序
幻想郷。
普段、我々が生活をしている社会とは隔離された別天地をそう呼ぶ。
その世界では、山も、森も、のびのびと緑を茂らせ、川の水は汚れを知らない。
雲を隠すような無粋な建物はこれ無く、大空は、遥かに遠い。
そんな理想郷は、博麗大結界と呼ばれる結界で守られ、外界と決別していた。
しかし、幻想郷の東の果てにだけは、結界の効果が及んでいない。
そこはちょうど、幻想郷と、我々の世界との境界線にあたり、結界の代わりに、深い深い森が、外界からの侵入者を拒んでいた。
稀に、森を抜けて幻想郷に辿り着ける者もいるにはいるが、それはごく少数。森に迷い込んだなら、餓死するか、あるいは、もっと無残な最期が待っているか……。
不運にも、少女はそんな森に入り込んでしまった。
落ち葉を踏みしめ、辺りの様子をうかがう。
異常なまでに澄んだ瞳で。
「なんて曖昧な空気。節操が無いっていうか……」
少女は、ただの人間では無かった。
不思議な瞳と力の持ち主だった。
その力でもって、この森には、相反する二つの空気が混在していることを察知した。
一つは、少女がもといた世界から流れてくる、薄汚くて優しい空気。
もう一つは、森の奥から流れてくる、清くて恐ろしい空気。
「どうしようかしら?」
言いながら、歩みを止めることはしない。
それは、自分の意志に従ったものだったのか。
それとも、自分以外のなにかに従ったのか。
道無き坂道を登る。
少女が存在していた世界の空気が薄くなっていく。
(夜……)
少女がこの森に足を踏み入れたときから、日はとっぷりと暮れていた。
でも少女は、いまにして、ようやく夜を自覚した。
頼りになるのは、星のままたく光と、月の、ぼう……、とした青白い光のみ。
人工的な灯りはなに一つ無い。
本物の夜だ。
「美しいわね」
眼前に広がる純然たる闇を、少女はそう形容した。
風変りな人間である。
ふと、木の枝が風に揺られた。
暗闇の中、ゆらゆらと揺れている枝は、手を振って、少女を漆黒の中へと誘っているようにも見える。
それはまるで、黄泉への旅立ち。
自分と闇とが同化していくのがわかる。
自分が自分ではなくなり、大自然へとこの身を還元する。
それすなわち、死。
ただの屍に成り下がる行為。
そんな感触を覚えながら、少女は、さらに歩を進める。
恐怖心など無いのだろうか。
(どうせ、死んだようなもんだし)
少女は、着のみ着のまま森の中に放り捨てられたのだった。
衣服は、紅のプリーツスカートと、白いノースリーブのシャツという恰好で、着替えはもちろん、野宿の役に立ちそうな道具も持っていない。
通信機器も無く、金銭どころか食料も無い。
こんな状態で、どうして何日も生き延びることができようか。
それに、生き長らえたところでなんになる。
自分には、帰る家が無い。
親に捨てられた身なのだ。
人が消えたという噂が絶えない、神隠しの名所として知られるこの森は、捨て子をするにはうってつけの場所。
そんな場所に捨てられた自分は、親というよりも、世界に必要とされなかったのだ。
もともと存在していた世界を離れ、森の奥に進む以外の選択肢は無い。
「うっ……!?」
すごく嫌な予感がした。
ゆらりと暗闇が蠢いた。
ずりっ、ずりっと、なにかを引きずるような音が響く。
(人間……?)
動いている影の輪郭がなんとなく見えてくると、それは人間のようであった。
膝をつき、足を引きずるようにして、なんとか動いている。少女のように森をさまよっているうち、体力を奪われてしまったのだろう。
ううゥ……。
別の音がした。
(野犬だわ)
それは犬の唸り声だとすぐにわかった。
森を住みかとし、弱い人間を襲って生きる糧とする野犬は、狐並みにずる賢い。
犬は、少女ではなく、膝をついているほうの人間に狙いをつけていた。
人間は、目も見えないようだ。
犬が駆けて来る音は聞こえるが、きょろきょろと左右を見渡すのみで、なんら対応をしようとしない。
ようやく、手のひらを犬に向けて抵抗の意を示すも、その程度で、鋭い犬歯を防げるはずも無い。
(食べられるっ!)
少女がそう思ったときだった。
人間の口が、顔の大きさまで大きく開いた。
そこで少女は気づいた。
人間に見えるあれは、妖怪だ。
創作物や、空想の中にしか存在しないはずの、人外の者。
あんぐりと口を開けて、野犬を丸飲みにしようとしている。
普通ならば、ありえない出来事。
でも少女は、その景色が、とても現実味のあるものだと感じた。
妖怪は、犬を飲み込んだ。
野犬が悲鳴をあげる。
少女は慌てて目を閉じた。
それは恐怖心からの行動では無い。
愛しい者同士の性交渉のような、神聖な営みを見てはならない。という気持ちからだった。
弱き者の肉を、強き者が喰らう。
それは、古ゆかしい世界の法。
処女の純潔がごとき、守られなければならぬ掟だ。
肉を食らい、血をすする音が止み、少女が目を開けると、犬は骨だけになっていた。
ずりっ、ずりっ。
妖怪が、少女の存在に気づいた。
手のひらを向けてくる。
「うわ……」
手で口を押える少女。
盲目だと思っていた妖怪は、手のひらに目がついていたのだ。
顔の、両の目があるべきはずの箇所はえぐれてくぼみ、黒ずんでいる。
頭には毛が無く、顔面は痩せこけて細長い。
ぼろぼろの着物をまとった盲目の老人が、弱々しく足を引きずりながら、助けを求めて森をさまよっている。そうとしか見えない。
でもそれは、ひ弱な老人だと油断させ、餌を狩るための罠。
それが妖怪。
己の満足のためなら、いかなる手段をも用いる。他者を騙しても、陥れても、心が痛むことは無い。
それが妖怪なのだと、少女は胸に刻みつけた。
若くて瑞々しい肌を値踏みするように、目が少女を凝視する。
少女は、その目にしっかりと視線を返した。
ずりっ……、ずりっ……。
足を引きずって移動しているので、妖怪の動きは鈍い。
走って逃げれば逃げきれるかもしれない。
でも少女は、動かなかった。
捕食されるのを待った。
自殺願望が沸いてきたわけでも、自暴自棄になったわけでも無い。
ここで食われるのが正しいと思ったのだ。
夜に出歩き、無防備に魑魅魍魎の巣に足を踏み入れた、自分が悪いのだと。
妖怪が近づいてくる。
(死ぬ……、か)
少女にとってそれは、ごく自然なことだった。
花は咲いたら必ず散る。
それと同じだ。
人間は、生まれたら死ななければならない。
どこで、どのような死を迎えるかは、人それぞれ。
自分はここで、妖怪に食われて死ぬ。
それしきのことなのだ。
「ギャッ!?」
突如、暗闇の中から閃光が飛び出してきて妖怪の体を貫いた。
奴は血を流して苦しみ、うめき、崩れ落ちた。
「ご無事かしら?」
澄んだ声だった。
「この辺は、貴女のような人間がよく迷い込んでくるから、味を占めて住みかにしてしまったのね」
女性は、持っていた傘を、ぐしゃっと妖怪に突き立てた。
「グギャァァァッ!」
妖怪の充血した目が、憎々しげに彼女の姿を捉えたが、女性は美しい顔をわずかも乱さなかった。
女性が傘を引き抜くと、妖怪の命はこと切れた。
「あら嫌だ。汚れちゃったわ」
白い日傘を開くと、付着していた鮮血が、ぱっと散った。
「綺麗……」
少女は漏らした。
少女の瞳には、飛び散った鮮血が、夜空に咲いた花火のように映ったのだ。
女性は、そんな少女に興味を抱いたようだった。
「よろしければ、もといた世界に送って差し上げるわよ」
慈悲深い声色。
少女の瞳が、神秘的なアメジスト色をした、女性の瞳を見つめる。
「送ってくれないこともあるのかしら?」
少女にはわかった。
この女性も人外の者だ。
顔も、豊かな胸もその他の肢体も、美しく整いすぎている。
それらは、常に移ろい往く世界の理に反し、衰えることは無い。
女性の体は、散ることの無い華だ。
まさに、創作物や空想の中でしか生きていけないはずの存在。
女性は、謳うように、高らかに笑った。
「さっきから、おもしろいことを言うお嬢さんね。お名前を教えていただけるかしら」
「失くしたわ」
名前も。
帰る家も。
世界に存在する理由も。
すべて失くした。
ここにいるのは、からっぽの抜け殻。
「ますます興味深い。詳しくお聞かせ願いたいわ」
女性が指を鳴らすと、なにも無い空間に、ぽっかりと穴が開いた。
そこに骸を晒している、目無しの妖怪の口と、なんら変わりない。
「お入りなさいな」
女性は、穴の中に少女を手招いた。
人外の者は、こうして人間を誘って喰らう。
「おもしろいお嬢さん。私が名前を授けてあげましょうか?」
名前だけではない。
帰るべき家も。
世界に存在する理由も。
すべて授けてくれると彼女は言った。
女性はそうして、少女の欲を満たし、そののちに危害を加えてくるつもりだ。
それでもいい。
どうせ、もといた世界には否定されてしまった身なのだ。
この上に、失うものなどなにも無い。
少女は、穴の中に入った。
「ようこそ、幻想郷へ」
それが始まり。




