(4)
霊夢は、境内の掃き掃除をしていた。
(空、少しだけ高くなったかしら?)
掃き掃除の手を止めて、右手で陽の光をさえぎりながら、幻想郷の空を見上げた。
今日も太陽が、ギラギラと地面を照りつけ、蝉たちは、耳が痛くなりそうな大きな声で鳴いている。
しかし、よくよく注意をして見てみれば、なるほど、たしかに空が、昨日よりもわずかに高い。
遥かかなたからだけど、秋の足音が聞こえてきそう。
幻想郷の東の果て、小高い丘の上に、博麗神社は建っている。
丘の上からは、人間の里を一望することができた。
博麗の巫女は、代々、この神社で季節の変化を感じながら、幻想郷を見守ってきたのだ。
(なんていうのは、おおげさか)
博麗の巫女の仕事は多岐にわたるけれど、神社に詰めているのが仕事のようなものだ。
こないだ、紫も言っていたが、幻想郷を覆っている博麗大結界の源は、博麗の巫女。
だから極端な話、霊夢はここで、普通に生活をしてくれればいいのだ。それで、幻想郷は維持されるのだから。
ひととおり、境内の掃き掃除は終わった。
陽は、まだ高い。
かすかに秋の足音が聞こえてきたとはいえ、夏の太陽はまだまだ健在。
今日も、非常に暑い。
霊夢は、生活用水をくみ上げるための井戸と、参拝客が手を洗うための手水舎が併設されている、東屋の中に入った。
日陰に入ったからといって、体感温度が劇的に変化するわけでは無いが、手水舎から流れる清らかな水の音が、心に涼風を吹かせる。
無論、この手水舎を利用して参拝をする者は、今日も0人である。
手の甲で、額に浮いた汗をぬぐってから、力を込めて、井戸のポンプを押した。
地下から水が汲み上げられて、新鮮な冷水が、石の水槽に溜まる。
「いい時代になったわねぇ」
しみじみと言う。
以前は、桶を井戸の中に入れては汲み上げ、入れては汲み上げを繰り返して、ようやく水を貯めることができた。
しかし、妖怪の山の河童が、井戸の改良を施してくれたおかげで、ポンプを押せば、一気に水が流れてくるようになった。
どういう原理かは知らない。
ただし、河童たちの魂胆は知っている。
三日後に行われる夏祭りと同じだ。
先の吸血鬼異変に、まったく関与できなかったので、霊夢の心証を良くしておきたい。といったところだろう。
露骨な賄賂だ。
(ま。生活が便利になったから、文句は無いけどね)
霊夢は、桶を水で満たし、再び日なたに出た。
柄杓で水をすくい、地面に打つ。
太陽に熱された石畳の石から、むわりと湯気が立って、すぐに消えた。
桶がからになったら、また水を汲みなおして地面に打つ。
それを、無心で何回も繰り返す。
今日は、里には行かない。
正確には、結子には会いに行かない。
そう決めていた。
なぜならば、三日後に、浴衣を着付けてもらうために家を訪ねるから。
霊夢はそうして、上手く(いっているかどうかはわからないが)間を開けて結子を訪ねるようにしていた。
それは、本心は毎日会いたい。
結子と会うにつれ、その想いはさらに強くなっていく。
最近などは、毎日毎分毎秒会いたいと思うようになってしまった。
完全に中毒症状である。
それだけ霊夢は、結子に惹かれていた。
でも、連続して会いに行くのは自重。
会いたい欲求を殺して、ぐっと我慢。
衝動のままに行動するなんて、子どもみたいだから。
(それに、毎日会いに来られたって、結子さんも迷惑だろうし……)
霊夢は、ぴちゃりと水をまいた。
いや、もしかしたら、いまのペースで会いに来られるのも迷惑かもしれない。
結子は人が善いから、いつ訪ねて行っても、笑顔で出迎えてくれるはずだ。
でも内心は、迷惑かもしれない。
と考えると、足を里に向けるのがためらわれる。
あの人に、嫌われたくない。
あの人を失いたくない。
あの人の愛情を貪りたい。
どこからともなく、やや穢れた欲情がやって来る。
それを祓うように、霊夢は柄杓を振って水をまいた。
なんてわがまま。
衣食住が満たされ、果たすべき役割を与えられているというのに、この上、まだなにかを欲するのか。
なんてわがままなんだろう。
霊夢は自分に腹が立った。
桶がからになったので、水を汲みに戻った。
すると、めずらしく手水舎を利用している客がいた。
「あらあら。いい御身分ね」
苛立っていたこともあって、嫌味な言いかたになった。
しかし客人は、霊夢の嫌味なんて気にせず、手水舎の中をすいすい泳いでいる。
霊夢はそれを、柄杓ですくった。
「こちとら勤労に勤しんでるってのに、涼しい場所で遊泳なんて、うらやましい限りだわ。殿様蛙に改名したらどうかしら?」
柄杓の中を覗き込むと、そこには、一匹の雨蛙がいた。
肌の乾燥は命取りとばかり、水を求めてやって来たのだろう。
霊夢は、柄杓の水ごと、蛙を日なたにほっぽり投げてやろうかと思って、やめた。
さすがに大人気が無い。
蛙を手水舎に帰してやる。
大人気が無い。大人気が無い。大人気が無い……。
子どもみたいなことをしたくない。
どうも近ごろは、大人気が無いとか、子どもみたいなことをしたくないとか、そういう言葉に縛られている気がする。ゴミ箱のゴミを踏みつけて奥におしやるように、この呪文にも似た言葉で、自分の気持ちを抑え込むことが多い。
そうやって押し込めたところで、ゴミ箱の底で、気持ちが膨らんでいくだけ。なんの解決にもなりゃしないのに。
なにかこう、溜め込んだ気持ちが無くなる、スカッとするような気分転換は無いだろうか。
「そうだわ」
水の中を悠然と泳いでいる蛙を見ていて、霊夢は思いついた。
ぱちんと指を鳴らすと、さっそく桶に水を入れて、母屋へと向かう。
母屋から帰って来ると、また桶に水を入れて母屋へ。
そうしているうちに、首筋がじっとりと汗で濡れた。
「水風呂で汗を流すために汗をかいてたら、本末転倒な気がするけど……」
自分の行動に、自分でツッコミを入れる。
「でも、これはあれよね。冷たいお酒を美味しく呑むために、運動して汗をかくのと同じよね」
自分の行動を自分で肯定し、弾む足どりで脱衣所に入る。
独り暮らしをしているせいで、独り言が多くなる霊夢であった。
「さーて、水風呂水風呂―」
霊夢は、交差させた両手で上着をつまみ、脱ぎ始めた。
おへそと、きゅっとくびれたわき腹が顔を出したそのときである。
誠に残念ながら、脱衣の手が止まった。
原因は、籠の中に入っていた一枚の紙である。
<至急、お会いしたく候 八雲紫>
簡潔な一文だったが、霊夢を激情させるには充分だった。
ここにこの走り書きが入っているということは、霊夢が風呂場に来ることを予見していたか、あるいは、どこかで見ていたか。
どっちにしても、霊夢が苦労して水を貯めていることも、風呂に入ろうとしていたことも、知っていたというのは間違いが無い。
なんと意地の悪い。
風呂に水を貯めるまえに知らせてくれれば、こんなに汗をかくことは無かったのに。
ぐわっと頭の上まで籠を持ちあげた霊夢は、それを床に叩きつけてやろうとして、自重した。
現在、紫に対しては、若干の引けめがある。それを突っつかれたらたまらない。
先方が会いたいと言ってきたならば、おとなしく従ったほうがいい。
怒りを鎮めた霊夢は、
「汗くらい拭かせてちょうだい。そのくらいならいいでしょう?」
どこかに向かって言う。
すると、どこからともなく紙が舞い落ちてくる。
指と指で挟んで受け取ったその紙には、<承知>とだけ書かれていた。
どこでどうやって霊夢の生活を見張っているのだろうか。
気にはなるけれど、追求はしない。
その真相を知るのは、とても気味が悪いような気がするからだ。
(世の中、知らなくてもいいなら、知らないほうがいいこともあるのよね)
と思いつつ、その澄んだ瞳は真実を見つけようとしてしまう。
めんどうくさい体を授かってしまったものだ。




