ……。お騒がせして申し訳ありません。この馬鹿が言うことを聞かないものですから……」
魔理沙から手を離した父親は、へらへら笑いながら詫びた。
さっきまで、あんなにも怒っていたくせに。
「そういうところが、情けないってんだよ」
自分が生み出した怒りの感情なのに、最後まで責任を持つことができない。あまつさえ、魔理沙に責任転嫁しようとする。
こうすることが正しいという信念があるのなら、世間体なんか気にしない。
父親には、そういう気高さが無い。
いや、正確に言うと、父は気高さを失ってしまった。
(昔は、こんなじゃ無かったのになぁ……)
昔から、荒っぽいもの言いをする人だったけど、それは、彼の豪胆な性格を表したものだったはずだ。
ところが、いまではただの乱暴者。
ちょっと怒ったくらいで、他人に手を上げるような人ではなかったのに。
まして、
「言わせておけばっ……。ぜんぶ、おまえのせいだからな! おまえが勝手気ままに遊び回るから、母さんの心労が溜まって、早くに死んじまったんだ!」
責任を他人に押しつけるような人では、絶対に無かった。
商いを営んでいる店から客が遠ざかったのも、魔理沙が手伝わないから。
魔理沙が、魔術なんかにうつつを抜かして、店のことをほったらかしにしたせいで、商売が上手くいかなくなった。
すべて、魔理沙が悪いのだと父は信じ込んでいる。
店のことは俺に任せて、好きなことをしたらいいと言ってくれたことなど、とうに忘れている。
なにがどう狂って、こうなってしまったのか。
「霧雨さん。あんた、最近どうかしてるよ。あんなに誠実に商売をしていたのに」
「まったくだ。粗悪品を高値で客に売っているみたいじゃないか」
「それに、ガラの悪い連中とつき合って、金貸しを始める算段をしてるって聞いたよ」
「昔からのつき合いがあるから、私たちも大目に見てきたけれど、これ以上、あんたが変わっていくようだったら、こっちも、つき合いかたを考えないといけない」
近所の人たちは、口々に父を諫めた。
しかし、父親は魔理沙だけを見据え、怒りに震えている。
自分が非難されているのも、魔理沙のせいだと思っているのだ。
(惨めだな)
父は、妻という支えを失い、感情の矛先を魔理沙に向けることで、どうにか心の均衡を保とうとしている。
そんな父親は不憫で、不運だ。
母親が生きてさえいれば、こんなふうにはならなかったのだから。
(もう限界か……)
だけど、魔理沙にだって、自分の人生がある。
父のことは可哀そうだと思うけれど、ひとつしかないこの身体に傷をつけてまで、家に残ろうと考えることはできない。
(外へ出よう)
そうだ、そうしよう。
大丈夫。自分には魔術があるのだから。
無限の可能性を感じる、あの魔術の世界にこの身をあずけて生きよう。
そう決めた魔理沙は、この日、持てるだけの魔術書と、一つの魔具を持ち出して生家を飛び出した。
母親の写真も持ち出そうとしたけれど、仏壇に置いたままにした。
母の優しい笑顔を見て、昔の父親に戻ってほしい。
という、微かな希望を込めて。
※
「スペルカードルール?」
「そうよー。苦労したんだから」
霊夢は魔理沙に笑いかけた。
今日の霊夢の機嫌はすこぶる良い。
「魔理沙の気持ちが、少しわかった気がするわ」
なんて言いながら、ニコニコ笑っている。
霊夢は、里の大人たちには業務的な笑顔で接するが、魔理沙のように親しい者に対しては、あんまり愛想が良くない。
だいたいが無表情だし、魔理沙から話題を振らなければ、ひたすら無言を貫くときもある。
機嫌が悪いときなど、お茶も出してくれない。
ところが。
(まさか、羊羹まで出てくるとは……)
今日は、お茶請けに羊羹が添えられた。
それも、里で有名な和菓子屋の羊羹。
いつもの霊夢だったら、戸棚の奥に隠して、一人で食べようとするはずだ。絶対にだ。
霊夢は神職者のくせに、がめつくて独占欲が強く、自己中心的なところがあって、他人に奉仕しようという気持ちが薄い。
つき合いの長い魔理沙は、それを知っている。
それが今日はどうだ。
惜しげも無く、ぶ厚く切られた羊羹が菓子皿に乗っているし、
「魔理沙。今日、泊っていくでしょ?」
積極的に魔理沙に絡んでくるし、
「美味しいお酒と肴を用意するから、楽しみにしててね」
異常にご奉仕精神が旺盛だし、
(もう、誰だよおまえ)
気味が悪いったらありゃしない。
「それにしても、憑きものが落ちたみたいに清々しい気分だわ」
霊夢はそんなことをほざいているが、魔理沙にしてみれば、別の人格に憑りつかれているようにしか見えなかった。
「と、ところでさっきの話だが……」
魔理沙は話題をきり変えて、会話の主導権を握ろうとした。
今日の霊夢をほっておいたら、どんな気持の悪い奉仕を受けるかわかったものじゃない。
「さっきの?」
「ほら、スペルカードルールとかいうやつ」
魔理沙は、黒文字で羊羹を切って、口の中に迎え入れた。
上質な餡子が舌の上で踊って、さらりと溶けた。しつこさなどまったく感じさせない、絶妙の甘さだ。
「聞きたい?」
それを聞くか聞かないかの判断は、魔理沙にゆだねている体だったが、聞いてほしくてしかたが無いという顔をしていた。
それなら、さっさと話せばいいものを、得意気にもったいつけてきた。
「ああ。聞かせてくれ」
うざったいが、魔理沙としても興味があったので、ここは我慢。
それに、せっかく霊夢の機嫌が良いのに、気分を害するような発言をして、羊羹を没収されたら大変だ。
最低でも、この上等な羊羹を食べ終わるまでは辛抱しよう。
(うむ。それが賢明だな)
魔理沙が胸の内でうなずくと、霊夢は苦労談を語り始めた。




